第1話「推し活の始まりは冷たい石の床の上で」
登場人物紹介
◇白瀬 響音
元・乙女ゲームの廃課金ファン。
転生先は名前すら存在しない悪役令嬢の付き人。
推しのバッドエンドを回避するため全力で裏方に徹するはずが、無自覚な天然行動と前世の知識で全フラグを粉砕していく。
◇エルヴェティア・ローゼヴァルト
響音の推しであり、本来のシナリオでは破滅を迎える悪役令嬢。
表向きは冷酷で完璧な令嬢を演じているが、裏では家の重圧に苦しむ孤独な少女。
響音の献身に触れ、少しずつ本来の自分を取り戻していく。
◇アルデウス・フォン・セレステ
セレスティア王国の王太子であり、本来のメイン攻略対象。
生まれてからすべてが計算された世界で生きてきたため、響音という本物のイレギュラーに激しく惹かれていく。
◇フロリア・サンベル
本来のゲームのヒロイン。
明るく真っ直ぐな性格。
響音の行動を盛大に勘違いし、謎のライバル宣言をしてくるが、基本的にはめちゃくちゃいい子。
◇レナルド・オーウェント
生徒会長であり攻略対象の一人。
頭脳派でクールな性格だが、響音の行動を裏の裏まで深読みし、未知の戦略家として警戒と興味を抱く。
◇ファビウス・ディーン
公爵子息であり攻略対象の一人。
陽気なムードメーカー。
響音に素顔を見抜かれたことで衝撃を受け、なぜか懐いてしまう。
瞼の裏に鋭い朝陽が突き刺さる。
固いマットレスの感触が背中から伝わり、私はゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは見慣れたワンルームの天井ではなく、太い木の梁がむき出しになった質素な屋根裏部屋だ。
鼻をくすぐるのは微かな埃の匂いと、朝露に濡れた木々の香りだ。
薄い麻の掛け布団を押しのけ、私は体を起こす。
冷たい石造りの床に素足を下ろすと、ヒヤリとした温度が足の裏から全身へと駆け抜ける。
部屋の隅に置かれた小さな木枠の鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、黒髪を後ろで一つに結んだ、どこにでもいそうな平凡な少女の姿だ。
茶色い瞳、少しだけそばかすのある鼻の頭、そして地味な灰色のエプロンドレス。
『嘘でしょ、これってあのエンディングCGの端っこに1秒だけ映る背景キャラの顔だ』
鏡の縁を掴む指先に力が入る。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされる音を耳の奥で聞きながら、私は必死に呼吸を整える。
電車にはねられる直前の強烈な光と衝撃の記憶が、脳裏を鮮明に過ぎ去っていく。
私は死んだ。
そして転生した。
私が前世で命を削り、給料のすべてを注ぎ込んでいた乙女ゲームの世界に。
架空の王国セレスティアを舞台にした、貴族と平民が交差する王立セレスティア学院での甘く切ない恋愛模様を描く、エターナル・セレスティアの世界だ。
鏡に映るこの顔には、名前すら設定されていない。
設定資料集の片隅に、悪役令嬢の付き人Aという記号だけで記載されていた存在だ。
主人公をいじめる悪役令嬢の後ろで、ただ黙って頭を下げているだけのモブキャラクター。
『なんでヒロインじゃないの、なんで攻略対象の妹とかじゃないの、なんでよりによって悪役令嬢の付き人なの』
私は両手で顔を覆う。
絶望ではない。
手のひらの奥で、私の唇は歓喜に震え、どうしようもなく歪んでいく。
『最高だ。推しの隣に合法的にいられる特等席じゃないか』
私の推しは、このゲームの全ルートに登場する悪役令嬢、エルヴェティア・ローゼヴァルトだ。
誇り高く、冷酷で、主人公のフロリアをことごとく貶めようとする完璧な悪役。
学院祭の舞台で公衆の面前でフロリアを辱め、最後は王太子からの婚約破棄と国外追放という悲惨な末路を辿る少女。
誰もが彼女を憎まれ役として消費した。
けれど私は、彼女の冷たい瞳の奥に隠された、押しつぶされそうな孤独を知っている。
家の重圧、誰にも本音を言うことができない環境、そして密かに魔法植物を愛する不器用で優しい素顔を。
私は設定資料集と開発者インタビューを隅から隅まで読み込み、彼女の隠された背景をすべて理解していた。
彼女を救済するルートが存在しないことに絶望し、運営に長文の要望書を送り続けた日々が蘇る。
『私が、エルヴェティア様を救う』
両手を下ろし、鏡の中の平凡な少女を真っ直ぐに見据える。
彼女を待ち受けるのは、孤独と破滅の未来だ。
そんなものは絶対に許さない。
彼女の笑顔を取り戻すためなら、私は自分のすべてを投げ打つ覚悟がある。
私はモブだ。
物語の表舞台に立つ必要はない。
裏からすべてのフラグをへし折り、シナリオを徹底的に書き換えて、彼女に最高の結末をプレゼントするのだ。
部屋の壁に掛けられたカレンダーに目を向ける。
王立セレスティア学院の入学式まで、あと3日。
ゲームの物語が動き出す最初の1ヶ月間を、私は準備期間として有効に使わなければならない。
私は背筋を伸ばし、灰色のエプロンドレスのシワを丁寧に手で伸ばす。
生地のざらついた感触が、これが現実なのだと私に教えてくれる。
窓の外から、朝を告げる教会の鐘の音が低く響き渡る。
『待っていてください、エルヴェティア様』
私は部屋の扉の分厚い真鍮のドアノブをしっかりと握りしめる。
金属の冷たさが心地よい。
扉を押し開けると、長い廊下の向こうから焼きたてのパンとスープの香りが漂ってくる。
使用人たちの忙しない足音が、遠くの階段から聞こえてくる。
私の推し活が、今ここから始まるのだ。
私は廊下に足を踏み出し、静かに歩き始める。
誰の記憶にも残らない、名もなき付き人としての第一歩を。
◆ ◆ ◆
本邸の廊下は、私が寝起きする使用人棟とは比べ物にならないほど豪華で、足元の分厚い絨毯は歩くたびに音を吸い込む。
壁に飾られた風景画や、等間隔に配置された魔石のランプが、ローゼヴァルト侯爵家の途方もない財力を示している。
私は銀のトレイにお茶のセットを乗せ、廊下の突き当たりにある重厚な両開きの扉の前で立ち止まる。
心臓がトレイの上で跳ねているのではないかと思うほど、胸の奥が騒がしい。
息を深く吸い込み、肺の隅々まで空気を満たしてから、私はゆっくりと息を吐き出す。
トレイを持つ手にわずかに汗が滲むのを感じながら、私は静かにノックの音を3回響かせる。
「入れ」
扉の向こうから、冷ややかで透き通るような声が聞こえる。
その声を聞いた瞬間、私の背筋に電流のような震えが走る。
ゲームのスピーカー越しに何万回と聞いた、あの声だ。
私は震える手でドアノブを回し、重い扉をゆっくりと押し開ける。
部屋の中は、朝の光で満ちていた。
大きな窓のそばに置かれたカウチソファに、一人の少女が腰掛けている。
陽光を浴びてきらきらと輝くプラチナブロンドの髪。
陶器のように滑らかで白い肌。
氷のように冷たく、それでいて吸い込まれそうなほど深いサファイアブルーの瞳。
エルヴェティア・ローゼヴァルト。
私の世界で一番尊い存在が、今、目の前に息づいている。
『美しい。ゲームのCGより3割増し、いや5割増しで美しい。生きててよかった。いや死んで転生したんだけど。とにかく最高だ』
脳内で暴走する感情を分厚い鉄の扉の奥に封じ込め、私は静かに部屋の中へと進み出る。
テーブルの上にトレイを置き、私は深く、これ以上ないほど完璧な礼をとる。
「白瀬響音と申します。本日からエルヴェティア様のお傍でお仕えすることを、光栄に存じます」
私の声は、驚くほど落ち着いていた。
エルヴェティア様はカウチソファから身動き一つせず、ただ冷たい視線だけを私に向ける。
虫けらを見るような、あるいは価値のない石ころを見るような、徹底的に温度のない眼差し。
ゲームの中で主人公に向けられていた、あの絶対零度の視線だ。
『ありがとうございます。ご褒美です』
私は心の中で両手を合わせ、拝み倒す。
この冷たさの奥に、どれほどの孤独が隠されているかを知っているからこそ、私は彼女の態度に傷つくことはない。
むしろ、その不器用な壁の作り方が愛おしくてたまらない。
エルヴェティア様は私の顔を値踏みするように数秒見つめた後、ふいと視線を窓の外へ逸らす。
「好きにしなさい。私の視界に入らないでくれるなら、それでいいわ」
「かしこまりました。お茶の準備が整いましたら、お声掛けいたします」
私は静かに下がり、部屋の隅に控える。
彼女は再び手元の分厚い本に視線を落とす。
表紙には装飾的な文字で、王国魔法植物図鑑と記されている。
ページをめくる乾いた音が、静かな部屋に響く。
彼女の指先が、あるページでピタリと止まる。
伏せられた長い睫毛が、朝の光を受けて頬に淡い影を落とす。
その横顔があまりにも美しく、またしても私の感情が爆発しそうになるのを必死に堪える。
私は足音を立てずに彼女の斜め後ろへと移動し、本を覗き込むような素振りを見せる。
開かれているのは、23ページだ。
「……図鑑を読んでいらっしゃるんですね」
私は、部屋の静寂に溶け込むような低い声で話しかける。
エルヴェティア様の肩が、ほんのわずかにビクッと揺れる。
彼女はゆっくりと顔を上げ、険しい顔で私を睨みつける。
「……付き人が主の読書に口を出すの」
声のトーンは先程よりも一段低く、明確な怒りが混じっている。
普通の人間なら震え上がる場面だろう。
しかし私は、口元に穏やかな笑みを浮かべたまま一歩下がる。
「失礼いたしました。ただ、魔法植物にご興味がおありなのだと、少し嬉しくなりまして」
「嬉しくなる?」
「はい。その23ページに載っている夜霧草の挿絵、とても美しいですよね。月明かりの下でしか花を開かない、あの繊細な姿が私も好きでして。つい、口を出してしまいました」
部屋の空気が、ピタリと止まる。
エルヴェティア様のサファイアブルーの瞳が、驚きに見開かれる。
彼女の視線が、私と、図鑑の23ページを何度も往復する。
『引っかかった。設定資料集の38ページ右下、プロデューサーの小さなメモ書き。エルヴェティアは夜霧草が好きだが、侯爵令嬢としての体面を気にして誰にも言えない、という裏設定。これを知っているのは、この世界で私だけだ』
彼女の唇がわずかに震え、何かを言いかけては止める。
冷たい仮面に、ほんの小さなひびが入った瞬間だった。
私はそれ以上踏み込むことはせず、静かに頭を下げる。
「お茶を淹れてまいります」
引き返し、テーブルに向かって歩き出す私の背中に、彼女の視線が突き刺さっているのを感じる。
紅茶の缶を開け、茶葉の香りを胸いっぱいに吸い込む。
お湯を注ぐかすかな音が、私の勝利のファンファーレのように聞こえた。
この日から、彼女が私を部屋から追い出すことは二度となかった。




