皇太子ユリウス
――何をどこで間違ったのだろう。
父上に言われた通りに成人の儀を迎え、王位を継ぐ準備をしていれば、こうはならなかったのだろうか。
いや、そうじゃない。僕は自分の意志で、この地まで逃げてきた。
父上から……父上の支配から逃げるために。
そうだ。あの時、僕の神は死んだんだ――
ユリウスは、心が挫けそうだった。
暗い森の中をどれくらい走っただろう――
目じりに溜まった涙が溢れないよう、首を大きく振った。
◇◇◇
オルヴァニア大陸の西側を、南から北まで広く統治するラクセンベルク帝国――その唯一の王位継承者。
そんな立場であるにも関わらず、ユリウスは城を飛び出して当てもなく南下していた。
帝国民は、彼を見ても皇太子だとわからないはずだ。
何故なら、城から一度も出たことがなかったのだから。
逃げている途中も、父である皇帝が、ユリウスを探しているような様子はないように見えた。
城を飛び出して、一か月。油断していたのかもしれない。
夜が更けても、寝つけなかった。
城を飛び出してから、毎日のようにみる悪夢のせいだ。
皇帝――父上の色のない瞳。
父にユリウスは魔法で支配されていた。
思考を奪われ、それにすら気づかないほどに。
そして、唐突に目が覚めるように、支配が解けた瞬間――
足元まで飛んできた鮮血と、憎しみに満ちた"彼ら"の顔。
恐ろしくて、居ても立っても居られずに、逃げ出した。
まだ寒いと言うのに、火照った体を持て余して、ユリウスは宿の外に風にあたりに行くことにした。
そこで待ち構えていたように、一人の男が正面を塞いだ。
闇に溶けるマントを纏い、腰からは剣を下げている。フードの陰に隠れた顔は見えない。
それでも、その佇まいからは、確かに騎士の気配が感じられた。
「殿下、お迎えに上がりました。ご同行ください」
男が言い終える前に、考えるよりも足が動いていた。
途端、四方八方から騎士然とした人影が現れ、道を塞がれる。逃げ道は宿の裏手――森だけだった。
恐怖に突き動かされ、後ろを振り向く余裕もなく、必死に足を動かした。
――連れ戻されるわけにはいかない。
月光は生い茂る木々に遮られていて、足元の視界もままならない。
何度も木の根に足を取られかけて、転ばないように踏ん張った。
頭の中で、警鐘が鳴り止まない。
怖い、苦しい。誰か、助けて――
恐怖と絶望が胸の奥を掻き乱し、荒い呼吸が喉に詰まった。
込み上がってきた涙で視界が揺れる。
ここには、僕を助けてくれる人はいない……
そんな思考で一度に頭が冷えた。同時に一か月前まで隣にいた護衛騎士の顔が、ユリウスの頭を掠めた。
追手の気配も、そして――自分の足音、枝を払う音、荒く吐き出す息、全てが重なり合い、耳を打つ。
だが、それらは次第に遠のき、最後には自分の呼吸も、思考を埋め尽くした恐怖の声も聞こえなくなった。
走り続け、ふと気が付くと、眼前に森の終わりが見えてきた。
出口――そう思ったのも束の間、視界に飛び込んできたものに、ユリウスは愕然とした。
行く手を阻むように、そびえたつ大きな岩肌。
上を見上げてみるが、どう考えても登れる高さではない。
その時になって、ようやく後ろを振り返り、辺りを見渡した。
楕円を描くようにひらけた地面――その奥には、鬱蒼とした森が広がっている。
不気味に響く風の声と葉擦れの音。しかし、それだけだった。追手がやってくる気配はない。
少しの安堵を感じて、ユリウスは岩肌に背を預けた。
限界まで走ったせいで、呼吸をするたびに肺が痛い。喉が焼けるようだ。
今になって、全身から汗が噴き出してくるのを感じた。
脚の筋肉が悲鳴をあげている。あとになって、追い付いてきた恐怖が、体を震わせた。
ユリウスは重力に引かれるように、地面に座り込んだ。
体が酸素を求めるように、息を荒げながら自然と頭を岩肌に預けた。
目に、星空が飛び込んでくる。
今日は満月だ。
冬の星座が、存在を主張するように輝いて、運命の輪郭を描いている。
それを美しいと思える余裕はなかった。
どこまで逃げればいい……?
どこへ行けばいい……?
僕は、どこへ……
絶望に星空が揺らいだのを知って、ユリウスは大きく首を振る。今、それに呑まれるわけにはいかない。
ぐっと唇を噛み締めて、森の先を見据えた。
皇帝が差し向けた追手が、そう易々と諦めてくれるわけがない。
すぐにこの場を離れないと。
宿に帰るのは危険だ。伏兵が待ち構えているに違いない。
吹き通る夜風が、汗ばんだ体から急激に、体温を奪っていくのを感じた。
どこか身を隠せるところを探さないと――
そう思ったとき、地面から大きな揺れが、ユリウスの全身へと伝わってきた。
咄嗟に立ち上がって、辺りを見渡す。
地響きは止まることなく、一定の間隔を空けて、足元から伝わってくる。
それは、徐々に大きくなってきているようだった。
明らかに人間のものではない。
自然と腰に手が伸びた。しかし、そこにあるはずの護身用の剣がない。
ユリウスはハッとなって、道中で路銀の足しにしてしまったことを思い出した。
もしかしたら剣を売ったことで、足がついたのかもしれない――そんな今、気にしている場合ではない憶測が頭を掠める。
地響きの主がもう近くにいる。
左か、右か。どちらに逃げるにしても、森へ囲まれたこの場所から、そう距離は違わない。
大した時間ではなかった。
迷っているうちに、その正体は満月に照らされ、姿を明らかにした。
吸い込んだ息が喉の奥で、ひゅっと鳴る。背中に怖気が走った。
月光に照らされた、おどろおどろしい黒い靄を纏った、人間の3倍はありそうな巨大な熊。
堕ちた精霊の穢れで巨大化し、狂暴化した動物――’’魔物’’
体の奥底から湧き出した恐怖に、竦みかけた足が自然と一歩下がる。背中が岩肌に当たった。
それと同時に、魔物が一歩、踏み出してくる。
こちらをジッと見据えてくる――魔物の血色の瞳から、目が離せない。
‘’調和の力は攻撃に向いておりません‘’
いつか、王城の専属教師に言われたことが、頭に過った。
ユリウスの先天本質であり、唯一使える水の魔法――調和の力。
他属性の魔法があってこそ、能力を最大に発揮できる魔法。
単独で出来るのは、人の感情や思考を読み取り、または自分の感情や思考を送る。もしくは、それらを共有すること。
そう教えられてきた。
その上、ユリウスはその魔法を、まだ完全な制御下に置けていない。
そもそも魔物を浄化するには、光の魔法でなければいけない。
魔物が爪で地面を削っていくような、嫌な音を立てて、にじり寄ってくる。
距離はおよそ十メートル。背を向けた途端、一瞬のうちに追い付かれ、嚙み殺される――
そんな恐怖が容易に想像できてしまい、逃げることも出来なかった。
魔物が更に一歩、踏み出してくる。
まるで獲物が怯えて、諦めるのを待っているようだった。
一か八かやるしかない。
光の魔法のように穢れを浄化することはできなくても、水の魔法で少しの隙をつくることは可能かもしれない。
その間に逃げれば――
読んでいただきありがとうございます!
毎日1話投稿しています。
少し上がりの遅い作品ですが、2章中盤から色々と明らかになって、一気に動いてくるので、お付き合いいただけたら有り難いです。
色んな背景やキャラたちの想いが交差して、リアリティも追求してます。
考察好きな方は是非……よろしくお願いします!




