8、雨の夜はここに
「それでね、今日はみんなで春の絵を描いたんだよ」
手を繋いで歩きながら、イヴが学校で起こったことを嬉しそうにハイイロに報告する。
特徴的すぎるその耳と尾を帽子と服の下に隠した青年は、半分聞き流しながらそれに頷く。あまりに聞いていないのを全面に押し出すと怒られるので、最近会得した技だ。
新しく任命された彼の仕事は、イヴの学校への送り迎え。
生まれた時から学校、というものに縁の無い獣人は、彼女から聞くしかどんなものか想像はできないが。目をきらきらさせるイヴから聞く様子はとても楽しそうで。
「よかったな」
ハイイロはそう言いながら、少女の頭を撫でた。
今更、そういう生活に憧れるということはない。羨ましい、という気持ちも少し違う。
ただ、その笑顔がそのままであればいいと、思って。
「ハイイロ、良かったいいところに! 手伝って!!」
家の近くまで来ると、大型のトラックの前にいるダニエルが悲鳴を上げた。
見れば檻の中に入ったクマの獣人が、目を真っ赤にして暴れている。ガシャン、ガシャンと檻にタックルする音が、閑静な住宅地に響き渡っていた。
その前でおろおろする、獣医師と助手数人。
全体の様子を眺めて、ハイイロは素っ気なく言った。
「……ばあさんから、夕食の手伝いをお願いされてるので」
「嘘!! 君いつもそんな真面目じゃないじゃん!」
「じゃあイヴがっ」
「行くぞ」
こちらはやる気満々で、鼻息荒いイヴの首根っこを掴んで、ハイイロはさっさと庭に入った。
「えぇえ、新しい子なのにぃぃ」
「目を合わせるな。 大丈夫あれくらいなら、先生がなんとかするだろ」
「そんな! ハイイロ……っちょっとぉおおお!!?」
ドアが閉まるまでの間に、か細く悲鳴が入ってきたが無視して鍵を閉めた。
「おかえり。 ほらほら、二人とも帰ったらすぐ手を洗って! ハイイロ、イヴ、これの筋取りよろしくね」
台所から顔を出した祖母が、両手で抱えるボウルに入った山盛りの野菜を指し示す。
獣人も獣も、穏やかな子も暴れる子も平等に好きなイヴは、まだ『新しい子』に未練がありそうだったが。
背中を押されて無理やり家にあがれば、観念したらしい。ブルネットの髪を靡かせて祖母の元へと駆けていった。
少女の背中を見送った狼の獣人は、その場で肩をぐるりと一つ回した。
今までを思えば、何も無い、と言って良いほど穏やかな日々。
しかし熊と対決するより、あの野菜の山の方が手強そうだと思いながら、彼も家に上がった。
その日の夜は、雨が降った。
窓にぶつかる冷たい雨音を聞いていると、夜半頃、軽い足音がこの部屋に近づくのを、彼の耳が聞きつけた。
意識は残したまま目を瞑っていたハイイロが顔を上げたところで。小さなノックと、ハイイロ? と呼びかける声がする。
開いたドアの隙間から覗えるのは、しんと静まりかえった家の音。
彼女の父も祖母ももう眠っているようだった。
元客間、今は狼の部屋になったそこに、毛布にくるまったイヴが入ってくる。そして慣れた様子で、隅に座るハイイロの膝に乗る。
もう定位置となったそこで、少女は彼の胸に背をもたせかけて小さく丸まった。
この子どもは、雨の夜はよくここにくる。
彼女は何も言わないが、父親のところにも、祖母のところにもいけないところに、幼いながら葛藤が見えるようで。
そういう細かいところに気づくようになった自分に、言いようのない気分を味わいつつ。
ハイイロは腕の中で、うとうとと船を漕ぐイヴを見下ろした。
夜に降る滴の音は静かで、もったりと重い空気をはらんでいる。どうも警戒心の無い少女に、ふさりと尻尾を動かした彼は苦い息を吐いた。
「……そんなに油断してると、喰うぞ」
すぐそこにある、温かい体を抱く手に力を込める。
すると、まだ起きていたらしいイヴが、わずかに顔を上げた。瞼は開かないらしく、目尻をさげて、笑う。
「ハイイロだったら……いいよ」
独り言を聞き取られて、バツが悪く口を噤む。
寝入り端だったのだろう、すぐに俯いて寝息を立てる少女の髪をなんとなくいじりながら、青年は呟いた。
「まぁ、そのうち、な」
数年後。
新米獣医師として働く少女と、それに言い寄る獣人を片っ端からはっ倒す、狼の姿があったとか。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!