夜叉王
橘彩花は庭にある石碑を見つめながら、幼い頃から聞かされてきた話を思い返していた。
「これは、平安時代に最凶の厄災を封じ込めた石碑だ。京の町を恐怖に陥れた、恐ろしい鬼を、橘家の先祖たちが力を合わせて封じたものだ。」
大人たちはそう語っていたが、彩花はその言葉を信じることができなかった。
目の前の石碑はただの苔むした古ぼけた石の塊にしか見えない。年月を重ねてすっかり風化し、威厳も神秘性も感じられない。
「こんなものが鬼を封じ込めたなんて……嘘に決まってる。」
実際、次男の勇真は子供の頃、何度もこの石碑によじ登って遊んでいた。親たちはやめるように叱るものの、それも形式的なもので、特に厳しい注意をするわけでもなかった。その程度の扱いだ。
(どうせ、大人たちがお酒を飲みたくて、月影の集いを正当化するために考えた作り話なんでしょ。石碑なんかただの飾りよ。)
彩花はそんな思いを抱えながら、月影の集いの儀式にもどこか冷めた気持ちで参加していた。
彩花はふとした遊び心で「陰陽術」を試してみた。庭に置かれた石碑の前で、ほんの気まぐれだった。
(そんな鬼がいるなら、会って話してみたいわ。)
持っていた霊符を手に取り、唱えたのは「封じる」ための術ではなく、その逆――封印を緩めるための「封徐け」の術だった。
(どうせ、こんな古い石に力なんて残ってないわよ。これで本当に何かが起きるなら、その方が奇跡だわ。)
そう思いながら、軽い気持ちで術を使った。
———しかし、何の変化も起きなかった。
酒宴の席で、分家の娘である莉乃が紗月に辛辣な言葉を投げかけている。彩花にとっては、ここ最近、見慣れた光景の一つだった。
(莉乃が、またやってるわね……でも…前は仲良かったのに…)
彩花は、それ以上興味なさそうにジュースを口に運んだ。
———その時だった。
——「ゴゴゴ……」——
彩花は思わずジュースのグラスを置き、音の方に目を向けた。
「……何?」
周囲の空気が一瞬で変わった。酒宴のざわめきも次第に小さくなり、誰もが耳をすませる。
「今の音……なんだ?」
宗近の声が響き、席にいた人々が一斉に立ち上がる。彩花も慌てて立ち上がり、庭の方へ視線を向けた。
(まさか……石碑?)
胸がざわめき、不安が広がる。その音は次第に大きくなり、どこか禍々しい気配を伴っていた。
(まさか……この前、私が……?)
彩花の脳裏にふと、数日前の記憶がよぎる。軽い気持ちで試した「封徐け」の術———
それが、ただの遊びのつもりだったのに――何かを引き起こしたのかもしれない。
音はますます激しさを増し、庭の方向からは異様な光が漏れ始めていた。
「庭に出るぞ!」
宗近が鋭い声を上げ、他の者たちもその後を追った。彩花は胸を押さえながら、足がすくむのを感じつつも、庭に向かって駆け出した。
(私がやったことが原因なの……?そんな……でも、そんなはずない……!)
自分の行いに恐怖と後悔が混ざり、彩花はただ光の中に佇む石碑を見つめるしかなかった。
「ゴゴゴ……パキッ……!」
石碑が完全に崩れ去り、砕けた破片が周囲に飛び散ると同時に、渦巻いていた黒い霧が一気に石碑があった場所へと集まり始めた。
黒い霧はまるで生き物のようにうごめきながら、徐々にその形を変え始めた。
———霧が収束し、やがて人の輪郭を形作る。
そして、霧が完全に消え去った瞬間———そこに立っていたのは、一人の男性だった。
整った顔立ちに、風になびく長い黒髪。その黒髪は闇そのものを彷彿とさせる。
雅やかな着物をまとい、どこか気品すら漂わせたその姿は、一見すればただの上品な若者のようにも見える。
しかし、その存在が放つ異様な気配は、彼がただの人間ではないことを強く物語っていた。
——彩花の体が、小さく震える。
(嘘……私のせい……「封徐け」の術を使ったから……なの……?)
胸が締めつけられるような苦しさが襲い、彩花は無意識に手を胸元に当てた。
(でも……あの人を見ていると……何故だか……胸が痛い……)
まるで、彩花自身の記憶の奥底を引きずり出そうとしているかのようだった。
(この人は……いったい……誰なの……?でも……知っている……気がする……。)
———橘家一同はその場に立ち尽くしたまま、誰一人として動けなかった。
符を握る手が完全に固まり、調略の術を唱えようとする者すらいない。
紗月は身体中が震え、全身に鳥肌が立つ。
彼女の視線はその男性に釘付けになりながらも、恐怖に支配されて直視することすらできなかった。
(なんやの……あの人……怖すぎて目え向けれへん……!)
長髪の若い男性は、ゆっくりと辺りを見渡すと、興味なさそうに口を開いた。
「ふむ……どのくらい時間が経ったかわからぬが、陰陽師どもはまだ滅びていないようだな……虫けらどもが案外しぶとい……。」
その声は静かで落ち着いていたが、言葉に込められた冷たい侮蔑が、聞いている者の胸に突き刺さる。
「まぁ、よい。当分は生かしといてやるか……あの、ふざけた輩は……流石に生きては、いまい……。」
「ふざけた輩』と口にしたとき、男性の顔に一瞬、苦々しい感情が浮かんだように見えた。
すると彼はゆっくりと両手を組み、印を結び始めた。
その動作は明らかに陰陽師の術式であった。
「木火土金水、五つの道を繋ぎて示せ。飛翔の力我に宿れ。」
次の瞬間、男性の身体がふわりと浮き上がる。そして、風に乗るように飛び去っていった。
男性が去った後、その場にいた全員が冷や汗を流しながら、やっと動き始める。
分家の若い者の中には、腰が抜けて立ち上がれない者もおり、みな顔面蒼白で震えていた。
「……あれはいったい……なんなのだ……。」
宗近が気力を振り絞って声を出す。彼の声は普段の威厳とはかけ離れ、震えていた。
「鬼……いや……しかし陰陽術を使っていた……あれが…伝承にある夜叉王なのか……。」
紗月もその場で腰が抜け、屋敷の柱にしがみついていた。彼女の胸は恐怖と絶望でいっぱいだった。
(陰陽師って、あんな化け物と戦わなあかんの……?)
紗月は自分の震える手を見つめた。陰陽師に憧れがあった自分が、ただの愚か者に思えて仕方なかった。
(うちには……到底無理や……。)
瓦礫と化した石碑の前に立ち尽くしていた宗近は、恐る恐る足を進めた。分家の当主たちもそれに続き、慎重に崩れた石碑を調べ始める。
「……これが、あの夜叉王を封じていた石碑だというのか……。」
橘東家の当主、橘東桂一は、地面に膝をついて崩れた石碑の破片を手に取った。表面には苔が張り付き、ひび割れが何重にも走っている。
「宗近様、これは……随分前からひびが入っていたようです。」
桂一が破片を手に取りながら冷静に言った。
「どうやら、何かのキッカケがあったのかもしれませんが……遅かれ早かれ、この封印は解けていたでしょうな。」
「……封印が、時間の経過で壊れるものなのか?」
桂一は静かに頷き、破片を丁寧に地面に戻した。そして宗近の方を向き、声を低めて語りかけた。
「以前から申し上げていたことを覚えておられますか? 『月影の集い』が形骸化していると。」
宗近は視線をそらしたが、何も言い返さなかった。
「本来、この儀式は橘本家と、東西南北の分家が揃い、力を合わせて行うものでした。しかし、ここ数十年、本来の形式が失われ、形だけのものになっていました。」
桂一は静かに石碑を見つめ、その場に集まった者たちの顔を順に見渡した。
「宗近様、以前、私が申し上げたように、橘北家を再興し、紗月に陰陽術を教えるべきだったのではありませんか?」
「……その話はもう何度もしただろう。北家の再興は、今の橘家にとって……」
「———宗近様。」
桂一が強い口調で遮った。
「思うところもあるでしょうが、橘北家が長きにわたり橘家を支えてきたのは事実。」
「………」
「北家の再興を認めることで、我々の力をもう一度結集させることができたはずです。だが、頑なに拒まれた結果がこれです。」
宗近は返答に詰まり、視線を逸らしたままだった。
そのやり取りを少し離れた場所から聞いていた紗月は、身体を震わせながら柱にしがみついていた。
(うちが……陰陽術を……?)
信じられない思いで、紗月は桂一の言葉を反芻していた。
「いずれにせよ……」
桂一は立ち上がり、宗近に向き直った。
「あの者が夜叉王であれば、橘家だけでどうにかできる相手ではありません。陰陽師協会に助力を求めるべきです。」
「そうだな……だが、その前に……彩花と話さなければならない。」
「彩花様……?」
桂一が訝しげに問いかける。
庭の中央、崩れ落ちた石碑を見つめながら、橘家の一同は沈黙していた。
「彩花……父に言うことはないか?」
その一言で、全員の視線が彩花に向かう。彩花の顔色がさらに青ざめ、震える手で霊符を握りしめる。
「まさか、彩花……お前が何かしたのか?」
長男の雅彦が威圧的に声をだす。
彩花は言葉を探そうと口を開きかけたが、何も出てこない。ただ顔を伏せ、唇を噛むばかりだ。
その時――
「うちです!」
場を切り裂くような声が響いた。全員の視線が、一列後ろに立っていた紗月に向く。手をぎゅっと握りしめながら、一歩前に出た。
「うちが……石碑の近くに行ってもうて……なんか、余計なことをしたかもしれません!」
雅彦は眉をひそめ、紗月を鋭い目で見た。
「紗月、お前が何をしたというのだ?」
「そ、それが……わかりません! でも、石碑を触ってもうたんです……。それが原因かもしれません!」
紗月は必死に言葉を紡ぎ出した。心臓が爆発しそうなほど鼓動が早い。それでも彩花を守りたいという気持ちだけで、彼女は嘘を重ねる。
「……馬鹿な!お前ごときに封印をどうこうできるわけが――」
分家の当主たちが呆れたように声を上げる。
しかし、宗近は深く考え込むように目を閉じた。彼の重い沈黙が場に緊張を漂わせる中、彩花が一歩前に出ようとした。
「……父様、あの――」
だが、彩花の言葉を遮るように、紗月がさらに声を張り上げた。
「ご、ごめんなさい! ほんまにうちが悪いんです! でも、これ以上何も言えません……すみません!」
紗月は深く頭を下げた。背中に皆の視線が突き刺さるのを感じながら、彼女は必死に震えを抑えようとする。
「紗月……。」
しかし、次の瞬間、庭の外から異様な気配が漂い始めた。遠くから響くかすかな低音。
———「ゴゴゴ……」
「なんだ……?」
宗近が顔を上げると、周囲の者たちも緊張した表情で気配を探る。庭の外、闇の中からうっすらと動く影が見えた。
「妖だ!封印の残り香に誘われた!」
橘東家の当主、桂一が叫ぶと、他の者たちもすぐに霊符を構えた。
「今はそれどころではない! 妖を追い払うぞ!」
宗近が声を張り上げ、場の空気が一変する。
紗月は再び立ち尽くしたまま、胸を押さえる。恐怖と安堵が入り混じり、息が詰まりそうだった。
(彩花様……今はこれでええ。これ以上、誰にも責められへんように……。)
彩花はそんな紗月の横顔を見て、何か言いたげに口を開こうとしたが…何も言えなかった。