第一話 『人生最悪の日』
デールラント中部、王都から東へ延びる旧街道を、一台の馬車が凄まじい速度で駆けていく。
道は舗装されなくなって久しいため、馬車は激しい振動に晒されており、革張りの座席にしがみつくように座っていた侯爵令嬢ヒルディア・ヴォン・ヴィンガルド=メイベルは、車体が跳ね上がった拍子に、頭を天井にぶつけた。
「痛ぃっ……たいですわ!!」
頭頂部を押さえながら蹲った直後、右側の窓が砕け、なにかが頭上を通り過ぎ、傍らで鈍い音が鳴った。
左へ視線を向けると、すぐ横に矢が突き刺さっている。
「ひぅ!」
おもわず、短い悲鳴が漏れる。
頭を下げるのが一瞬でも遅ければ、こめかみを射抜かれていただろう。
破れた窓から外へ視線を向けると、馬車と並走する馬上の襲撃者と一瞬目が合う。
鎧に身を包み、二連式のクロスボウを構えている。
ヒルディアは咄嗟に身を伏せると、反対側の座席まで這って進み、よじ登るように身を起こす。
この馬車は正面にも窓が設けられており、ヒルディアは御者を務める使用人の様子を窺う。
御者台の使用人は、右肩に矢を受け、おびただしい量の血を流している。
早急に治療しなければ、命にかかわるのは明白だ。
それでも使用人は、懸命に手綱を捌き続ける。
だが、馬車を引く二頭の馬は、長時間全力で駆け続けてきたため、口から泡を吹き溢している。
御者か馬、いずれかが力尽きるのは時間の問題だろう。
馬車の護衛を務めていたふたりの騎士は、随分前から姿を消している。
おそらく、襲撃者たちの手にかかったのだろう。
少し前まで、王都を追われて修道院へ送られるという状況を、ヒルディアは人生最悪の日と嘆いていた。
その最悪が、僅かな間に更新されるなどとは、想像すらしていなかった。
無意識のうちに髪へ手が伸び、彼女は自慢の巻き毛を指先で弄ぶ。
ストレスを感じた時のクセだ。
ただ、ここ数日手入れができておらず、普段は円筒状にカールしている髪は、萎れたようにかたちが崩れかけている。
そういえば、このところのごたごたで、鏝もあてられていないなどと、場違いなことを考えていると、これまでよりも一層激しく車体が揺れ、壁へ額を強かにぶつけた。
「~~~~~っ!!」
額を押さえながら、御者は何をやっているのだと思い、涙目で前方の窓を覗き込む。
「えっ!?」
御者はぐったりと躰を傾かせ、その手からは手綱が滑り落ちている。
コントロールを失った馬車は荒れた道を外れ、森の中へと突っ込んでいく。
「まま、まずいですわ! どうすれば――」
と、考える間もなく、倒木に車輪が乗り上げ、車体が大きく傾く。
「わ、あ!!」
馬車が横転し、ヒルディアは車内に何度も体を叩きつけられる。
ようやく静止したところで、どうにか身を起こし、扉の吹き飛んだ入り口から這い出る。
「うぅ……どう、なったんですの?」
立ち上がって背後に視線を巡らせる。
二頭の馬は馬車の横転に巻き込まれたらしく、足や首をあらぬ方向へ曲げた状態で倒れていた。
その少し離れた場所に、御者を務めていた使用人を発見し、ヒルディアは急いで駆け寄ると、矢の刺さっていない方の肩を支えて抱き起した。
「しっかりなさい!」
「お……お嬢、様」
使用人は薄目を開けてヒルディアを見上げる。
「お逃げ、ください……奴らが、来……」
最後まで言い切る前に、使用人の首が傾き、全身から力が抜ける。
重みを支えきれず、その体はヒルディアの手からずり落ちる。
血に塗れた手を見つめ、呆然となる。
この使用人の名前を思い出せない。
侯爵家では三桁にも及ぶ人間を雇用していたため、名前と顔の一致する使用人など一握りしかいなかった。
となると、この男は、自分の名も憶えていない雇い主の娘を護るため死んだことになる。
「いたぞ! あそこだ!」
近付いて来る馬の蹄の音と、男たちの声に気付き、ヒルディアは我に返る。
「くっ!」
慌てて立ち上がり、森の奥へと駆けだす。
幸い、あれだけ体を打ち付けながらも、足は痛めていないようだ。
しかし、すぐに息が切れ、脚を動かすのがしんどくなる。
舞踏会のダンスぐらいしか、激しい運動をした経験などないのだ。
だがどんなに苦しくとも、足を止めるわけにはいかない。
襲撃者たちの目的は不明だが、馬車に矢を射かけてきたということは、誘拐狙いではなく己を殺すつもりである可能性が極めて高い。
どうにか振り切ったうえで、どこか安全な場所へ身を隠さなければ。
「痛っ……たぃ!」
足に感じた鋭い痛みに、ヒルディアは顔を顰める。
このあたりには茨のような棘の生えた植物が繁茂しているため、スカートを持ち上げて走っているうち、脚は傷だらけになっていた。
「あっ!」
左の足首のあたりに強い衝撃と痛みを覚え、ヒルディアは転倒した。
藪の中へ前のめりに突っ込み、転がっていた小石に打ち付けた顎から血が滴る。
痛みに耐えながらも身を起こそうと、地面についた両手に力を込める。
その背後で、追いついた襲撃者のひとりが馬から降りる。
「まったく……散々手間取らせてくれたな」
髪を引っ張られ、ヒルディアは無理やり上体を起こされる。
「ああっ!」
襲撃者は、髪をつかんで持ち上げたヒルディアを前方に向かって放り投げる。
ふたたび地面に叩きつけられた彼女は、呻き声を漏らしながらも、少しでも襲撃者から遠ざかろうと、前方へ這って進む。
「どこへ行こうというのだ? こっちは暗殺なんて汚れ仕事を押し付けられてウンザリしてるんだ。もういい加減死んでくれ」
伸ばした手が壁のようなものに触れ、ヒルディアが顔を上げると、目の前に巨大な樹が聳えていた。
これ以上は前へ進めない。
背後から近づく足音に気付き、慌てて体を裏返すと、後方から剣を抜いた男がゆっくりと近寄って来ているのが見えた。
腰を落としたまま後退ると、背中が樹の根元に収まり、それ以上移動できなくなる。
「終わりだ、侯爵令嬢」
「おい待ちな!」
襲撃者が剣を振り上げたところで、それを止める声が森に響いた。
すると、馬に乗った鎧武者が次々と現れる。
一瞬、助けが来たのかと期待したヒルディアだが、鎧の意匠が襲撃者と同じであることから、その仲間達であると察する。
「ったく、すぐに殺しちまったんじゃもったいねえだろ」
馬から降りた仲間のセリフに、剣を振り上げていた襲撃者は、苛立ったような声で応じる。
「なに言ってる。この女の殺害が私たちの任務だろうが」
「べつに殺さねえとは言ってねえだろ。けどよ、こんな上玉だぜ? 殺っちまう前に楽しませてもらわにゃ損ってもんよ」
後から来た襲撃者の言葉を聞き、ヒルディアの身に怖気が走る。
「正気か貴様? 相手は仮にも上位貴族だぞ」
「だから、だろ? 高貴な血筋のお姫さんってのが、街娼とどう違うのか試してみようじゃねえか。それに、普段偉そうにしている貴族の娘を好きにできる機会なんて、これが最初で最後かもしらねえぞ? なあ?」
話をふられた他のふたりの襲撃者たちは揃って下卑た笑い声をあげる。
最初に追いついた襲撃者は、呆れたように溜息を吐くと、剣を収めた。
「ちっ! 勝手にしろ」
「おおそうさせてもらうぜ。テメエが興味ねえっつうんなら、次に追いついたオレが最初だな」
そう言って、男は兜のバイザーを上げる。
歯を剥き出しにしながら口の端を釣り上げ、己に向かって手を伸ばす男を見上げながら、ヒルディアは無意識に弱々しい声を漏らす。
「誰か……助けてくださいまし」
「はっはぁ! こんな森ん中で誰が助けになんて――」
「承知した」
「あ?」
傍らから声が聞こえた次の瞬間、ヒルディアの頬に熱い飛沫がかかる。
と同時に、自分に伸ばされ目の前まで迫っていた男の手が消えていた。
「お? おっ、おぉおぉぉおぉおぎゃああぁあぁぁああぁぁあああ!!!」
斬り飛ばされた腕を押さえながら、男が尻餅をつく。
その背後の襲撃者たちは、異変に気付いて即座に得物を構える。
「おい、どうした!」
「こいつ右腕がねえぞ!」
「あ、あっあっ、あいつ! あいつがぁぁあ!」
斬り飛ばされた腕を押さえて蹲る男が、涙を流しながら指差した先、ヒルディアの傍らの草むらからゆっくりと人影が立ち上がった。




