エピローグ「推し活モブの私が、自分の物語のヒロインになるまで」
王立セレスティア学院に、本格的な夏がやってきた。
石造りの校舎の壁を這う蔦は青々と茂り、中庭の木陰には涼を求める生徒たちの姿が増えている。
太陽の光は強さを増し、石畳を歩くたびに微かな熱気が靴底から伝わってくる。
響音は、新調されたばかりの純白のエプロンドレスの裾を軽く持ち上げながら、大理石の廊下を足早に歩いていた。
この純白のドレスは、侯爵家の付き人としてではなく、王太子直属の非公式顧問、そして婚約者候補としての地位を示す特別なものだ。
すれ違う生徒たちは、かつてのような好奇や嫉妬の視線ではなく、純粋な敬意と少しの畏れを持って道を開けていく。
響音はその対応にいまだに慣れず、申し訳なさそうにペコペコと頭を下げながら進む。
「響音」
廊下の角を曲がったところで、不意に名前を呼ばれた。
振り返ると、そこには紺色の制服を着崩したファビウスと、その隣で笑うフロリアの姿があった。
フロリアの手には、食堂の新作であるフルーツタルトが乗った紙箱が握られている。
「これから生徒会室? 殿下にこき使われてるんじゃないの?」
ファビウスが軽口を叩きながら近づいてくる。
響音は苦笑して首を横に振った。
「とんでもないです。予算案の確認が終わらなくて、私が勝手に残っているだけです」
「響音さんは真面目すぎるのよ! はいこれ、差し入れ! 殿下と一緒に食べてね」
フロリアが満面の笑みで紙箱を押し付けてくる。
タルトの甘いベリーの香りが、鼻腔をくすぐる。
「ありがとうございます、フロリア様。ファビウス様も、お二人はこれから?」
「僕たちは中庭でピクニックだよ。彼女がどうしても外で食べたいって言うからさ」
ファビウスは肩をすくめて見せるが、その顔はどこか嬉しそうだ。
二人の間に漂う空気は、もう完全にゲームのシナリオ外の、自然で穏やかな恋人同士のそれだった。
響音は手を振って二人を見送る。
背中を見つめながら、響音の胸の奥にじんわりと温かいものが広がる。
ヒロインは、自分の足で自分の隣に立つ相手を選んだのだ。
響音は再び歩き出し、生徒会室の前に到着する。
重厚なマホガニーの扉をノックしようと手を伸ばした瞬間、中からアルデウスの声が聞こえた。
「その件は、ローゼヴァルト侯爵の承認が下りた。これで魔法植物の保護区域は確保できるだろう」
続いて、透き通るような声が応じる。
「感謝いたします、殿下。これで、貴重な種子を次の世代に残すことができますわ」
エルヴェティア様だ。
響音はそっと扉を少しだけ開け、隙間から中を覗き込む。
アルデウスのデスクの前で、エルヴェティアが資料を抱えて立っている。
その隣には、資料の補足をするレナルドの姿がある。
王太子、生徒会長、そして魔法植物の研究生。
かつての悪役令嬢は、その圧倒的な知識と行動力で、今や王国の環境保護政策に深く関わる重要な人物となっていた。
「響音、そこにいるのだろう。入ってこい」
アルデウスの鋭い声に、響音はビクッと肩を跳ねさせ、慌てて扉を開けた。
アルデウスは羽根ペンを置き、微かに口角を上げている。
エルヴェティアは振り返り、響音の姿を認めると、柔らかく微笑んだ。
「ごきげんよう、響音。相変わらず、扉の外で様子を窺う癖は抜けないのね」
「申し訳ございません。お話し中のようでしたので」
響音はタルトの箱を胸に抱きながら、深く頭を下げる。
エルヴェティアは響音に歩み寄り、その純白のエプロンドレスの襟元を優しく直してくれた。
至近距離で香る薔薇の香水の匂いに、響音は思わず顔を綻ばせる。
「少し見ないうちに、随分と堂々とするようになったわね」
エルヴェティアのサファイアブルーの瞳が、響音を誇らしげに見つめている。
「私なんて、まだまだです。エルヴェティア様こそ、最近ますますお美しくなられて」
「おだてても何も出ないわよ。レナルド、行きましょう。温室の温度調整の時間よ」
「ええ。殿下、失礼いたします」
レナルドが深く一礼し、エルヴェティアと共に生徒会室を後にする。
重い扉が閉まり、室内には響音とアルデウスの二人きりになった。
響音はタルトの箱をデスクの上に置き、アルデウスの正面に立つ。
「フロリア様からの差し入れです。休憩にいたしましょうか」
「ああ、そうしよう」
アルデウスは立ち上がり、響音の傍らへ歩み寄る。
窓から差し込む夏の強い光が、彼の黄金の髪を眩しく照らしている。
アルデウスは自然な動作で響音の腰に手を回し、自分の方へと引き寄せた。
彼の胸板の硬い感触と、白檀の香りが響音を包み込む。
響音は抗うことなく、その腕の中に身を委ねた。
心拍数が跳ね上がるのを感じるが、もうかつてのような逃げ出したい恐怖はない。
ただ、満ち足りた幸福感だけがそこにある。
「響音」
頭上から降ってくる低く甘い声。
「はい、アルデウスさん」
響音が顔を上げて微笑むと、アルデウスの紫水晶の瞳が、これ以上ないほど優しく細められた。
彼の長い指先が、響音の頬をそっと撫でる。
「君が私の隣にいてくれる限り、私の世界に計算は必要ない」
その真っ直ぐな言葉に、響音は頬を赤く染めながら、小さく頷いた。
ゲームのシナリオは完全に消滅し、モブの役目も終わった。
響音は今、自分自身の物語の中心で、ヒロインとして確かな足取りで立っている。
窓の外から吹き込む夏の風が、二人の未来を祝福するように、優しく通り抜けていった。




