声が届くとき
正面の窓が大きな音を立てて、割れる音。廊下の先からは悲鳴。
そして、どこからともなく目の前で渦巻いた風から、恐怖を引き裂くような一閃が煌めいた。
現れたのは――
「悪い、遅くなった」
「エーレ」
薄暗闇の中、月の光を背にした仲間を見て、僕は忘れていた呼吸を思い出した。
吸い込んだ息が安堵感を泡立たせてきて、膝から崩れ落ちそうだった。
「爺やごめん、窓割っちゃった」
飄々とした口調が、更なる安堵を胸に沈めていった。
すでに鮮血で染まった双剣を手の中で遊ばせるシュトルツが、コンラートへと歩み寄っていく。
「こっちは三人、片付けた」
廊下の先から剣に血を滴らせながら歩いてきたのは、月明かりに輝かしい銀髪。
美しすぎる死神を連想させるようなその姿を見た瞬間、最後の安堵は崩れることのない心強さを呼び起こした。
彼は僕の方へと歩み寄ると、「結界が役に立ったようだな」と治癒の魔法をかけてくれる。
「リーベ……」
全身にじんわりと温かい魔法が染み込んで、涙が視界を誤魔化すようにぼやせさせていく。
「んじゃ、あとは任せて」
鈴が転がるような場違いなまでの軽やかな声と共に、シュトルツが疾走、
それを合図にリーベとエーレも敵へと向かっていった。
僕は、彼らの戦いを呆然と見ているしか出来なかった。
近くにいるだけで絶対的な安心感がある。
それを感じて、上げていた腕が重力に負けて落ちていく。
負けないという信頼、敵を圧倒していく姿に湧き上がるのは、強い憧憬。
でも……
震えたままの右手。剣を持ったままそれを胸に引き寄せ、抱えた。
人を斬った瞬間のあの感触が離れていかない。
必死に震えを抑えようとしているのに、収まるどころか全身まで震えてくる。
僕は、僕はどうして……止まれ……
止まれ、止まれ、止まれ。
自分の情けなさを受け入れきれなくて、強く目を閉じたその時。柔らかい衝撃が肩に落ちてきて、その温もりに息を吸い込んだ。
「ルシウス様。顔をお上げください」
コンラートの声に顔を上げると、溢れ出した涙が、頬に涙が伝っていく感覚があった。
「初めての敵と剣を交えたとは思えないほどお見事でした」
その口から紡がれた言葉に、僕は目を見開いた。涙が止まらない。
「逃げることなく立ち向かい、一人と言えど切り伏せた。
ご自身の勇敢さを誇ることはあっても顔を伏せる必要はございません」
慰めではない。その瞳は強く、真心のこもったものだった。
その賞賛に救われた気分だった。
湧き出てくる涙を止められなくて、顔を歪ませながら大きく頷いた。
「はいっ……!」
怖かった。怖かったけれど、僕は立ち向かえた。戦えた。
しゃくりあげそうになるのを堪えるためにぐっと息を飲み込んで、強く目を閉じた。
ほどなくして近くからの剣戟や悲鳴が止んだことを知って、目を開こうとした時、頭に置かれた大きな感触に驚いてその先を見た。
「よく頑張ったね、ルシウス」
頬を血で汚しながら、首を傾げたシュトルツ。
応えるために頷いたら、また涙が出てきて、大きくしゃくり上げてしまった。
彼の手が、髪を乱暴に乱すように撫でていくのに慰められた気分だった。
「泣くな泣くな。怖かったのはわかったから」
そう笑った彼に釣られて、笑いが漏れ出る。
「二人とも無事でよかった」
その後ろから聞こえたのは、リーベの冷静な声。
足元に伏せている敵を見て、嫌悪感のような表情を滲ませながら、こちらへとやってきた。
彼は僕の方を見ては、抱えた剣に一度視線を落とした。そして再び僕を見ると目を細めて「まぁ」という言葉と共に息を吐きだし、剣を鞘に納めた。
そんな彼の言動に僕が首を傾げるよりも早く、やってきた廊下の方を一瞥すると「しかし」と続けた。
「暗殺ギルドがやってくるのは予想外だったな」
「結界は勿論、ある程度隠蔽もかけておいたんだがな。おそらく暗殺ギルドの頭か、それとも……」 逆側からの声。
「どうにせよ」 答えたのは、剣を一度払って鞘に戻したエーレだった。
「明日には発つ。もうここにはいられない」
廊下に深く沈み込むような声に、異を唱えるものはいない。
月明かりだけが見えない波紋を秘めた沈黙を照らし出した。
僕たちがここにいるとコンラートが危険に晒される。
すぐ近くで事切れている黒装束を見て、僕もただ声なく頷いた。
「そうですか、それは寂しくなりますなぁ」
その中で、コンラートの暢気な声だけが、血と闇に染まる廊下に響いた。