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調和の王〜影から継がれたもの〜  作者: 俐月
4章

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ホワイトデー番外「返礼の流儀」

 



「はーい、エーレさん。これ」



 朝も随分遅くなって、エーレがホールへ降りてきた。


 先ほどまで正面で食事をしていたシュトルツは、いつしか彼を出迎えながら、一つの箱を差し出している。



「ん? ああ、あれか」



 一方、エーレは足を止めることもなく、「ん」と受け取るだけだった。



 あれ、なんだっけ。最近、こういうことがあった気がする。


 その様子を眺めていたルシウスは、激しい既視感に陥っていた。



「はい、おこちゃまも。リーベも一応」



 こちらへ戻ってきた彼が、当然のように渡してきた箱を受け取ったルシウスは、綺麗な箱を眺めながら尋ねた。



「これ、なんですか? 少し前も……」


「おこちゃま、知らないの? 今日は――」


「今日に限っては、起源などない。正真正銘の商業行事だ」



 意気揚々と語ろうとした彼を、リーベの淡々とした言葉が遮る。

 その細めた瞳の先からは、冷たい視線が送られていた。



「はー」 乱暴に腰を下ろされた椅子が軋んだ。


「いやだいやだ、ロマンのない大人はこれだから」



 彼は呆れかえったように首を振りながら、演技じみた視線を隣へと流す。

 すでに箱を開け始めているエーレを捉えた瞬間、その口元はだらしなく緩められていった。



 ルシウスは小さく首を捻りながらも、ひとり嬉しそうな男と同様、エーレの手元を注視した。



「お前は、毎度毎度飽きねぇな」



 箱が開かれた時、ようやく思い出すことができた。


 そういえばこの前、シュトルツがこうやってチョコレートをくれたんだった。


 箱の中には、バレンタインの時とはまた違った趣向の焼き菓子たちが、輝いて(ルシウスにはそう見えた)整列している。



 動物や花の形を模しているものや、いくつか縦線が描かれた、厚くて丸い焼き菓子。

 城で数度だけ見かけたことがある、卵白の焼き菓子に、木の実の砂糖絡め。



 自然と手元へ視線が落ちたルシウスの頭には、硬貨が浮かんでいた。

 これひと箱でいくらになるだろ……


 そんな野暮な計算が過る。



 卵も大量に買うと安くないし、細長い楕円の木の実や砂糖も、目が飛び出るほど高いはず。

 そう思うと、箱の中身がお金ように見えてしまう。



「これ……シュトルツが作ったんですよね? というか、今日何の日ですか?」


「当然、エーレさんが食べるんだから」 「今日はバレンタインの返礼行事だ」



 前と隣で言葉が重なった。



「近年出来た行事で、発祥は外の――返礼文化のある大陸だ」



 シュトルツの言葉を、再び遮ったリーベの言葉をなぞった。


 ヘンレイ? 返礼って……



「僕たちが、シュトルツに返す日なんじゃ……」



 口にしておきながら、いや、ともう一人の自分が反駁する。

 あのチョコレートに見合うお返しなんて、とてもじゃないが出来ない。


 そう思ったのも、束の間だった。



「え? なんで?」



 シュトルツが、きょとんとした顔でこちらを見た。



「なんでって……返礼行事なんですよね?」


「そうそう。だからこうやって、エーレさんに」


「いやだから、バレンタインはシュトルツが渡して――」


「それはそれ。これはこれ。一度しかあげちゃ駄目なんて、決まりはないでしょ?」

 ねー、エーレさん!



 彼は子供のように、満面の笑みをエーレに向ける。


 つまり……? 会話を頭の中で繰り返してみるが、全然わからない。



「つまり」 隣でリーベが、手に持つ箱をシュトルツに向けた。


シュトルツ(あいつ)は、いつもエーレに受け取っているから――」 次にエーレを指す。


「こういった行事に則って、形として返したい――いうことだ」



 結局は、あいつが勝手に喜んでいるだけだが。

 最後にそう付け足した彼は、手元に戻した箱へと、苦笑を落とした。



「え。エーレっていつも、シュトルツに特別な餌付けでもしてるんですか?」


「は? んなわけねぇだろ」



 箱に目を落としたままのエーレの返答に、首を傾げそうになった時――


 意を得たりとばかりに声を高くした彼は、大袈裟に肩を竦めて「わかってないね。わかってないよ」と、こちらの箱を指差す。



「俺が貰ってるのは、形のないものだから。それをね、こうして――」



 などと言って、唐突に語り始めた。

 こういった時のシュトルツの声は、不思議と楽曲の演奏を聴いているように、耳を通り抜けていく。


 その中で隣から、うんざりしたような息が聞こえてきた。



「失言だったな」



 リーベはテーブルの上に箱を置き去りにして、気怠そうに珈琲を啜っていた。

 おそらく彼は、すでにシュトルツの真意に気づいてたのだろう。



「まぁ」 ルシウスは、目だけで前を一瞥する。



 まるで用意していたかのように、淀みなく並べ続けられる声は、こちらの返答なんて求めてないようだった。



「いいんじゃないですか。それに、そろそろ――」



 その時、言い終えるよりも早く、軽い破裂音が飛び上がった。



「朝からうるせぇんだよ!」



 そう、いつも大体これで終わる。ルシウスは自分の推測が当たったことに、ひとり満足を飲み下す。



 先ほど、シュトルツの頭を叩いただろうエーレの手は、クッキーを口に運ぶので忙しそうだった。


 さして痛くもないだろう頭を撫でた男は(これもいつものことだ)、一度は閉じた口をにんまりと緩ませると、性懲りもなく言った。



「エーレさん、卵白菓子(それ)好きだけど、数はいらないんだよね? だからクッキー多めにしたんだけど、どう?」


「なんで把握してんだよ」


「そらぁ、ねぇ?」



 いつもの茶番に、思わず小さく鼻で笑ったルシウスの隣で、


「馬鹿馬鹿しい」 リーベがひとりごちる。テーブルにカップが静かに置かれた。


「エーレはともかく、僕たちはシュトルツに、お返ししなくていいんですかね?」


「必要ない。あいつは自分が贈って、自分が嬉しい人間だ」


「そうかもしれませんけど……」



 シュトルツの気持ちはわからなくもないけど、僕ならお返しを貰ったらやっぱり嬉しい。

 エーレが何か渡してあげたら、飛び上がって喜ぶはずなのに……



 ルシウスは正面の二人を見て、そんなことを考えながらも、頭の端で小さな引っかかりを覚えていた。

 何か大事なことを忘れている。



 バレンタイン、チョコレート、クッキーの詰め合わせ、返礼……


 ぼんやりとした思考の果てで、頭を叩かれるような衝撃につられて、輝かしい金髪が蘇った。



「――ミレイユさん!」



 思ったより響いた声に視線が集まり、エーレは不機嫌そうに眉を寄せていた。



「朝っぱらから、あいつの名前なんて聞きたくねぇよ」


「いや、最後まで聞いてくださいよ。この前、ミレイユさんに貰ったじゃないですか。返礼の日なんですよね?」



 バレンタインの時、市販のチョコレートと、不出来なりにも真心(だと思う)が込められた焼き菓子を貰ったのだ。


 彼女のことだ。返礼の日であることも、しっかりわかっているはずだった。

 もし、これを見ぬふりしたら、次会った時、なんて言われるか……


 鬼の形相で、迫ってくるミレイユを思い浮かべたルシウスは、身震いしそうになった。



「あ?」 だからなんだ、と言わんばかりに、片眉をあげたエーレ。



 返す気がさらさらない様子の彼に、ルシウスが思わず、脱力しそうになった時、



「あんたたち! この私が恵んであげたっていうのに、お返しがないってどういうことよ!」



 声色を引き上げ、ミレイユの真似をしてみせたのは、シュトルツだった。



「やめてください」



 僕だけでも何か買って、渡しに行こう。ルシウスはそう決心する。

 エーレたちが文句を言われようと、僕には関係ない。


 でもミレイユさん。エルディナにいるのかな……



 ひたすら逡巡していると、前から苦笑が飛んできた。エーレが呆れたように、脚を組みなおす。



「あいつは見返りがほしくて、他人に何かをするようなやつじゃねぇだろ。必要ねぇよ」


「え、いや。でも」



 シュトルツはそうかもしれないけど、ミレイユに限ってそんなはずがない。


 困惑を覚えたルシウスの隣で、リーベがカップを手に、静かに立ち上がった。



「どちらにせよ、近しい人間ほど、礼は尽くさねばならないと私は思う」


「そうですよ! ミレイユさんが欲しい欲しくないじゃなくて、気持ちには気持ちで返さないと!」



 リーベの発言が、先ほどと矛盾してるなんてことは、この際大したことじゃない。


 その言葉に乗っかったルシウスは、勢いを持ってエーレに訴えた。



 一瞬だけやってきた静寂の中、明らかに聞かせるための、濁ったため息が挟みこまれた。


 不満そうな表情を向けてきたエーレが、懐から取り出した皮袋を乱暴にテーブルに放り投げる。硬貨が袋の中で弾ける音がした。



「適当に見繕って渡してこい」


「え、いや。こんなにいらないんですけど」



 中には、お菓子が何十箱と買えそうな硬貨。これを持ち歩くのは、さすがにいただけない。



「俺の気が変わらないうちに、さっさと行ってこい」



 顎をしゃくりながら睨んできた彼の隣でシュトルツが「いってらっしゃーい」と、ゆらゆらフォークを振った。

 ルシウスは、ちらりとリーベを見る。



「いや私は、そういった店に詳しくない」


「お願いだからついてきてください!」



 カップを持っていないリーベの手を強く握って、逃げる前に確保する。そのままカップだけを返却して、ルシウスは無理やり、彼をレギオンの外へ連れ出した。








 ◇◇◇







 店内は異様な熱気に包まれていた。

 当日限定の菓子を求める女性たちが、店員の制止も聞かず我先にと押し寄せる。


 列などあってないようなもので、ルシウスとリーベは人波に揉まれながら、どうにか目当ての箱を手に入れた。


 店を出た頃には、二人ともすっかり疲れ果てていた。




「もし次があるとしたら、ミレイユには最初に断りを入れておくことにしよう」



 いつも以上に情動のないリーベの声に、ルシウスは力なく頷く。



「あとは渡すだけなんですけど、ミレイユさんエルディナにいますかね?

 いるとしても、正面からはいけないじゃないですか」


「こちらまで来てもらう他ないだろうが。多忙を極めている彼女が、必ず来れるとは限らないな」



 仕方ない、という風にリーベが空を仰いだ。


 彼が伝達を送ろうとしているのを見て、ルシウスは再び嘆息をこぼす。

 しかし――すぐ怪訝そうに眉を寄せた彼は、片手をこめかみに当てながら、



「東市街、十三番街南通り」と呟き、短い瞑目の果てに、東区域の方へと目をやった。


「どうかしたんですか?」



 そこにミレイユがいるのだろうか? そんなルシウスの予想は、大きく外れた。



「エーレが貧民街寄りにある店に行けと」


「え、どうして」


「詳しくは言わなかったが、乳菓子を売っている店があるそうだ」


「貧民街の近くにそんなもの、ありますかね?」


「どうだろうな。少し歩くが、行ってみるしかない」



 貧民街の菓子と、ミレイユに関係があるのかもしれない。

 ルシウスは首を捻る。


 いや、エーレが端に食べたいから買ってこいと言った可能性も捨てがたい。



 気が付けば、本日何度目かわからない深いため息を吐き出していた。


 短時間で疲れ果てた体を引きずって、二人は正体もわからない店を探すため、東区域に足を向けた。









 東区域の南側には大きな貧民街がある。そこに随分近い場所に、その店はあった。


 今にも崩れ落ちそうな木の板を組み立てたものを、店と呼んでいいのかはわからない。それでも、営業中と書かれた札を見ることができた。



 二人が購入したのは、白い塊だった。

 手のひらほどの大きさの乳菓子。


 リーベ曰く、少し酸っぱくなった牛乳を温め、固めて作ったものらしい。



 中央区域への帰路の途中、ルシウスは小腹を満たすために食べた乳菓子を思い出していた。

 優しい乳の味に、ほんの少し酸味のある、舌の中でほろっと崩れるような素朴なものだった。


 さっぱりした味でルシウスは気に入ったが、エーレが好むとは思えない。



「エーレは、どうしてあのお店の存在を知ってたんですかね」


「何故だろうな」



 暇を見て、貧民街でも慈善活動もしている彼だ。そう考えれば、特段おかしい話でもない気がした。

 真相究明はさておき、手に入れるものは手に入れたし、あとはミレイユに……



『おい、中央通りの近くの公園で待機しとけ』


『へ? え、いやエーレ――』



 突然やってきた伝達は、一方的に途切れて、思わずルシウスはその場で立ち止まる。



「なんと言っていた?」


「なんか、あの公園で待っておけって」



 指定された公園は丁度、すくそこだった。



「まったく、人使いが荒い」


「本人に言ってやってくださいよ」



 先に一歩踏み出したリーベは、おもむろに首を振り、そのまま僅かに振り返る。



「何度も言っているんだが――」


「まぁ、聞く耳持ちませんよね」


「人に人は変えられないとは、よく言ったものだ」


「あ、それ。僕も最近わかってきました」



 エーレのおかげで。

 ルシウスは思わず笑いそうになって、数歩分離れた距離を駆けて詰めた。










 正午過ぎの公園では、人々が昼休みを過ごし、子供たちが駆け回っていた。


 人々の邪魔にならないよう、公園の端で待機してしばらく経つが、エーレは来ない。

 空を仰いだルシウスは、手に持った生物の心配をしながら、呆れて声を絞り出す。



「遅くないですか……?」


「いつものことだ」



 そうですか。口の中で呟く。


 これなら僕たちがレギオンに戻った方が、絶対に早かった。

 今からでも遅くない。



「リーベ、一旦レギオンにもど――」



 ルシウスが提案を口にしようとした、その瞬間だった。

 凄まじい勢いを持った生命力の塊が、上空から降って湧いてきた。


 その気配に、目を見開くことしか出来なかったルシウスの前に、リーベの腕が伸びる。



「馬鹿か! 何考えてんだ!」



 後方からの怒声、正面に現れた風の渦、四方八方へ展開された生命力の幕。全てが同時だった。


 隣を通り過ぎていったエーレが、その名を呼ぶ。

 渦の中から姿を見せたのは、純白の法衣を纏ったミレイユだった。



「はぁ? 何か文句あるわけ?」



 現れるが否や、傲慢な声色と共に睨みを聞かしたその様子に、ルシウスは体を硬直させたまま、頭を抱えたい衝動に陥る。


 人の目の多い昼間の公園に、霊奏で移動してくるなんて……心臓に悪すぎる。


 エーレの隠蔽が少しでも遅かったら、大事になっていた。



「文句しかねぇだろ。 馬鹿なのか、いや、馬鹿でしかねぇな」


「さっきから馬鹿馬鹿うるさいわね! あんたが呼びつけるから、聖国からわざわざ来てやったんでしょう! 感謝される覚えはあっても、馬鹿にされる覚えはないんだけど!?」


「知ってたか? 頭の出来が良いやつは、こんな場所に霊奏で来たりしねぇんだよ」


「はぁ? そっちこそ知ってた? 人に馬鹿っていうやつが、一億倍馬鹿なんだけど?

 それに比べて……はぁ~。こんな適確に座標移動できるなんて、私ってやっぱり天才!」



 顔を合わした途端、言い合いを始めた二人を前に、ルシウスは咄嗟に当たりを見渡した。


 春一番とでも思ったのか、空を見上げている人は数人いたが、混乱は見受けられない。

 ホッと、安堵の息を漏れ出た。



 もしかしたら、二人の男が突然消えたように見えた人もいるかもしれないけど、気のせいで終わらせてくれる。


 自分に強く言い聞かせて納得したとき、すぐ前から深いため息が聞こえてきた。



「リーベ、大丈夫ですか?」



 呆れと疲弊と、苛立ちのような雰囲気を醸し出している彼に、ルシウスは問う。



「問題ない、と言いたいところだが、一時は攻撃と思い違いをした」



 そういえば、さっき彼は庇ってくれようとしたのだった。

 さすがの彼も、こんな場所に霊奏でミレイユがやってくるなんて、予想できなかったのだろう。



「あれでは、いつまでも終わらないだろうな。今回ばかりは、私もエーレの意見に賛同だ」



 彼はおもむろにこちらを一瞥すると、二人のもとへ進んでいく。

 その後ろ姿を見て、言葉にはし難い違和感を覚えた。



 あれ、リーベ怒ってる?

 それが勘違いではないことを数秒後、ルシウスは知った。



 一時は仲裁に入ったリーベへミレイユが突っかかり、苛立ちを抑えていたはずの彼は、淡々と説教で返答し始める。


 彼女は即座に反駁しながらも、それはエーレへ飛び火し、やがて三人の口論へと発展した。その上、ところどころ会話が成立していないようにも聞こえた。



 ひとり残されたルシウスは、その様子を呆然と眺めながら、贈り物へと視線を落とし、再び公園を見渡す。



「これ、どうしよう……」



 あの中に入っていくのは無謀すぎる。

 ただミレイユに返礼の贈り物をしたかっただけなのに、どうしてこうなったんだろう。


 あと数十分……いや、一刻ほど待てば収まるだろうか? ルシウスはベンチを探して、視線を巡らせた。



「わかったわかった。俺が悪かった」



 そこに何故か、エーレが仲裁に入っている声が聞こえてきた。

 思ったよりも早くに終わるかもしれない。座って待っておくことを決めて、半身を逸らした時、



「今日はいつも以上に仲良くしてるね」



 背後から、そんな声が聞こえてきた。



「シュトルツ、あれどうにかしてくださいよ」


「え、やだよ。巻き込まれたくないし。それに――」



 彼は、こちらの手の中を見る。



「君には、あの中に飛び込んでいける免罪符があるでしょ」


「免罪符って……僕、何も悪いことしてないんですけど」


「細かいことはいいからいいから、ほらさっさと行った」



 背を押されて、自然と歩が前に出た。

 ルシウスは手の中の贈り物を見て、観念する。


 僕だって、子供みたいな喧嘩に巻き込まれたくない。でもさすがに、これを渡してミレイユが怒るようなことはないはずだ。


 恐る恐る近づいて、「あの」と声をかける。エーレと目が合うものの、ミレイユは見向きもしない。



「あの!」 「なによ!」



 鬼の形相で睨んできた彼女に、ルシウスは咄嗟に身を引きながら、両手だけを差し出した。



「これ! ミレイユさんに!」



 ほんの一瞬の静寂が訪れ、かち合った視線の先で、彼女が虚を突かれたように目を開く。



「は……? あんた、もしかしてこのために私を呼びつけたわけ?」



 威圧と困惑と動揺。それらを含んだ声色は、エーレに投げられた。

 再び、沈黙が挟まり、ため息を乗せた言葉が側で沈む。



「ルシウスがどうしてもって、買って来たんだよ」



 どうしても、とは言ってないけど……


 恐る恐るミレイユを覗き見ると、彼女は鼻白んだように目を細め、首を振った。



「それならそうと先に言いなさいよ。あんたが何も言わないから、まだくだらない用件なのかと思ったじゃない」


「これもくだらねぇだろ」



 どうやら、随分な意思疎通の齟齬があったらしい。そこに再び口論は挟まれることはなく。



「はい」 彼女は、そのまま手を伸ばしてきた。



 ルシウスは「えっと」と、戸惑った後、



「この前のお返しと、いつもお世話になってる、お礼……です……?」



 ほんの数センチを更に差し出して、彼女の手に乗せた。



「そのうちのひと箱は、ルシウスがイレーネに渡してほしいそうだ」



 いつしか冷静に戻っていたリーベが、淡々と付け加えた。

 彼女は手の中のものを見て、おかしそうに失笑をこぼす。



「有難く受け取るわ。でもね。気遣いは無用よ。私は別に、返してほしくてあげたんじゃないんだから。

 その顔見る限り、これ買うのに苦労したんでしょ」


「え」



 眉を下げて微笑んだ彼女に、ルシウスは言葉を失った。その沈黙の中、視線は自然とエーレを捉えていた。



「だから言っただろ」



 一度は合った目を逸らした彼は数瞬後、「ああ」と思い出したように、ミレイユの方へ一歩だけ前に出た。



「その袋の方――」 その声に彼女は、袋の中身を見る。


「これ、どうしてあんたが知ってるのよ」


「さぁな」



 驚愕を露わにしたミレイユに、ふっと鼻で笑ったエーレは、それ以上答えずに踵を返す。



「ちょっと! 待ちなさいよ!」



 すぐさまエーレを追いかけだした彼女を見送った時、「すまなかった」と隣のリーベが言った。



「いえ、渡せてよかったです」



 一時は渡せないのではないかとも思った。ルシウスは安堵の息を吐きだした。


 そこに歩み寄ってきたシュトルツが、「お疲れ様」の声と共に、軽く肩を叩いてきた。

 彼は遠ざかっていく二人を、一瞥して尋ねる。



「煮乳だっけ? 手に入れられたんだね」


「知っているのか?」


「詳しくは知らないけど、ミレイユの思い出の味らしいよ」


「ああ、そういうことか」



 ひとり納得したようなリーベを見て、ルシウスは先ほど足を運んだ店を思い浮かべた。


 あのボロボロの店で売られている素朴な菓子が、ミレイユの思い出の味?



 袋を見た時の、彼女の表情が思い浮かんだ。

 開いた口はその理由を聞こうとしたが、咄嗟にルシウスは首を振る。


 彼女の事情を裏で聞くのは、間違っている気がした。



 僕はミレイユさんのことを何も知らない、

 誤解していることも多いに違いない。



「そういえば――」 代わりにルシウスは、公園の入り口へと踵を返した男に尋ねることにした。


「シュトルツはお返しいらないんですか?」


「ん?」



 首だけ振り返らせた彼は、小さく微笑むと、



「いらないよ。俺にとっては、相手の喜んでくれる顔がいちばんのお返しだから」



 何気なく答えて、のんびりと歩を進め始めた。



「美味しく頂きますね!」



 その背に、ルシウスは感謝を込めて声を送る。彼は一度、手を上げるだけだった。



「疲れただろう。戻って、あいつから貰った菓子でも食べよう」



 リーベの声に頷きながら、息を大きく吸い込んで、今日一日分の疲労と安堵を吐き出す。



「そうですね。シュトルツのお菓子は美味しいですし」



 そういえば、お昼ご飯もまだだった。

 今日一日くらいは、お菓子から食べても許されるだろう。



 レギオンへ続く道の先からは、未だ止まない言い合いが聞こえてきたが、今ではそれもどこか心地よく感じて、ルシウスは一度、空を仰いだ。


 その時――後方から空へ、大きな風が舞い上がっていった。



「春がやってきますね」


「ああ、そうだな」



 こんな春の到来も、悪くない。


 ルシウスは空を眺めて、微笑んだ。







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