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夜明けに信頼を刻む

 



 血の香りがまだ鼻腔に燻っている感覚があった。


 5月(ヘライア)ももう終わる。

 雨の時期にはまだ入ってはいないけれど、たまに湿った風を肌で感じることが増えてきた。



 まだ夜は明けていない中、草木の香りを胸いっぱい吸い込んで、僕は屋敷の外の芝生の上に寝転がっていた。



 二週間滞在したこの屋敷とも、もうお別れだ。

 城を飛び出して、腰を落ち着けながら充実した日々を送れた、初めての場所だった。


 小さな寂しさが胸に過る。

 エーレたちを見ていると、もう二度とここに戻ってくるつもりはないように思える。

 コンラートにまた会えるとも限らない。



 隣に置いた手半剣へと手を伸ばしてみた。

 その鞘は冷たく滑らかな革の感触のはずなのに、とてつもなく冷たく感じた。


 戦いで見い出した感覚よりも、人を斬ったときの感触が未だに手に張り付いている。

 それと呼応するように、血しぶきが視界を掠める錯覚が離れていかない。



 空は綺麗に澄み渡っているのに、僕の口からは、知らず知らずのうちに重たい溜息が漏れ出た。


 体がだるい。空の星はほとんど姿を消していて、一つだけ光り輝く星と月だけが浮かびあがっている。

 その星に向けて手を伸ばしてみた。

 けれど星を掴めるわけもなく、指の先をすり抜けていくだけだった。


 その時、手の先――星と月を隠すように、空よりも深い漆黒が視界に垂れてきた。



「まだ夜も明けてねぇのに、何やってんだ」


「エーレ」



 足音がなくて気づかなかった。

 彼はそのまま僕の隣に座ると、同じように空を見上げた。



「今日明日にでも雨が来そうだな」


「わかるんですか?」



 そういえばレネウスを発った時の貨物船の乗組員も、同じようなことを言っていた。



「なんとなくだけどな」



 彼はそれだけ応えると、僕と彼の間にある手半剣へと目を落とした。

 そして何か考えるような沈黙を挟んで、ちらりとこちらを見た後、その瞳を伏せさせた。



「そのうち人を斬ることにも慣れる。でも、昨日の感覚を忘れるな」


「僕の生命力、揺らいでます?」


「思った以上に落ち着いてるから言ってんだよ。昨日の一部始終は、コンラートから聞いた」


「そうですか」



 再び漂った沈黙。湿った風が通り過ぎていった。


 人を斬ったというのに、思っていたよりはショックは少ない。雑念の消えたあの世界で人を斬ったからかもしれない。

 だからまだ感情が追い付いていないだけなのかもしれない。そうであればいいと思う。



 昨日のことは出来るだけ思い出したくなかった。

 思い出すと、恐怖が際限なく湧き上がってきて、剣を握れなくなりそうだった。



 ふと隣のエーレを見ると、彼は正面を向いたままどこか遠くを見ていた。


 気の利いた言葉はない。

 けれど、用があるわけでもないのに隣にいるということは彼なりに気を遣ってくれてるのかもしれないな。

 そう思うと、なんだか心が温かくなるのと同時に、小さく笑いが零れた。



 エーレたちの言う生命力の微細な波動。それを昨日、ある程度感じることが出来た。

 親和率があがったせいか、はたまた他の何かの影響なのか。


 今、隣から感じるエーレの生命力は、凪いでいる海のようだった。


 どんなに乱戦を繰り広げても、人を躊躇いなく斬っても、何一つ乱れない生命力。

 彼らが過ごしてきた時間の長さのせいか、殺し合いに慣れすぎたせいなのか。


 僕が望んでいる場所――彼らの隣に立つということは、昨日のように人を斬ることが日常になるということだ。



 空に輝く一番星。



「ルシウス」



 選んだ名前の重さを今、初めて知った気がした。


 ――方角を同じにする者、か。


 リクサの言葉をふと思い出して、今ならそれもなんとなく理解できる気がする。


 彼らと同じ景色は見れなくても、目指す方角は同じだ。

 恐れている暇も、躊躇っている暇もない。



 重みに耐えられるかなんてわからない、それでも――

 右手で手半剣をぎゅっと握った。手に張り付く感覚は抜けなくても、もう震えることはない。



 僕はやれる。やると決めたんだ。

 その時、隣でエーレが立ち上がった。



「大丈夫そうだな。陽が昇ったら屋敷を出る。準備しとけ」



 その声に咄嗟に体を起こすと、彼はもう背を向けて歩き出していた。

 置いていった彼の言葉を一拍遅れて理解したとき、コンラートの言葉が蘇った。



 ――声なき信頼というものも、この世界には確かに存在しております――



 多くを語らない彼。けれどそこにはたしかに……



「エーレ」 僕はその背に呼びかけていた。



 何を考えてるかなんて未だによくわからない。

 傷を負ったその体で、僕を見て、何を思っているのかもわからない。

 僕はルシウスで、彼はエーレ。そんな詭弁を受け入れられたわけでもない。



 それでも――



「僕は貴方を心から信頼しています」



 僕が先に心を告げるべきだ。

 彼らが隣にいる安心感。これは心からの信頼だ。



 前を行く足が、ぴたりと止まった。


 それもほんの一瞬で、彼は何を応えるでもなく、門扉の先に消えていった。







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