序章
目覚まし時計のアラームより早く、俺は目覚めた。
今日は6月17日。あれから6年も経つのか。部屋に貼ってあるカレンダーを眺めながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
目覚まし時計のアラームをオフにして、洗面台に向かった。顔を洗って部屋に戻り、カーテンを開けた。雨のせいだろうか。外はまだ薄暗かった。
上着を着てベランダに出た。親が起きないうちに、ベランダで一服するのが俺の日課だ。というのも、親が起きてしまうと色々面倒だからだ。当然といえば当然、まだ19歳である息子の喫煙を許す親など、そうはいまい。しかし、寝起きの一服は最高にうまいのだ。頭の血管が引き締まる感覚が今日という日のやる気を呼び起こしてくれる。それに、今日は雨を見ていたい気分だ。吸い終わったあとも、空と地面を結ぶ無数の雨の線を、ぼんやりと見つめていた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。もう空はすっかりと明るくなっていた。中に戻ると母親が起きていた。
「あら、直人。あんた起きていたの。おはよう。」
「あぁ、おはよう。」
「あんた最近、大学あんまり行ってないでしょう。今日は?」
「ああ。今日も行かない。明日は授業があるけど、それ以降はあんまりないな。7月の1日に春学期の期末テストがあるから、その時には行くよ。」
「ふーん。くれぐれも授業さぼりなさんなよ。」
「ああ、分かっているよ。」
もう期末テストの期間になるのか、と俺は熱い緑茶をすすった。俺はだいたい朝は食欲がないので、熱い緑茶を1杯すすって、部屋に戻るか学校に行くかだ。母親もそれが分かっているので、俺の分の朝ごはんは用意しないのである。しかし、今日はバタートーストでも食べてみるかと思った。俺はバタートーストに対して少しこだわりがある。バターはトーストを焼く後より、焼く前に塗った方が断然おいしいのだ。
トーストを焼いて、むさぼっていると、おもむろに母親が話しかけてきた。
「直人、そういえばあんた、彼女とどうなったのよ?」
珍しくそんなことを聞いてくるので、噎せてしまった。
「いや…別に普通だよ。」
実は1カ月程前にふられていたのだが、こういう時はいつも嘘をついてしまう。
「普通って…あんた冷たいから頑張らないとすぐふられるわよ。」
図星である。母親は何も見ていないようにみえて、実はしっかりと息子の事を見ているものなのだ。思えばいつも、ふられる時は同じような理由が多い。何を考えているのかが読めない、付き合いがドライすぎて耐えられない、先が見えない、などだ。しかし、俺にしてみれば、そんなことを言われても困るのだ。自分だって、自身の「先」が見えないのに…。
6月18日の朝、小田急線の改札で俺は電車を待っていた。この駅は午前10時頃が一番空いているのだ。今日の授業は13時からだ。家から大学までは1時間半で行けるので、この時間では少し早いのだが、大学に着く前に経由駅のカフェで一休みするのが俺の小さな贅沢なのだ。カフェはいつも、新百合ヶ丘のベローチェと決めている。禁煙が騒がれている中で、そこには喫煙席が多数あるので、俺には最高の休憩所なのだ。ポールモールに火をつけてふかしていると、嫌なことを忘れられる気がした。
大学に着くと、キャンパス内は様々な色の傘であふれていた。俺は大学という場所が、あまり好きではない。人ごみというものが、どうも落ち着かないのだ。
しかし、人ごみや人付き合いが嫌いな俺も一応、あるサークルに属している。もっとも、最近ではあまり顔を出していない。しかし、たまには顔を出さなければ。授業が終わったら久しぶりに行ってみるか。俺はそう思い6号館の法学部塔へ向かった。
授業が終わり、俺はサークルが集まっている食堂へ向かった。それぞれのサークルのメンバーは自分たちの領域を獲得するために朝早くから大学の食堂へ来て、テーブルをできるだけ多く確保するのだ。確保したテーブルは、そのサークルの「たまり場」として使用することができる。とはいっても、サークルごとに大体の「たまり場」は暗黙の了解で決められているのだ。だから俺たちは迷うことなく自分たちのサークルのたまり場を探し出すことができる。俺は、自分の入っているサークル「SWOTs」のたまり場へ行くと、3年生でSWOTsの会長でもある、秋間健人が話しかけてきた。
「おう。直人じゃねーか。久しぶりだな。来てくれたんか。」
「はい、こんにちは。あまり顔出さなくてすいません。」
秋間が笑う。
「別に大丈夫だって。まあ、顔出したくなったらいつでも来いよ。」
「ありがとうございます。」
俺は、少しバツが悪そうな顔をした。この秋間はいつもヘラヘラしているように見えるが、実は常に周りをよく見ている。俺が、人付き合いが嫌いなことなど見抜かれているに違いない。だからこそ、たまに顔を出した時は優しく接してくれるのだ。秋間は、そういう才覚が見込まれて、会長に抜擢されたのだろう。
たまり場を見渡していると、後ろから誰かに声をかけられた。
「あれ?直人?」
俺は振り向いた。そこには山本奈保がいた。奈保は珍しく仲の良い同級生だ。
「おう。」
「久しぶり。あんた、相変わらず無愛想ね。」
奈保は結構、スッパリと物事を言うタイプだ。俺は奈保のそういうところが気に入っていた。
「うるせーよ。どうせお前も久しぶりにサークルに顔を出したんだろ?」
「あら、ばれたか。今日はきまぐれでね。」
奈保はそう言ってサークルの輪の中に入っていった。奈保も俺と同様、たまにしかサークルに顔を出さないタイプなのだが、奈保がたまり場に来る時は、彼女は常にみんなの輪の中心にいる。確かに、彼女は初対面でも気兼ねなく話せる、気さくな性格なのだ。俺はたまり場の端で、秋間先輩と話していた。
サークルを抜けて、帰り際にキャンパスの喫煙所でタバコを吸っていると、奈保が青い傘をさして目の前を通った。鞄を肩にかけている。どうやら奈保も帰りらしい。
「おい、奈保。」
俺は思わず、声をかけた。
「なんだ、直人か。とっくに帰ったのかと思ってた。」
彼女は振り返って、驚いたような顔を見せた。
「タバコやめたら?あんた中学から吸ってるんでしょ?」
臭そうな顔をしながら彼女は言った。
「母親みたいな事言うなよ。おいしいんだ。」
俺はうんざりして言った。女はいつでもタバコを嫌がる。
「でも、直人が吸っているタバコの銘柄って、いつも同じだよね。これ、なんて読むの?・・・パール…モール?」
「ばかやろ、ポールモールだよ。」
タバコを吸わない人がこの銘柄を見た時、ほとんどの人が「パールモール」と読んでしまう。英語でPALL MALLと書いてあるから、そう読み間違えても無理はないのだが。
「ふーん。この銘柄がそんなにおいしいんだ。」
「まあ、もうずっとこれだからな。」
「だめ人間ね。」
「うるせーよ。」
彼女は、意味もなく呼びとめても何気なく会話することができる。これも彼女が好かれる理由の1つなのだろうな、と俺は思った。
「何かあったの?」
彼女が突然に訪ねてきたので、俺は度肝を抜かれた。
「は?」
「いや、なんか嫌なことでもあったのかとって思ってさ。なんか雰囲気がいつもと違う気がしたからさ。」
俺は、はっとした。しかし、顔に出さないように「最近、彼女にふられてさ。」とごまかした。
「そーなの?そりゃショックだね。まあ元気出しなよ。私も最近やばいんだよね。」
奈保は納得した様子だったので俺はほっとした。まさか奈保があのことを知っているはずがない…。全く、女の勘というものは末恐ろしい。
帰りの電車はとても空いていた。乗り継ぎもうまくいき、1時間程で最寄り駅に着くことができた。コンビニでも寄って帰るかと思い、南口の改札から出た。俺の家は西口なので、コンビニに寄って帰ると遠回りなのだが、今日はどこかに寄りたい気分だった。コンビニに着くと、制服を着た中学生が大勢、コンビニの外の、屋根の下に座ってチキンを食べていた。そのガラの悪そうな中学生達の姿に懐かしさを覚えた。俺もそんな時期があったな。この中学生達もいつかは更生して、真面目に高校や大学に通うことになるのだろうか。そう考えると何故か胸が苦しくなり、俺は急いでコンビニの中に入った。数分後、俺は熱い缶コーヒーを買って出た。コンビニの前の灰皿の前で、俺はタバコに火をつけた。やっぱりコーヒーとタバコ最高の組み合わせだ。タバコをふかしていると、目の前にビニール傘をさした一人の女性が現れた。俺は驚いて、目を逸らしてしまった。馬鹿な。彼女がここにいるなんて…。
彼女の名前は相川祐希。俺がここ6年間、最も会いたくなかった人物だ。
俺はコンビニに寄ったことを後悔した。
「あ、直人、久しぶりだね。」
相川は何気なく話しかけてきた。
「おう。久しぶり。」
俺も何気ない雰囲気を装った。
「えーと、じゃあまたね。」
彼女はそう言って傘を畳んでコンビニの中に入って行ったので、俺はほっとした。俺は急いでタバコの火をもみ消してここを離れようとした。しかし、後ろから彼女が声をかけてきた。
「あ、直人。ちょっと待って。」
俺は仕方なく立ち止り、振り返った。
「ん?どうした?」
「いや、あの…昨日の雄也の命日行った?」
やはりこの話題が出てくると思った。俺が最も恐れていた話題だ。
「いや、行ってないよ。」
彼女は悲しそうな目をしていた。俺には、それを見るのが耐え難かった。
「どうして?1度も行ってないでしょ?」
俺は気分を落ち着かせようとして、タバコに火をつけた。
「墓の場所を知らないんだ。」
「嘘でしょ。ちゃんと行ってあげてよ。雄也は、直人に1番来てほしいはずだよ。」
タバコを持つ手が震えているのを感じた。そんな訳ないじゃないか。俺はひどい頭痛を感じた。
「もうこの話はやめよう。気をつけて帰れよ。」
彼女は何か言いたそうだったが、観念したように少しだけ頷いた。
「そっか…。じゃあね。」
俺は傘をひらいて、すぐさまここを離れた。
俺は折りたたみベッドの上で寝ていた。起き上がると、頬に涙が垂れた。寝ながら泣くなんて老人みたいだな、と自嘲しながら俺はいつものように洗面台へ向かった。鏡に写る俺の顔は、いつにも増してひどかった。俺は自分の顔を見ながら、相川の、あの悲しそうな目を思い出していた。自分はこのままではいけないような気がした。あれからもう6年も経ったのだ。俺はもう変わらなければならない。部屋に戻り、俺は再び目を閉じた。俺は決心をした。
次の日の夕方、俺はレンタカーの店にいた。5日間、レンタカーで車を借りると、一番小さい車種で3万円弱らしい。俺は、一週間の一人旅をすることに決めた。これで俺の中の何が変わるのかは分からない。もしかしたら、何も変わらないのかもしれない。しかし、俺は何かを行動に移したかったのだ。幸い、大学の定期テストが始まるまでは、あと11日もある。親は、なんとか言いくるめた。電車での旅の方が安上がりなのかもしれないが、俺は自分の速度で旅をしたかった。車の窓から、様々な景色を見て、自分が何を思い、感じるのかを知りたかった。俺はなんの計画もないまま、レンタカーのアクセルを踏んだ。




