03 赤い花
胸に衝撃が走った。稲妻が爪先から身体の芯を刺激するような、激しい衝撃が。
花蓉はその原因を探るべく、自らの胸元を覗き見た。心臓のあたりから鈍色に覗く切先が赤く染まっている。そこを中心に赤は徐々に広がっていき、胸に花が咲いているように見えた。
——誰かに刺された。
そう理解した刹那、すぐ隣に立っていた璙雲が凄まじい怒声を放った。
「皓月! やめろッ!!」
目尻を極限にまで吊り上げて、顔全体を真っ赤にした璙雲は素早く花蓉の背後にいた男——皓月の襟元を掴み上げた。
その際、剣が胸をえぐったことで花蓉は痛みに唸る。一歩踏み出して、どうにか剣を抜こうとするが皓月が帯を掴み上げたことでそれは叶わない。
「心臓を刺しても生きているなど、やはり幽鬼の類だったか」
冷たい声が耳朶をうつ。背後を振り返ると乱れた髪の隙間から月神のごとく整った美貌を持つ男が、その双眸を憎悪で濁らせていた。
「やめろ! 花蓉に危害を加えるな!」
「いい加減、目を覚ますんだ。璙雲、君はこの幽鬼に騙されている」
皓月は花蓉を見下したまま、吐き捨てる。
「ほら、よくみてごらんよ。この髪を!」
帯をつかむ手を解くと、花蓉の髪を鷲掴み、璙雲に見えやすいように持ち上げた。
「まるで老婆のようだ! 目も赤く、人間とはとうてい思えない! 心臓を刺し貫いても苦しむだけで、いっこうに死ぬ様子がない。普通の人間、それも少女なら泣き叫ぶだろうに」
「彼女は人間だ! 幽鬼ではない!!」
「人間だって? 私の目には、親友を惑わす鬼にしか見えないよ。鬼はすぐ始末しなければ」
皓月は花蓉に突き立てた剣を引き抜いた。花蓉は苦悶の声を漏らし、傷口を押さえながら床に膝をつく。皓月はその隙を逃さず、あらわになった首を刎ねようともう一度、刃を振るった。
しかし、その一撃は璙雲の剣によって阻まれた。
「……邪魔をしないでくれないかい?」
皓月は血に濡れる白刃を花蓉へと向けながら、前に立ちはだかる璙雲を睨みつける。
どれだけ女が異形の存在であるか、それが璙雲をそそのかしているのかを説明しても璙雲は退く気はないようだ。花蓉を守るかのように剣を構えた。
その行動が更に皓月を苛つかせた。
(璙雲を殴って気絶させてでもあの幽鬼を殺さなければ)
皓月は決意し、柄を握る手に力を込める。
その瞬間、空気が凍りついた。
まるで雪降る夜のように空気は冷たく、張り詰めていく。吐息も凍えるような錯覚の中、皓月の足首をなにかが掴んだ。
「……やめろ」
耳元で、低く、怒りがにじむ声が囁いた。
***
風が唸り、影が濃くなり、広がっていく。
最初に我が身に起こった異変に気が付いた皓月は、かろうじて動く眼球で《《正体》》を探ろうとした。足先から無数の毛虫が這い上がるような不快な感触がする。毛虫はふくらはぎからふとももへ、腹や胸へ、と徐々に顔に近づいてくる。それらが触れた肌は、まるで冬の外気にさらされたように体温が奪われて、自由が利かなくなっていった。
(璙雲は無事だろうか)
大切な主君に怪我をさせてはいけない。自らの身の安全よりも璙雲の安全を最優先すべく、見てみると花蓉が負った傷の具合を確かめていた。皓月の動向に気を配ってはいるようだが、皓月の身に起きた不可解な出来事には気付いていないようだ。
だが、花蓉は違った。不気味な血の瞳で静かに皓月を観察していた。ゆらゆらと瞳が揺らめき、唇が微かに動く。まるで、誰かの名前を呼んでいるように。
「——ぐ、っ」
その女から離れろ、そう言いたいのに喉が凍てついて言葉が出てこない。手ぶりで伝えようとしても毛虫は手首まで這い寄ってきた。
指先の感覚も鈍くなり、柄を握る手に力が入らない。手から抜け落ちた剣が床に転がった。
その音で璙雲がぱっと振り返った。
「皓月?」
ついに毛虫は眉間にまで到達した。気道が塞がれたことで息ができない。どうにか呼吸をするべく、毛虫を払おうと腕に力を込めるが一寸たりとも動かなかった。
酸欠から視界がぼやけた。黒ずんでいく世界の中、影がうごめき、やがて一つの形を成し始めるのが見えた。
男だ。三十路を少し超えたぐらいだろうか。璙雲ほどではないが鍛え抜かれた体躯をしている。
しかし、肌は生者のものとは思えない、青みを帯びた灰色をしていた。喉には赤い線がひかれ、めくれた隙間からは肌とは違って肉肉しい色が覗いている。彼の赤い瞳は虚で、どこを向いているのかわからないが無表情の中に底知れぬ怒りを宿していた。
『……花蓉』
裂かれた喉から言葉を発すると男は皓月に向かって手を振り払うように動いた。
気がついたら、皓月は激しい衝撃音とともに壁に叩きつけられていた。全身を覆う毛虫は消え去り、動くようになったが、そのかわり、鈍い痛みが支配する。
「皓月!」
璙雲が叫び、駆け寄ってくるのが見えた。
(逃げろ。璙雲……)
肺が潰れ、気道が圧迫され、言葉がでてこない。
「りょ、うん」
無理に声を発すると血の味が舌に広がった。
それでも、どうにか伝えなければ。その娘は幽鬼だと。その男が、璙雲に危害を加えるその前に逃げろ、と。
「皓月、何があった?!」
膝をつき、璙雲が心配そうに覗き込む。
けれど、皓月は男と、男を複雑そうに見つめる花蓉に意識を集中させていた。
あれだけの深手を負ったはずなのに花蓉は微塵も痛みを訴えなかった。いや、痛みはもう消え去ったのだろう。衣服で隠れてしまっているため、傷口は見えないが鮮血が新たに衣服を染めることはない。
男を見つめる血に濁った瞳は、まるで何かを飲み込んでしまったかのように静かだ。今にも泣きそうな、それでいて辛そうな、負の感情を無理矢理抑え込んでいるように見えた。
「花蓉、君もこっちに来い! 《《なにか》》がいる!」
璙雲が声をかけると、花蓉は小さく頭を振ってゆっくりとまぶたを伏せた。
「やはり、あなたはここを訪れるべきではなかった。あの時、追い出して、二度と来ないようにすべきだった」
「おかしなことを言っていないで、こっちに! すぐに手当てをしなければ、血がッ」
「忘れたの?」
今度はゆっくりとまぶたが持ち上がる。陰が落ちて色を深くした紅玉が揺らめいた。桜唇を笑みの形にした花蓉は自らの胸を指先で撫で下ろす。
「私は、あなたとは違う。人道を外れた存在よ。怪我なんて、すぐ治るわ」
次に白い指先は鏡を包み込んだ。まだ、罅が残る鏡面を璙雲と皓月へ向けた。
「さようなら。そして、ありがとう。あなたと過ごすの、とても楽しかった」




