月明かりが照らす死線
気付けば足が動いていた。軽く右へステップを繰り出して、一撃を避ける。
次に繰り出された剣を下から流すようにして、足は前へ出ていた。
重心が先に、腕と手首がそれに乗る。流した敵の剣を巻いて、いなす。
後方から空気を僅かに裂くような流れ。考えるよりも先に、足が床を蹴って後方へ。
腹部へと突き出された短剣を捉えて、はじきあげながら足は次に動いた。
どんどん頭が冷えていく。雑念が消えていく。
僕の体なのに、僕ではない誰かが動かしているように、廊下全体が把握できる。
音が遠かった。
この場にいる全員の生命力の波動が、手に取るようにわかる。
繰り出される二人の敵の剣筋が、遅く見える。
腕から伸びる手半剣は僕の体の一部で。それは吸い込まれるように、敵の背を薙いだ。
目の前を掠めていく紅が、ゆっくりと緩やかな弧を描いた。
遅れてそれが鮮血であると認識した瞬間――
「っ……!」
頭を殴られたような衝撃がして、僕の意識の外で体が硬直した。
深く淡い夢から覚めたような感覚。
何が起こったのか理解するまで数秒かかった。
目の前で伏せた敵、剣から滴る血を見て、自分が何をしたのか理解した。
ひゅっと喉の奥が鳴った音がヤケに耳に響いてきた時、腹の底から恐怖が湧き上がってきた。
人の肉を裂いた感覚が手から腕に、腕から全身に、そして脳の髄まで達してーー
言葉には到底出来ない、耐え難いそれが全身を駆け巡る。
足元から響いた金属音で、手から剣が落ちたことを知った。
僕は、僕は……
高熱でうなされたときのような、寒気に似た震えが止まらない。気持ち悪い。
手に張り付いた感覚が消えない。
人を斬った……?
呆然と立ち尽くしてしまった一瞬――
視界の先から刃が飛んでくるのが見えた。どこかから大きな波動。
動けなかった。
衝撃に備えて目を閉じることも出来ずに、やってきたのは頭を芯から揺らす大きな衝撃。
「がっ……!」
背から魔法が来ていたのを知ったのは、壁に体をぶつけて、喉の奥から悲鳴にもならない悲鳴が零れたあとだった。
衝撃と混乱、激痛。全身に張り付いた嫌な汗。
痛みに頭を垂れた先の脚、そこに雫が垂れていくのだけが見えた。
詰まった息のまま顔を上げれずにいると、前に影が落ちてきた。
僅かな月明かりを受け、鈍く黒光りした靴。
その視界の上で刃が持ち上げるのを見て、恐怖と戦慄に息を呑むことすらできなかった。
風を割く音が耳を掠め、死を覚悟したとき――
ガラスが砕けるような音と共に、金属をはじく衝撃音がすぐ頭上から聞こえた。
恐怖を砕くような音と呼応するように、胸元からの鮮やかな光が、僕の視界を開いていく。
咄嗟に立って、背に手を当てるけれど、大きな怪我はない。
魔法の衝撃に振り飛ばされたけれど、リーベのくれた結界が守ってくれたのだ。
「ルシウス様!」
遠くからしたコンラートの声に急かされるように、僕が視界を迷わせて見つけたのは、数メートル先にある剣だった。
結界に阻まれて少し退いた敵の方が近い。結界もいつまで持つかわからない。
どうしたら……
一か八か。結界を信じて、剣を取りにいくしかない。
浅い息を大きく吸い込む。生命力を練り上げて、水の具現化を敵に放った一瞬で駆けた。
すぐ先にある。あと数歩、手の先に剣を捉えた時。
再び響いた結界発動音と背から衝撃で、気づけば倒れ込んでいた。
あと少し……どうにか這って、手半剣を握って振り返った時には、遅かった――
眼前に迫った刃。
目を閉じる暇もなかったそこに、何かが滑り込んできたのを知ったのは、火花が散った後。
「ルシウス様!」
両手剣を低く構えて、守ってくれたのはコンラートだった。
老爺とは思えないほど、どっしりと腰を落とした――シュトルツと同じような構え。
彼は僕を守るように立つと、ぐるりと廊下を見渡した。
「我が主であるグライフェン家の客人に手を出すとは……
このコンラート・アルデン。決して貴様らを赦しはせん」
低く唸るようで、同時に凛と廊下に響いた声。暗闇の中でぎらりと光った眼光。
強い怒りと闘志の一方で、その体にはいくつか傷が見えた。
立ち上がらないと――
ぐっと足を踏ん張って立ち上がり、剣を構える……つもりだった。
けれど思う通りに体は言うことを聞かずに、ハッと腕の先を見た。
手が、僕のものではないように大きく震えている。
細かく立てる金属音とその事実に、止まることを知らない恐怖が次から次へと湧き上がってきた。
強く握れば握るほど、震えが止まらない。
左手で剣を握る握手を無理矢理持ち上げて、両手で構えた。
間を置かず、後ろから甲高い金属音。それに震えが更に大きくなった。
じりっと、にじり寄ってきた敵。
見開いた目は、すぐ先にある刃から離せなくなって、同時に呼吸が置いてけぼりになった。
その中で何故か3人の顔が浮かんだ時、天啓のようにイヤーカフの存在を思い出した。
――エーレ……シュトルツ、リーベ!――
叫ぶように彼らを呼んだ。
それとほぼ同時だった。