エピローグ 湖面の輝き
――エピローグ
夜は、静かに満ちていた。
「こうして……王子様とお姫様は、幸せに暮らしましたとさ……」
本を閉じる音が、やわらかく響く。
ベッドの上。
モルテリアは、後ろからノエルを抱きしめたまま、そっと吐息を落とした。
腕の中にある温もり。
細く、やわらかな体。
月光を溶かしたような銀の髪が、胸元でさらりと揺れる。
「お母さん……もう一冊……」
眠たげな声。
けれど――
「……まだ、全然……眠くない……」
その言葉と同時に、大きなあくび。
モルテリアは、思わず笑みをこぼした。
「もう寝ようか」
自然に出た声音。
かつての冷ややかさは、もうそこにはない。
それは、どこにでもいる母親の声だった。
「えー……」
不満げに唇を尖らせるノエル。
その仕草さえ、愛おしい。
「また明日ね」
やさしく囁く。
セリナは少し考え――
そして、上目遣いで見上げた。
「じゃあ……いっしょに寝てくれる……?」
「うん」
迷いはない。
「みんなで寝よう。同じ部屋で」
頭を撫でる。
指先に伝わる感触に、ほんの一瞬だけ、胸がきしむ。
(……似ている)
だが、それを口にすることはない。
「じゃあ……お母さんと同じベッド」
「いいよ」
抱き寄せる。
少し強く。
「いっしょに寝よう」
やがて。
ノエルの寝息が、静かに整っていく。
モルテリアは、その寝顔を見つめる。
今では――
この腕の中のほうが、安心するのだろう。
それが嬉しくて。
少しだけ、寂しい。
そっと、額に口づける。
「……おやすみ」
瞼を閉じる。
――気配が動いた。
隣のベッド。
憲仁が、静かに起き上がる。
「どこに行くんだ」
目を閉じたまま、声を投げる。
「ああ……少し、夜風に当たってくる」
穏やかな声。
「すぐに帰る」
ドアが、音を立てずに閉まる。
モルテリアは、動かない。
ただ――
小さく、息を吐く。
「……行ってこい」
それが誰に向けた言葉なのか。
――自分でも、わかっていた。
湖。
あの日、すべてが始まった場所。
月が、水面を白く照らしている。
風は穏やかで、波紋はゆっくりと広がる。
その中央に――
“影”があった。
水の上に、立つように。
銀の長い髪。
白い衣。
どこか現実離れした、神々しさ。
「……うまくいったようね」
声が、静かに届く。
「ああ」
憲仁は、短く応じた。
「セラフィナ……これでいいんだよな」
「うん」
微笑む。
すべてを知ったような、やさしい微笑み。
「ごめんね」
「そばにいられなくて」
その言葉に、風がわずかに揺れる。
「……ああ」
それ以上の言葉は出ない。
「ノエルのこと、お願いね」
「もちろんだ」
「モルテリアのことも」
声が、少しだけ柔らぐ。
「大事にしてあげて」
「……ああ」
「大切な妹なの」
その言葉に、憲仁の視線がわずかに落ちる。
「わかっている」
静かな肯定。
「ほんとは……そばにいたいけど」
セラフィナは空を見上げる。
「その頃には、もういない」
「ああ……」
憲仁は、目を伏せる。
「そっちは、まだ三年前――」
一拍。
「俺が、お前を喪った“直後”の時間だろ」
「うん」
静かに、頷く。
「呪のほとんどは、私が吸収したけど……」
「あなたのスキルでもね……延命が精一杯だった…」
「……そうか」
沈黙。
水面が、揺れる。
やがて。
セラフィナが、ふっと笑った。
「初めて知ったわ」
「あなたって、そんな顔するのね」
「……どんな顔だ」
「センチメンタル」
一瞬。
憲仁の瞳が、わずかに揺れる。
「……なんで、わかる」
セラフィナは、やさしく微笑む。
「だって――」
一歩、近づく。
触れられない距離で、止まり。
「泣いてるじゃない」
「……そうか」
頬を伝うものに、ようやく気づく。
触れてもいないのに。
その感覚だけが、やけに生々しい。
静かに、息を吐く。
「じゃあ……これで、お別れ」
「ああ」
それ以上、言葉はいらない。
光が――
一筋、弾ける。
夜空へと、昇っていく。
消える。
静かに。
何も残さず。
憲仁は、しばらくそこに立ち尽くし――
やがて、踵を返す。
振り返らない。
二度と。
振り返らない。
帰る場所がある。
灯りのともる家。
待っている者たち。
差し出された、ささやかな日常。
――仕組まれたものだとしても。
それでも。
この温もりだけは、本物だ。
呪は消えた。
だが――
繋がりだけは、消えなかった。
静かに、確かに。
それは、ここにある。




