第4話「推しの笑顔のためにヒロインをプロデュースする」
大食堂での絶望的なバグ発生から数時間が経過した。
王立セレスティア学院の荘厳な時計塔が、放課後を告げる重厚な鐘の音を夕暮れの空に響かせている。
オレンジ色に染まった西日が、廊下の磨き上げられた大理石の床に長い影を落としていた。
私はエルヴェティア様の自室の片隅で、壁の木目とひたすら睨み合っている。
膝を揃え、背筋を伸ばし、両手を膝の上で固く握りしめたまま、微動だにしない。
部屋の空気は、張り詰めた弓の弦のように冷たく重い。
窓枠をすり抜ける風の音が、やけに大きく耳に響く。
カウチソファに腰掛けたエルヴェティア様は、手元のティーカップをソーサーに置くこともなく、ただ無言で私を見下ろしている。
紅茶のベルガモットの香りが、甘く切なく鼻腔をくすぐる。
「……で」
氷の結晶が落ちたような、静かで鋭い声が部屋の沈黙を破った。
私の肩がビクッと跳ねる。
「王太子殿下にトマトスープをぶちまけるという、建国以来の偉業を成し遂げた気分はどう」
「穴があったら入りたいどころか、自ら土を掘ってマントルまで潜りたい気分です」
私は即答する。
エルヴェティア様は小さくため息をつき、陶器のカップをカチャリと音を立ててテーブルに置いた。
サファイアブルーの瞳が、呆れと疲労を滲ませて私を射抜く。
「退学にならなかったのが奇跡ね。殿下が寛大な措置を取ってくださったから良かったものの、一歩間違えれば不敬罪でローゼヴァルト家まで巻き込まれるところだったわ」
「本当に、申し訳ございません。私の不注意で、あのような大惨事を……」
私は深く頭を下げる。
首の後ろに冷たい汗が伝うのを感じる。
しかし、私の脳内では全く別の思考が猛烈な勢いで回転していた。
『違う。あれは不注意じゃない。私の計画では私がスープを被るはずだった。殿下が突然背後に現れるなんて、ゲームのどこにも書いていなかった。あの王太子、本来ならあんなモブだらけの大食堂に来るようなキャラじゃないのに』
言い訳を声に出すわけにはいかない。
ただ、結果としてエルヴェティア様の第一印象最悪フラグをへし折ることには成功したのだ。
フロリアさんとの敵対関係が生まれる最初のきっかけは、完全に消滅した。
犠牲になったのは王太子殿下の制服と、私の心臓の寿命だけだ。
安い代償だ。
「……もういいわ。済んだことを責めても仕方ない」
エルヴェティア様は椅子の背もたれに深く寄りかかり、窓の外の夕景に視線を向ける。
その横顔は、侯爵令嬢の冷たい仮面が少しだけ外れ、年相応の疲労感を漂わせている。
私はゆっくりと顔を上げ、推しの美しい横顔を見つめる。
今だ。
フラグを折っただけでは足りない。
バッドエンドを完全に回避するためには、根本的な原因を取り除く必要がある。
エルヴェティア様が孤立し、悪役として完成してしまう未来を変えなければならない。
「エルヴェティア様。一つ、ご提案がございます」
私の声に、彼女はゆっくりと視線を戻す。
「提案?」
「はい。フロリア様と、もう少し距離を縮めてみませんか」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
エルヴェティア様の瞳が、驚きから明確な嫌悪へと変わっていく。
彼女の細い指先が、ドレスの膝の上の布地をきつく握りしめる。
「……あなた、自分が何を言っているのかわかっているの。あの平民の娘と、私が?」
「直感です」
私は真顔で、一歩も引かずに言い切る。
「エルヴェティア様とフロリア様は、根っこが似ている気がして。お互いに違う環境で育ったからこそ、理解し合える部分があるのではないかと」
『嘘ではない。ゲームの全ルートを解析し、プロデューサーの裏設定インタビューまで読み込んだ私の結論だ。二人は対極にいるようで、実は孤独を抱えるという点で完全に一致している。環境さえ違えば絶対に親友になれたという設定の裏付けがある』
エルヴェティア様は冷笑を浮かべる。
その唇の端が、微かに震えているのを見逃さない。
「意味がわからないわ。私が、あんな無作法でやかましい平民と似ているとでも言いたいの。身の程をわきまえなさい、響音」
拒絶の言葉が突き刺さる。
しかし、その声の震えは、怒りよりも恐れに近い。
自分と違う世界で、太陽のように周囲を惹きつけるフロリアへの、無意識の嫉妬とコンプレックス。
私は静かに立ち上がり、彼女の正面へと歩み寄る。
床を擦る私の靴音が、静かな部屋に響く。
「似ていますよ。誰にも本音を見せられない不器用なところが、そっくりです」
「……っ」
「明日、少しだけ。ほんの少しだけでいいんです。廊下ですれ違ったとき、視線を逸らさずに挨拶をしてみてください。私のお願いは、それだけです」
エルヴェティア様は何も答えない。
ただ、窓から差し込む夕日が、彼女の金糸の髪を赤く染め上げている。
長い沈黙の後、彼女はゆっくりと目を閉じ、深い深呼吸を一つした。
「……あなたの直感など、何の役にも立たないわ。でも」
彼女は目を開け、私を真っ直ぐに見据える。
「スープの一件の貸しよ。一度だけ、あなたの言う通りにしてあげる」
私の胸の奥で、歓喜のファンファーレが鳴り響く。
推しが、ヒロインへの歩み寄りを了承した。
これは歴史的快挙だ。
◆ ◆ ◆
翌日の昼休み。
大理石の廊下には、午後の授業に向かう生徒たちの足音が絶え間なく響いている。
私はエルヴェティア様の斜め後ろを歩きながら、前方からやってくる桃色の髪の少女の姿を捉えた。
フロリア・サンベルだ。
彼女は数人の平民出身の友人たちと笑い合いながら、こちらへ向かって歩いてくる。
エルヴェティア様の足取りが、ほんの一瞬だけ鈍る。
冷たい仮面を被った横顔が、わずかに緊張で強張っているのがわかる。
私は気づかれないように、背後から彼女の背中をポンと叩く。
エルヴェティア様は小さく息を吸い込み、姿勢を正した。
二人の距離が、5メートル、3メートルと縮まっていく。
周囲の生徒たちが、侯爵令嬢の存在に気づき、慌てて道を譲る。
フロリアも気づき、立ち止まって軽く頭を下げる。
いつもなら、エルヴェティア様はそのまま視線も合わせずに通り過ぎる場面だ。
しかし。
「ごきげんよう、サンベルさん」
静かな、しかし確かな声が廊下に響いた。
フロリアの目が、見開かれる。
エルヴェティア様は立ち止まり、冷たい視線の代わりに、ほんの0.3ミリだけ口角を上げた微笑を浮かべていた。
それは、計算された貴族の笑みではない、不器用でぎこちない、けれど本物の歩み寄りだった。
「え……あ、ご、ごきげんよう、ローゼヴァルト様」
フロリアは慌てて深く頭を下げる。
その顔は驚きで真っ赤に染まっている。
エルヴェティア様はそれ以上何も言わず、再び歩き出す。
すれ違いざま、彼女の指先がわずかに震えているのを、私ははっきりと見た。
『完璧だ。エルヴェティア様、最高の演技……いや、本心からの挨拶。尊すぎる。涙が出そう』
私は心の中で拍手喝采を送りながら、彼女の背中を追う。
通り過ぎた後、そっと振り返ると、フロリアが信じられないものを見るような顔でこちらの背中を見送っていた。
◆フロリア視点
胸の奥が、どきどきと鳴っている。
私の周りの友人たちも、皆ポカンと口を開けたまま立ち尽くしている。
「今、ローゼヴァルト様が……挨拶を返してくれた?」
友人の一人が、信じられないというように呟く。
私も同じ気持ちだった。
入学してから1ヶ月。
ローゼヴァルト侯爵令嬢は、常に氷を纏ったような存在だった。
近づくことさえ許されない、別世界の住人。
私たち平民の生徒を、まるで道端の石ころのようにしか見ていないと思っていた。
でも、今の微笑みは違った。
少しだけぎこちなくて、でも確かに私を人間として認識してくれた笑み。
『どういうこと。あの完璧な悪役令嬢が、私に微笑んだ。世界が終わるの?』
私の頭の中は混乱でいっぱいだ。
昨日の食堂でのスープの一件。
あの時も、彼女の付き人である白瀬響音さんが、私を庇うように飛び出してきてくれた。
結果的に王太子殿下にスープがかかるという大惨事になったけれど、響音さんは自分の身を呈して私を守ろうとしてくれたように見えた。
そして今日、ローゼヴァルト様本人の態度の変化。
「……もしかして」
私は、ローゼヴァルト様の斜め後ろを歩く、灰色のエプロンドレスの少女の背中を見つめる。
地味で目立たない、名もなき付き人。
けれど、あの小さな背中が、この学院の冷たい空気を少しずつ変えようとしているように見えた。
太陽の光がステンドグラスを抜け、彼女たちの歩く道を色鮮やかに照らしている。
私は自分の胸に手を当てる。
なんだか、とてもワクワクするような、新しい物語が始まるような予感がしていた。




