ここにいる
ルシウスが話し始めた時点から、違和感があった。
エーレもよく知る感覚。しかし、方向性は真逆のそれ。
一時的な記憶の混同なら対処する必要もない。でもこれは、そんな甘いものじゃなかった。
蹲り震えるルシウスを見て、彼は激しく眉を寄せた。
――今、話しているお前は、誰だ。
失言だったかもしれない。だがそのおかげで、今のルシウスの状態をしっかり把握することが出来た。
激しく記憶は混同しているが、自我の破綻には至っていない。
でもこれが、どちらに傾くかはわからない。
いくつかの思考を並べた時、脳に仲間が過った。
『リーベ、相談がある』
伝達の返答はすぐにあった。
『どうした、珍しい』
事情を簡潔に説明したエーレは、続けて今できる対処を並べた。
『記憶を隠蔽する方法も考えた。だが、風の精霊はすぐに気づくだろうし、そうなると何しでかすかわからない』
『彼女と真っ向から対抗して、遠ざける手もあるが』
冷静さを崩さないリーベの伝達に、エーレは詰めた息を吐きだす。
『馬鹿言え。自分のことならまだしも――それに、精霊を敵に回すのはリスクが大きすぎる』
精霊はある意味で共同体だ。ひとりはふたりに繋がり、どこまで精霊を敵に回すことになるかわからない。
風の精霊はそれほど同族の繋がりが強くないから、そう思うと、まだリスクは最小限に抑えられるかもしれないが。
『ルシウスはどうしている?』
リーベの問いに、エーレは今一度ルシウスを見た。
『自我は揺らいでいるが、破綻はしていない。意識の混濁もまだ軽度に見える』
『ということは、起きているのか』
『断絶を拒まれた』
そこで伝達に、逡巡するような間が置かれた。
『それでよかっただろう。状況から考えるに、今眠るのはあまり好ましくない。
だが……どうしたものか』
どの魔法もルシウスの状態を改善する効果はない。
『受容はどう思う?』
氷の本質。断絶と相反する、もうひとつの側面をエーレは提案する。
それで未だ定着しきっていない記憶を、完全に定着させてしまえば、あるいは……
『やめておく方がいい。安定する可能性はなきにしもあらずだが、賭けになる』
定着した記憶が、ルシウスの自我の壊す可能性のある選択。
エーレもそれを承知していた。
頭を抱えそうになった時、『すぐに行く』との言葉を置き去りにして、伝達は一方的に途絶えた。
「くっそ……」
失うわけにはいかない。だが今、自分にはどうすることも出来ない。
そんな葛藤は、ルシウスを注視したと共に、何かが腑に降りてきた感覚に変わる。
それはもう何度も繰り返してきたものだった。
エーレは静かに椅子を引いてくると、ベットの隣で腰掛けて、リーベの到着を待つことにした。
「エーレ」
助けを求める幼い仲間の焦点の合わない瞳は、天井へ向けられていた。
「ここにいる」
その声にルシウスがこちらを向くが、やはり瞳はこちらを映していない。
失いたくない。その言葉を一度、落とし込んだ。
二度と手を伸ばさないと決めていたものを、しっかり拾いなおしたと自覚するために。
「……覚えてますか?」
うわごとのように言いながら、名前を呼んできた彼に「どのことだ?」となるべく平常心で応えた。
「ルミナスの泉でシュトルツが騒いで、山火事になりそうで」
「それはお前じゃない、二度目だ」
「じゃあ……いつか、途中の綺麗な湖で、僕が精霊に頼んで……あの時は綺麗だったなぁって」
エーレの脳裏にも、その景色が浮かんだ。
過去の記憶が些細なことで引き出され、パニックに陥りかけた自分を慰めるために、彼が見せた景色。
「それもお前じゃない。三度目」
「……おかしいな。あと――」
夢の中を彷徨っているような、ぼんやりとした声で繰り出される記憶のほとんどは、前回までの回帰の内容で、その全てがここまでの道中に重なっているものだった。
目の前のルシウスが見たことがある景色、もしくはそこに近しい景色。
エーレはただその言葉を聞き、静かに返した。
少しでも彼の錨になるように。それだけが今、自分に出来ることだった。
何度も記憶の照合を重ねていった時、ようやく背で扉が開かれる気配があった。
「何がすぐ行く、だ」
思わず、そんな皮肉が口から飛び出る。
振り向くことすらせずに言った言葉を、しっかり聞き取ったらしいリーベが隣に並んだ。
「すまない。一応、エルフに相談を持ちかけてみたんだが――」
彼のとった行動を意外に思ったエーレが隣を見上げるが、彼は首を振るだけだった。
リーベはすぐに反対側に回ると、優しい手つきでルシウスの額に手を当てた。
「生命力を安定させれば、少しは落ち着くかもしれない」
一時鎬でしかないが。そう言いながらも、見たことないほどに繊細な土魔法を練り上げ、ルシウスの生命力を安定させていく。
「リーベ」
その時になって、ようやく彼に気づいたルシウスは大きく瞳を開くと、途端泣きそうに顔を歪ませた。
「僕がアイリスを……貴方へ返しますから……」
その言葉にリーベが瞳を揺るがした。しかし、一瞬で動揺を抑えた彼が優しく言い渡す。
「ルシウス。それは貴方が背負うものではない。その記憶も、感情も、貴方のものではない。
気持ちだけ受け取っておくが、貴方が貴方であれば、私はそれで十分だ」
飲み込めなかったようなルシウスが、ぼんやりとした沈黙を挟み「でも……」と言葉を迷わせる。
しかしそれは続かず、生命力が安定したおかげか、はたまた意識の混濁が激しいのか。瞼がゆっくり閉じられていき、やがて彼は小さな寝息を立て始めた。
そっと掛け布団を被せたリーベは、ルシウスをしばらく見つめたあと、おもむろにこちらへと視線をくれた。
何か言いたげな表情だったが、口は開かれない。
「他に出来ることは?」
だから先に問うことにした。
「私たちに出来ることは何もない。ミレイユならもしくは……だが、今ルシウスを移動させるのも避けるべきだろう」
エーレの頭にいくつもの行動方針が同時に過る。その大半が失策だった。
「今はルシウスを信じて待つ他ないだろう」
最後に足された言葉に、エーレは立ち上がる。
「そうだな」
言葉とは相反した雰囲気を抑えられなかった彼へ、すぐさまリーベの声が飛んだ。
「何をするつもりだ?」
「俺が冷静じゃないことはわかってる。だからお前に頼った。
それでもやらないよりはマシだ」
それ以上は言わずにエーレは部屋を出た。




