第20話 うまくいかないダンス
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応接室にある誰も座っていないピアノから、優雅な調べが流れている。
このピアノにはシドリウスの魔法がかかっていて、鍵盤蓋を開ければ自動で音楽が演奏されるようになっていた。
フィリーネがカロン指導の下で学ぶようになってから三ヶ月が経った。
努力の甲斐もあって基本的な礼儀作法はある程度板についた。カロンからは令嬢らしくなってきたと褒めてもらえるようにもなったので嬉しい。
しかし、どれだけ練習を重ねてもダンスだけは上達しなかった。
特に曲に合わせてステップを踏むのは難しく、頻繁に足がもつれてしまう。男役になってもらったカロンの足を何度踏んづけてしまいそうになったことか。
今だってステップを踏み間違えてよろけてしまった。
浅い呼吸を繰り返しながら、フィリーネががっくりと項垂れる。
(ああ、どうしてこうも要領が悪いのでしょうか……)
自分の身体なのに言うことを聞いてくれないのがもどかしくて堪らない。もう三ヶ月が過ぎようとしているのに、ちっとも成長の兆しが見られなかった。
このままでは教えてくれているカロンに顔向けできない。
頭を抱えていると、カロンがフィリーネの肩に手を置いてきた。
「落ち込まないでくださいまし。お嫁様は音楽に合わせて踊るのが苦手なだけで、ステップは踏めています。大丈夫でございます」
「励ましていただきありがとうございます。ですが、このままではまともにダンスの一つも踊れません」
フィリーネは嘆息を漏らした。
音楽がなければ普通に踊れるのに、何故が音楽と合わせようとすると身体がぎこちなくなって失敗してしまう。
「一旦休憩いたしましょう。汗もかいていらっしゃいますし、中庭で冷たい飲み物でも飲みながらリフレッシュするのでございますよ」
季節は巡り、日差しの強い夏になった。
中庭ではピンク色のバラが咲き誇り、エルダーの木には甘い香りがする白くて小さな花がたくさんついている。
フィリーネは案内してもらったテラス席に腰を下ろすと、カロンが飲み物を持ってきてくれた。
「どうぞ、昨日作ったエルダーフラワーのコーディアルです」
コーディアルとは、季節のハーブや果物をシロップ漬けにして水や炭酸水で割って飲む飲み物のことだ。
フィリーネは目の前に置かれたコーディアルを一口飲む。レモンの酸味と砂糖の甘さが丁度良く、夏にぴったりの味がした。
冷たい炭酸水で割ってくれているのもあって、渇いていた喉が潤った。
「とっても美味しいです!」
「クッキーもいくつかご用意したので、召し上がってくださいまし」
カロンはお盆からクッキーの皿を取ると、テーブルの上に置く。
次に取り皿に数枚のせると、フィリーネの目の前に置いた。
クッキーは二種類あって、一つはアプリコットジャムが艶めくジャムクッキー、もう一つは粉砂糖がたっぷりまぶさったスノーボールクッキーだ。
フィリーネはジャムクッキーから口に運ぶ。
バターがたっぷり練り込まれたジャムクッキーはしっとりとした舌触りで、噛み締めるとアプリコットの爽やかな酸味が口の中いっぱいに広がった。
あまりの美味しさに顎が落ちる。頬に手を添えるフィリーネは目をキラキラと輝かせた。
シドリウスの屋敷に来てから、毎日美味しい食べ物を食べさせてもらっている。
これまでアバロンド家で食べてきた料理はカチカチになったパンとくず野菜のスープ、たまの贅沢で出される肉は固かった。一方、カロンが出してくれる食事はまったく違う。
ふわふわのパンと丁寧に下処理された野菜のスープ、舌で崩せるほど柔らかな肉。そして、一度も口にすることのなかった甘いお菓子。
どれもこれも夢心地な美味しさで、世の中には美味しい食べ物がたくさん存在するのだと知った。
フィリーネがもう一枚ジャムクッキーを頬張っていると、コーディアルを飲み終えたカロンが空になったコップをテーブルに置く。
「ダンスに関しては悲観的にならないでくださいませ。シドリウス様と踊る日までまだ時間はあるので、きっと何とかなるのでございます」
「えっ、シドリウス様と踊るんですか?」
「もちろんでございます。特にお嫁様が成人したら、空都の舞踏会で踊ることになるでしょう」
フィリーネはギョッとした。驚いた拍子にうっかり咽せてしまう始末だ。
何故、生贄である自分が空都の舞踏会に参加する必要があるのだろう。
疑問に思ったが、すぐに答えは見つかった。
(シドリウス様は生贄の私を竜王陛下に報告なさるつもりなんですね)
生贄の儀式は二百年前に禁止されたとヒュドーが言っていた。
本来であれば乙女を食べるのは御法度ではあるが、フィリーネの場合は既に生贄の儀式が完了してしまっている。したがって、シドリウスは竜王陛下にフィリーネを食べても罪に問われないか確認を取るつもりなのだろう。
(これでようやく謎が解けました。カロンさんが礼儀作法と教養を教えてくれているのは、私が竜王陛下の前で粗相しないようにするためだったのですね。冷酷無比であらせられる竜王陛下の前で粗忽な態度など取れば、間違いなく首チョンパです!)
竜王陛下の逆鱗に触れるところを想像したフィリーネは、思わず自分の首に手を当てた。
もし竜王陛下に処刑されてしまったら、これまでの努力が水の泡になってしまう。
フィリーネは一日でも早く大きくなるように、毎回食事は残さずに食べた。
おかげで、アバロンド家に居た時よりも身体の肉付きは良くなったと思う。
昨夜、お風呂上がりにお腹の肉を摘まんでみたら、以前よりも厚さが増していた。
この調子でふくふくと太っていけば、シドリウスには美味しく食べてもらえるはずだ。
竜王陛下に処刑される未来は是非とも回避したい。居住まいを正したフィリーネは改めてカロンに指導をお願いした。
「挨拶で粗相しないように、そしてきちんと踊れるように頑張ります。カロンさん、引き続きご指導よろしくお願いします」
「はい。もちろんでございますよ。一緒に頑張りましょう」
断られてもおかしくない状況だったのに、親切にもカロンは快諾してくれた。
「シドリウス様も踊るのを楽しみにしていらっしゃるのでございますよ。……それでですね、お嫁様」
普段は淑やかなカロンの目が突然ぎらついた。




