ホワイトデー番外「返礼の流儀」
「はーい、エーレさん。これ」
朝も随分遅くなって、エーレがホールへ降りてきた。
先ほどまで正面で食事をしていたシュトルツは、いつしか彼を出迎えながら、一つの箱を差し出している。
「ん? ああ、あれか」
一方、エーレは足を止めることもなく、「ん」と受け取るだけだった。
あれ、なんだっけ。最近、こういうことがあった気がする。
その様子を眺めていたルシウスは、激しい既視感に陥っていた。
「はい、おこちゃまも。リーベも一応」
こちらへ戻ってきた彼が、当然のように渡してきた箱を受け取ったルシウスは、綺麗な箱を眺めながら尋ねた。
「これ、なんですか? 少し前も……」
「おこちゃま、知らないの? 今日は――」
「今日に限っては、起源などない。正真正銘の商業行事だ」
意気揚々と語ろうとした彼を、リーベの淡々とした言葉が遮る。
その細めた瞳の先からは、冷たい視線が送られていた。
「はー」 乱暴に腰を下ろされた椅子が軋んだ。
「いやだいやだ、ロマンのない大人はこれだから」
彼は呆れかえったように首を振りながら、演技じみた視線を隣へと流す。
すでに箱を開け始めているエーレを捉えた瞬間、その口元はだらしなく緩められていった。
ルシウスは小さく首を捻りながらも、ひとり嬉しそうな男と同様、エーレの手元を注視した。
「お前は、毎度毎度飽きねぇな」
箱が開かれた時、ようやく思い出すことができた。
そういえばこの前、シュトルツがこうやってチョコレートをくれたんだった。
箱の中には、バレンタインの時とはまた違った趣向の焼き菓子たちが、輝いて(ルシウスにはそう見えた)整列している。
動物や花の形を模しているものや、いくつか縦線が描かれた、厚くて丸い焼き菓子。
城で数度だけ見かけたことがある、卵白の焼き菓子に、木の実の砂糖絡め。
自然と手元へ視線が落ちたルシウスの頭には、硬貨が浮かんでいた。
これひと箱でいくらになるだろ……
そんな野暮な計算が過る。
卵も大量に買うと安くないし、細長い楕円の木の実や砂糖も、目が飛び出るほど高いはず。
そう思うと、箱の中身がお金ように見えてしまう。
「これ……シュトルツが作ったんですよね? というか、今日何の日ですか?」
「当然、エーレさんが食べるんだから」 「今日はバレンタインの返礼行事だ」
前と隣で言葉が重なった。
「近年出来た行事で、発祥は外の――返礼文化のある大陸だ」
シュトルツの言葉を、再び遮ったリーベの言葉をなぞった。
ヘンレイ? 返礼って……
「僕たちが、シュトルツに返す日なんじゃ……」
口にしておきながら、いや、ともう一人の自分が反駁する。
あのチョコレートに見合うお返しなんて、とてもじゃないが出来ない。
そう思ったのも、束の間だった。
「え? なんで?」
シュトルツが、きょとんとした顔でこちらを見た。
「なんでって……返礼行事なんですよね?」
「そうそう。だからこうやって、エーレさんに」
「いやだから、バレンタインはシュトルツが渡して――」
「それはそれ。これはこれ。一度しかあげちゃ駄目なんて、決まりはないでしょ?」
ねー、エーレさん!
彼は子供のように、満面の笑みをエーレに向ける。
つまり……? 会話を頭の中で繰り返してみるが、全然わからない。
「つまり」 隣でリーベが、手に持つ箱をシュトルツに向けた。
「シュトルツは、いつもエーレに受け取っているから――」 次にエーレを指す。
「こういった行事に則って、形として返したい――いうことだ」
結局は、あいつが勝手に喜んでいるだけだが。
最後にそう付け足した彼は、手元に戻した箱へと、苦笑を落とした。
「え。エーレっていつも、シュトルツに特別な餌付けでもしてるんですか?」
「は? んなわけねぇだろ」
箱に目を落としたままのエーレの返答に、首を傾げそうになった時――
意を得たりとばかりに声を高くした彼は、大袈裟に肩を竦めて「わかってないね。わかってないよ」と、こちらの箱を指差す。
「俺が貰ってるのは、形のないものだから。それをね、こうして――」
などと言って、唐突に語り始めた。
こういった時のシュトルツの声は、不思議と楽曲の演奏を聴いているように、耳を通り抜けていく。
その中で隣から、うんざりしたような息が聞こえてきた。
「失言だったな」
リーベはテーブルの上に箱を置き去りにして、気怠そうに珈琲を啜っていた。
おそらく彼は、すでにシュトルツの真意に気づいてたのだろう。
「まぁ」 ルシウスは、目だけで前を一瞥する。
まるで用意していたかのように、淀みなく並べ続けられる声は、こちらの返答なんて求めてないようだった。
「いいんじゃないですか。それに、そろそろ――」
その時、言い終えるよりも早く、軽い破裂音が飛び上がった。
「朝からうるせぇんだよ!」
そう、いつも大体これで終わる。ルシウスは自分の推測が当たったことに、ひとり満足を飲み下す。
先ほど、シュトルツの頭を叩いただろうエーレの手は、クッキーを口に運ぶので忙しそうだった。
さして痛くもないだろう頭を撫でた男は(これもいつものことだ)、一度は閉じた口をにんまりと緩ませると、性懲りもなく言った。
「エーレさん、卵白菓子好きだけど、数はいらないんだよね? だからクッキー多めにしたんだけど、どう?」
「なんで把握してんだよ」
「そらぁ、ねぇ?」
いつもの茶番に、思わず小さく鼻で笑ったルシウスの隣で、
「馬鹿馬鹿しい」 リーベがひとりごちる。テーブルにカップが静かに置かれた。
「エーレはともかく、僕たちはシュトルツに、お返ししなくていいんですかね?」
「必要ない。あいつは自分が贈って、自分が嬉しい人間だ」
「そうかもしれませんけど……」
シュトルツの気持ちはわからなくもないけど、僕ならお返しを貰ったらやっぱり嬉しい。
エーレが何か渡してあげたら、飛び上がって喜ぶはずなのに……
ルシウスは正面の二人を見て、そんなことを考えながらも、頭の端で小さな引っかかりを覚えていた。
何か大事なことを忘れている。
バレンタイン、チョコレート、クッキーの詰め合わせ、返礼……
ぼんやりとした思考の果てで、頭を叩かれるような衝撃につられて、輝かしい金髪が蘇った。
「――ミレイユさん!」
思ったより響いた声に視線が集まり、エーレは不機嫌そうに眉を寄せていた。
「朝っぱらから、あいつの名前なんて聞きたくねぇよ」
「いや、最後まで聞いてくださいよ。この前、ミレイユさんに貰ったじゃないですか。返礼の日なんですよね?」
バレンタインの時、市販のチョコレートと、不出来なりにも真心(だと思う)が込められた焼き菓子を貰ったのだ。
彼女のことだ。返礼の日であることも、しっかりわかっているはずだった。
もし、これを見ぬふりしたら、次会った時、なんて言われるか……
鬼の形相で、迫ってくるミレイユを思い浮かべたルシウスは、身震いしそうになった。
「あ?」 だからなんだ、と言わんばかりに、片眉をあげたエーレ。
返す気がさらさらない様子の彼に、ルシウスが思わず、脱力しそうになった時、
「あんたたち! この私が恵んであげたっていうのに、お返しがないってどういうことよ!」
声色を引き上げ、ミレイユの真似をしてみせたのは、シュトルツだった。
「やめてください」
僕だけでも何か買って、渡しに行こう。ルシウスはそう決心する。
エーレたちが文句を言われようと、僕には関係ない。
でもミレイユさん。エルディナにいるのかな……
ひたすら逡巡していると、前から苦笑が飛んできた。エーレが呆れたように、脚を組みなおす。
「あいつは見返りがほしくて、他人に何かをするようなやつじゃねぇだろ。必要ねぇよ」
「え、いや。でも」
シュトルツはそうかもしれないけど、ミレイユに限ってそんなはずがない。
困惑を覚えたルシウスの隣で、リーベがカップを手に、静かに立ち上がった。
「どちらにせよ、近しい人間ほど、礼は尽くさねばならないと私は思う」
「そうですよ! ミレイユさんが欲しい欲しくないじゃなくて、気持ちには気持ちで返さないと!」
リーベの発言が、先ほどと矛盾してるなんてことは、この際大したことじゃない。
その言葉に乗っかったルシウスは、勢いを持ってエーレに訴えた。
一瞬だけやってきた静寂の中、明らかに聞かせるための、濁ったため息が挟みこまれた。
不満そうな表情を向けてきたエーレが、懐から取り出した皮袋を乱暴にテーブルに放り投げる。硬貨が袋の中で弾ける音がした。
「適当に見繕って渡してこい」
「え、いや。こんなにいらないんですけど」
中には、お菓子が何十箱と買えそうな硬貨。これを持ち歩くのは、さすがにいただけない。
「俺の気が変わらないうちに、さっさと行ってこい」
顎をしゃくりながら睨んできた彼の隣でシュトルツが「いってらっしゃーい」と、ゆらゆらフォークを振った。
ルシウスは、ちらりとリーベを見る。
「いや私は、そういった店に詳しくない」
「お願いだからついてきてください!」
カップを持っていないリーベの手を強く握って、逃げる前に確保する。そのままカップだけを返却して、ルシウスは無理やり、彼をレギオンの外へ連れ出した。
◇◇◇
店内は異様な熱気に包まれていた。
当日限定の菓子を求める女性たちが、店員の制止も聞かず我先にと押し寄せる。
列などあってないようなもので、ルシウスとリーベは人波に揉まれながら、どうにか目当ての箱を手に入れた。
店を出た頃には、二人ともすっかり疲れ果てていた。
「もし次があるとしたら、ミレイユには最初に断りを入れておくことにしよう」
いつも以上に情動のないリーベの声に、ルシウスは力なく頷く。
「あとは渡すだけなんですけど、ミレイユさんエルディナにいますかね?
いるとしても、正面からはいけないじゃないですか」
「こちらまで来てもらう他ないだろうが。多忙を極めている彼女が、必ず来れるとは限らないな」
仕方ない、という風にリーベが空を仰いだ。
彼が伝達を送ろうとしているのを見て、ルシウスは再び嘆息をこぼす。
しかし――すぐ怪訝そうに眉を寄せた彼は、片手をこめかみに当てながら、
「東市街、十三番街南通り」と呟き、短い瞑目の果てに、東区域の方へと目をやった。
「どうかしたんですか?」
そこにミレイユがいるのだろうか? そんなルシウスの予想は、大きく外れた。
「エーレが貧民街寄りにある店に行けと」
「え、どうして」
「詳しくは言わなかったが、乳菓子を売っている店があるそうだ」
「貧民街の近くにそんなもの、ありますかね?」
「どうだろうな。少し歩くが、行ってみるしかない」
貧民街の菓子と、ミレイユに関係があるのかもしれない。
ルシウスは首を捻る。
いや、エーレが端に食べたいから買ってこいと言った可能性も捨てがたい。
気が付けば、本日何度目かわからない深いため息を吐き出していた。
短時間で疲れ果てた体を引きずって、二人は正体もわからない店を探すため、東区域に足を向けた。
東区域の南側には大きな貧民街がある。そこに随分近い場所に、その店はあった。
今にも崩れ落ちそうな木の板を組み立てたものを、店と呼んでいいのかはわからない。それでも、営業中と書かれた札を見ることができた。
二人が購入したのは、白い塊だった。
手のひらほどの大きさの乳菓子。
リーベ曰く、少し酸っぱくなった牛乳を温め、固めて作ったものらしい。
中央区域への帰路の途中、ルシウスは小腹を満たすために食べた乳菓子を思い出していた。
優しい乳の味に、ほんの少し酸味のある、舌の中でほろっと崩れるような素朴なものだった。
さっぱりした味でルシウスは気に入ったが、エーレが好むとは思えない。
「エーレは、どうしてあのお店の存在を知ってたんですかね」
「何故だろうな」
暇を見て、貧民街でも慈善活動もしている彼だ。そう考えれば、特段おかしい話でもない気がした。
真相究明はさておき、手に入れるものは手に入れたし、あとはミレイユに……
『おい、中央通りの近くの公園で待機しとけ』
『へ? え、いやエーレ――』
突然やってきた伝達は、一方的に途切れて、思わずルシウスはその場で立ち止まる。
「なんと言っていた?」
「なんか、あの公園で待っておけって」
指定された公園は丁度、すくそこだった。
「まったく、人使いが荒い」
「本人に言ってやってくださいよ」
先に一歩踏み出したリーベは、おもむろに首を振り、そのまま僅かに振り返る。
「何度も言っているんだが――」
「まぁ、聞く耳持ちませんよね」
「人に人は変えられないとは、よく言ったものだ」
「あ、それ。僕も最近わかってきました」
エーレのおかげで。
ルシウスは思わず笑いそうになって、数歩分離れた距離を駆けて詰めた。
正午過ぎの公園では、人々が昼休みを過ごし、子供たちが駆け回っていた。
人々の邪魔にならないよう、公園の端で待機してしばらく経つが、エーレは来ない。
空を仰いだルシウスは、手に持った生物の心配をしながら、呆れて声を絞り出す。
「遅くないですか……?」
「いつものことだ」
そうですか。口の中で呟く。
これなら僕たちがレギオンに戻った方が、絶対に早かった。
今からでも遅くない。
「リーベ、一旦レギオンにもど――」
ルシウスが提案を口にしようとした、その瞬間だった。
凄まじい勢いを持った生命力の塊が、上空から降って湧いてきた。
その気配に、目を見開くことしか出来なかったルシウスの前に、リーベの腕が伸びる。
「馬鹿か! 何考えてんだ!」
後方からの怒声、正面に現れた風の渦、四方八方へ展開された生命力の幕。全てが同時だった。
隣を通り過ぎていったエーレが、その名を呼ぶ。
渦の中から姿を見せたのは、純白の法衣を纏ったミレイユだった。
「はぁ? 何か文句あるわけ?」
現れるが否や、傲慢な声色と共に睨みを聞かしたその様子に、ルシウスは体を硬直させたまま、頭を抱えたい衝動に陥る。
人の目の多い昼間の公園に、霊奏で移動してくるなんて……心臓に悪すぎる。
エーレの隠蔽が少しでも遅かったら、大事になっていた。
「文句しかねぇだろ。 馬鹿なのか、いや、馬鹿でしかねぇな」
「さっきから馬鹿馬鹿うるさいわね! あんたが呼びつけるから、聖国からわざわざ来てやったんでしょう! 感謝される覚えはあっても、馬鹿にされる覚えはないんだけど!?」
「知ってたか? 頭の出来が良いやつは、こんな場所に霊奏で来たりしねぇんだよ」
「はぁ? そっちこそ知ってた? 人に馬鹿っていうやつが、一億倍馬鹿なんだけど?
それに比べて……はぁ~。こんな適確に座標移動できるなんて、私ってやっぱり天才!」
顔を合わした途端、言い合いを始めた二人を前に、ルシウスは咄嗟に当たりを見渡した。
春一番とでも思ったのか、空を見上げている人は数人いたが、混乱は見受けられない。
ホッと、安堵の息を漏れ出た。
もしかしたら、二人の男が突然消えたように見えた人もいるかもしれないけど、気のせいで終わらせてくれる。
自分に強く言い聞かせて納得したとき、すぐ前から深いため息が聞こえてきた。
「リーベ、大丈夫ですか?」
呆れと疲弊と、苛立ちのような雰囲気を醸し出している彼に、ルシウスは問う。
「問題ない、と言いたいところだが、一時は攻撃と思い違いをした」
そういえば、さっき彼は庇ってくれようとしたのだった。
さすがの彼も、こんな場所に霊奏でミレイユがやってくるなんて、予想できなかったのだろう。
「あれでは、いつまでも終わらないだろうな。今回ばかりは、私もエーレの意見に賛同だ」
彼はおもむろにこちらを一瞥すると、二人のもとへ進んでいく。
その後ろ姿を見て、言葉にはし難い違和感を覚えた。
あれ、リーベ怒ってる?
それが勘違いではないことを数秒後、ルシウスは知った。
一時は仲裁に入ったリーベへミレイユが突っかかり、苛立ちを抑えていたはずの彼は、淡々と説教で返答し始める。
彼女は即座に反駁しながらも、それはエーレへ飛び火し、やがて三人の口論へと発展した。その上、ところどころ会話が成立していないようにも聞こえた。
ひとり残されたルシウスは、その様子を呆然と眺めながら、贈り物へと視線を落とし、再び公園を見渡す。
「これ、どうしよう……」
あの中に入っていくのは無謀すぎる。
ただミレイユに返礼の贈り物をしたかっただけなのに、どうしてこうなったんだろう。
あと数十分……いや、一刻ほど待てば収まるだろうか? ルシウスはベンチを探して、視線を巡らせた。
「わかったわかった。俺が悪かった」
そこに何故か、エーレが仲裁に入っている声が聞こえてきた。
思ったよりも早くに終わるかもしれない。座って待っておくことを決めて、半身を逸らした時、
「今日はいつも以上に仲良くしてるね」
背後から、そんな声が聞こえてきた。
「シュトルツ、あれどうにかしてくださいよ」
「え、やだよ。巻き込まれたくないし。それに――」
彼は、こちらの手の中を見る。
「君には、あの中に飛び込んでいける免罪符があるでしょ」
「免罪符って……僕、何も悪いことしてないんですけど」
「細かいことはいいからいいから、ほらさっさと行った」
背を押されて、自然と歩が前に出た。
ルシウスは手の中の贈り物を見て、観念する。
僕だって、子供みたいな喧嘩に巻き込まれたくない。でもさすがに、これを渡してミレイユが怒るようなことはないはずだ。
恐る恐る近づいて、「あの」と声をかける。エーレと目が合うものの、ミレイユは見向きもしない。
「あの!」 「なによ!」
鬼の形相で睨んできた彼女に、ルシウスは咄嗟に身を引きながら、両手だけを差し出した。
「これ! ミレイユさんに!」
ほんの一瞬の静寂が訪れ、かち合った視線の先で、彼女が虚を突かれたように目を開く。
「は……? あんた、もしかしてこのために私を呼びつけたわけ?」
威圧と困惑と動揺。それらを含んだ声色は、エーレに投げられた。
再び、沈黙が挟まり、ため息を乗せた言葉が側で沈む。
「ルシウスがどうしてもって、買って来たんだよ」
どうしても、とは言ってないけど……
恐る恐るミレイユを覗き見ると、彼女は鼻白んだように目を細め、首を振った。
「それならそうと先に言いなさいよ。あんたが何も言わないから、まだくだらない用件なのかと思ったじゃない」
「これもくだらねぇだろ」
どうやら、随分な意思疎通の齟齬があったらしい。そこに再び口論は挟まれることはなく。
「はい」 彼女は、そのまま手を伸ばしてきた。
ルシウスは「えっと」と、戸惑った後、
「この前のお返しと、いつもお世話になってる、お礼……です……?」
ほんの数センチを更に差し出して、彼女の手に乗せた。
「そのうちのひと箱は、ルシウスがイレーネに渡してほしいそうだ」
いつしか冷静に戻っていたリーベが、淡々と付け加えた。
彼女は手の中のものを見て、おかしそうに失笑をこぼす。
「有難く受け取るわ。でもね。気遣いは無用よ。私は別に、返してほしくてあげたんじゃないんだから。
その顔見る限り、これ買うのに苦労したんでしょ」
「え」
眉を下げて微笑んだ彼女に、ルシウスは言葉を失った。その沈黙の中、視線は自然とエーレを捉えていた。
「だから言っただろ」
一度は合った目を逸らした彼は数瞬後、「ああ」と思い出したように、ミレイユの方へ一歩だけ前に出た。
「その袋の方――」 その声に彼女は、袋の中身を見る。
「これ、どうしてあんたが知ってるのよ」
「さぁな」
驚愕を露わにしたミレイユに、ふっと鼻で笑ったエーレは、それ以上答えずに踵を返す。
「ちょっと! 待ちなさいよ!」
すぐさまエーレを追いかけだした彼女を見送った時、「すまなかった」と隣のリーベが言った。
「いえ、渡せてよかったです」
一時は渡せないのではないかとも思った。ルシウスは安堵の息を吐きだした。
そこに歩み寄ってきたシュトルツが、「お疲れ様」の声と共に、軽く肩を叩いてきた。
彼は遠ざかっていく二人を、一瞥して尋ねる。
「煮乳だっけ? 手に入れられたんだね」
「知っているのか?」
「詳しくは知らないけど、ミレイユの思い出の味らしいよ」
「ああ、そういうことか」
ひとり納得したようなリーベを見て、ルシウスは先ほど足を運んだ店を思い浮かべた。
あのボロボロの店で売られている素朴な菓子が、ミレイユの思い出の味?
袋を見た時の、彼女の表情が思い浮かんだ。
開いた口はその理由を聞こうとしたが、咄嗟にルシウスは首を振る。
彼女の事情を裏で聞くのは、間違っている気がした。
僕はミレイユさんのことを何も知らない、
誤解していることも多いに違いない。
「そういえば――」 代わりにルシウスは、公園の入り口へと踵を返した男に尋ねることにした。
「シュトルツはお返しいらないんですか?」
「ん?」
首だけ振り返らせた彼は、小さく微笑むと、
「いらないよ。俺にとっては、相手の喜んでくれる顔がいちばんのお返しだから」
何気なく答えて、のんびりと歩を進め始めた。
「美味しく頂きますね!」
その背に、ルシウスは感謝を込めて声を送る。彼は一度、手を上げるだけだった。
「疲れただろう。戻って、あいつから貰った菓子でも食べよう」
リーベの声に頷きながら、息を大きく吸い込んで、今日一日分の疲労と安堵を吐き出す。
「そうですね。シュトルツのお菓子は美味しいですし」
そういえば、お昼ご飯もまだだった。
今日一日くらいは、お菓子から食べても許されるだろう。
レギオンへ続く道の先からは、未だ止まない言い合いが聞こえてきたが、今ではそれもどこか心地よく感じて、ルシウスは一度、空を仰いだ。
その時――後方から空へ、大きな風が舞い上がっていった。
「春がやってきますね」
「ああ、そうだな」
こんな春の到来も、悪くない。
ルシウスは空を眺めて、微笑んだ。




