第37話:グローバル・シンクロニシティ:知識と生命の進化
ロンドン大学の講堂。かつて満席だったこの場所には、教員が一人立っているだけで、学生の姿はない。全ての学生は、世界中のどこからでも、マナネットワークを通じて授業を聴講している。
教授は、目の前のホログラムに投影された複雑な数式を指さした。
「マナAIは、知識の伝達スピードと精度を革命的に向上させました。今や、この講義の内容は、地球上のどの言語にもリアルタイムで翻訳され、さらに、聴講者の理解度に合わせて最適な形式で脳へ直接伝達されています。」
映像が、アフリカの集落でタブレットを操作する少年や、病室のベッドで難解な物理学の論文を読破する老女の姿を映し出す。彼らは皆、かつての大学院生が数年かけて習得した知識を、数日で吸収していた。
「知識の偏在、言語の壁、学習効率の限界……これらは全て過去のものです。高度な知識が全人類に開かれた今、人類の知的進化は、歴史上類を見ないスピードで加速しています。私たちは今、『無知』という病から解放されました。」
パリの旧エッフェル塔の隣に新設された、眩いばかりに白い超高速交通ステーション。待つ人はおらず、人々はマナエネルギーで稼働する軽量化されたカプセルに次々と乗り込んでいく。
「パリからニューヨークまで、搭乗時間を含め、合計47分で到着いたします。座席は全てプライベートカプセルです。どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。」
都市間の距離感は消滅し、世界は一つの巨大な「グローバル・ヴィレッジ」となった。人々はもはや通勤に時間を費やさず、マナAIに管理された生産労働から解放され、それぞれの場所で創造的な活動に専念していた。
あるカプセルの中で、一人の女性が最新のホログラム彫刻を制作しながら呟く。
「かつての私たちは、生きるために働いていた。今は、『何をするか』だけが問題。この自由な時間と、無限のエネルギーは、私たちが本当に望んでいたものです。」
しかし、その背後で、退屈そうに窓の外を眺め、制作中のホログラムには全く興味を示さない、一人の元ビジネスマンの姿があった。彼の表情には、満たされない虚無感が漂っている。
新秩序統治機構の一室。綾音は、国際エネルギー安全保障機構(IESSA)の穏健派幹部であるレイモンド・クルーガーと向かい合っていた。レイモンドは、綾音の旧知の協力者だ。
「悠人くんの判断は冷徹だ。エネルギー問題が解決した今、IESSAは存在意義を失った。多くの幹部が去った。彼らは、自分たちの権威と組織が、一夜にして無用の長物になったことに耐えられなかった。」
レイモンドの顔には疲労と寂しさがにじんでいる。
「私も分かります。ですが、IESSAの持つ、倫理と安全保障に関する知識は必要です。悠人は全てを技術で解決できる。しかし、技術が『人類をどう導くか』という倫理的な判断は、人間が担うべきです。」
綾音は、IESSAを「新秩序の倫理的・技術的監視機構」として再編することを提案した。
「レイモンド。これは権力を守るためではない。人類が手に入れたこの平和が、倫理的独裁にならないよう、人間側の『良心』として、システムを監視してほしいのです。」
レイモンドは静かに頷いた。
「君の言葉を信じよう、綾音。我々は、管理された平和の『警備員』となる。ただし、去っていった者の中には、君の理想を危険だと見なす者がいることも忘れないでくれ。」
レイモンドと別れた後、綾音は機構の通路で、IESSAを脱退した元幹部の一団とすれ違う。彼らのリーダーは、かつてレイモンドの右腕だったトマス・エリスという知的な男だった。
トマスは綾音に冷ややかな視線を向けた。
「冴木さん。私は、自由な組織の終焉を見届けたくなかった。君が守ろうとしているのは、平和ではない。悠人という名の、完璧な支配者だ。我々は、この新秩序を『人類の究極の緊急事態』と見なす。」
トマスは静かに踵を返し、その場を去った。彼の言葉は、新秩序の完璧な平和に、最初の不協和音を響かせた。彼らが、後にリベリオン・コードを結成する核となることを、綾音はまだ知らない。




