残り香
屋敷の周りを囲むように、庭の外からゆっくりと霧を纏いながら妖が近づいてきていた。
月光に照らされたその姿は、全身が薄い霧に包まれ、輪郭はぼやけて曖昧だ。だが、顔だけは異様にくっきりと見えた。
———「妖だ!」
橘東家の当主、橘東桂一が険しい顔で叫ぶ。
「封印の残り香に誘われてきたんだ!」
その言葉を聞いた途端、橘家の人々は一斉に霊符を握りしめた。
「……低級の妖?……だが……」
その声音には明らかに動揺が滲んでいた。
「……か、数が多すぎる……!!」
霧の中から姿を現した妖たちは、次々と数を増し、庭の周囲を埋め尽くしていく。数え切れないほどの妖が、屋敷を包囲するようにじりじりと迫ってきた。
「結界を張るぞ!」
宗近の声は普段の穏やかな当主のものではなく、強い緊張感を帯びていた。
「東方、桂一! 西方、隆弘! 南方、明良! 持ち場について結界を張れ! 北方は雅彦、お前が守れ!」
各方向の当主たちはすぐさま自分の持ち場に向かい、霊符を構えて印を結び始めた。
息子の雅彦も宗近の指示に従い、北側の守りを固めるべく持ち場に走った。
手早く準備を済ませた分家の当主たちはそれぞれの持ち場で結界を張るため、呪文を唱え続けている。
「天つ神、地つ霊、四方を護りし光よ、邪を退けよ――『封界結界』!」
彼らの声が庭全体に響き、徐々に結界が形成されていく。しかし、完成には時間が必要で、その間に妖たちは中庭に次々と侵入してきた。
——「妖が中に入ってきてるぞっ!!」
宗近は歯を食いしばり、すぐさま結界の外へ飛び出した。
「キリがないっ! 私は外の妖を減らす! 中は任せた!」
侵入した妖たちは庭をうろつきながら、目に見えない瘴気をまき散らしている。
(なんで……うちだけ……動けへんのや……!)
紗月の視界には、分家の若い者たちが次々に呪文を唱えて入ってきた妖を払おうとする姿が映っていた。
橘南家の跡取りである達也は、霊符を構え、指先で印を結びながら、妖たちの動きを観察していた。
「まずは動きを封じる」
霊符が鮮やかな光を放ちながら空中を舞い、前方の妖たちに突き刺さった。
動きが鈍くなった妖を見て、達也は直人に叫んだ。
「直人、今だ!!」
達也の言葉を受けた橘西直人は、霊符を投げ素早く印を結び、呪文を唱えた。
「天火よ、我が霊符に宿り、闇を焼き尽くせ――『焔の槍』!」
———「ギャァアアアア……」
霊符が炎を纏った槍の形となり、妖の霧の身体を貫いた。
「数は多いが、力自体は大したことはない。数で押し切られる前に減らすぞ」
一方、橘東家の跡取りである慶介は、霊符を頭上に掲げながら、独特のリズムで呪文を唱え始めていた。
「輪を結びて闇を断つ、五行の剣よ――『五芒斬』!」
霊符が空中で輝き、五つの光の刃となって妖たちに向かって放たれる。
「焦るな。相手は数で勝負してくるが、一体ずつ確実に仕留めればいい」
「そう言っても、無限に湧いてくるような気がするけどな……!」
「まだ結界が完成していないんだ。俺たちが持ちこたえるしかない」
慶介が再び霊符を手に、必死に妖たちの攻撃を防ぎながらそう叫んだ。
「——危ない!」
突然、達也の叫び声とともに霊符が舞い、紗月の目の前で炸裂した。その衝撃で、身体がぐらつく。
「お前、何してるんや! 下がっとけ!」
頭の中は真っ白で、何をどうすればいいのかわからない。
(う、うち、邪魔なだけや……)
妖たちの数は次第に増え、戦いはさらに激しさを増していく。
術が次々と放たれ、妖たちの動きを封じたり、霧の身体を切り裂いたりするが、完全に数を減らしきることはできない。
「結界が張れるまで、あと少しだ……! 持ち堪えてくれッ!!」
遠くから雅彦の声が響いた。
皆で最後の力を振り絞り、必死で妖たちを押し返し続ける――。
そんな時、莉乃が険しい表情で、紗月を睨みつける。
「邪魔だから、向こうに行ってて!」
(……ほんまに、うちには何もできひんのか……?)
周囲で必死に戦うみんなの姿と比べ、自分はただそこにいるだけ。それが余計に惨めで、言い返す気力すら湧いてこなかった。
莉乃は冷たい目で紗月を一瞥し、そのまま踵を返して戦闘に戻っていった。
(……うちだって、ほんまは……みんなの役に立ちたい……)
紗月は拳をぎゅっと握りしめた。
「もっと急げ! 全て払えなければ――屋敷が……!」
雅彦の怒号が庭全体に響く中、妖の群れはじりじりと屋敷へと迫り続けている。
霧を纏う妖たちは、まるで屋敷を飲み込むかのようにその輪郭を揺らめかせ、不気味な音を立てながら距離を詰めてきた。
紗月の目の前にも、ひときわ大きな霧の塊が立ちはだかる。
(……逃げなあかん……ここにおっても、うちには何もできひん……)
紗月はゆっくりと後ずさりし、蔵へと向かって走り出した。
(なんで……なんでこんなことに……!)
そして、暗い通路の先、蔵の影が見えた。
(見えた! あと少しや……早く、早く……!)
足を速めようとするが、恐怖で身体が思うように動かない。
「いやや……来ないで……!」
蔵の前にたどり着いた瞬間、その場に倒れ込んだ。地面に手をつきながら、必死に蔵の扉を押し開ける。
(中に入らな……早く入らな……!)
身体を滑り込ませると、力任せに扉を閉じ、鍵をかける。
外からは、まだ妖のうめき声がかすかに聞こえる。それが遠ざかる様子はなく、むしろ扉のすぐ向こうにまで近づいているような気がしてならなかった。
(頼むからこっちに来んといて……)
「……だ、誰か……おらんの……?」
小さく呟いたその声に、蔵の中の空気がわずかに揺れる。それは、まるで誰かが返事をしたようだった。
(……え……誰かおる?)
紗月は恐る恐る、薄暗い蔵の奥に目を凝らした。
しかし、そこには――誰もいない。
(気のせいや……ただの暗闇や……)
紗月は蔵の中の薄暗さに耐えながら、恐る恐る奥へと進んでいった。
(霊符……霊符を持たなあかん。何も持ってへんなんて怖すぎる……)
霊符の使い方も術も知らない。それでも、手元に何もないという事実が耐えがたいほどの不安を掻き立てた。
蔵の奥へ進むと、そこには橘家の霊符が保管されている小さな棚があった。紗月はその中からいくつかの霊符を取り出し、震える手で握りしめた。
(……これで……少しは……)
胸の前に霊符を抱え込むと、ほんの少しだけ心が落ち着いた気がした。
(ほんまに、誰もおらへんの……?)
目を凝らしながら進むと、奥の隅に見覚えのある大きな鏡が見えてきた。
それは、紗月にとって幼い頃からの「友人」のような存在だった。
(なんでも言える相手……この鏡だけは、うちの味方や……)
幼い頃に、自分の不細工な泣き顔に吹き出してからは、鏡に向かって変顔をするのがルーティンになった。そして何か嫌なことがあれば、必ずこの鏡に向かって思いをぶつけてきた。
紗月はそっと鏡の前にしゃがみ込むと、上にかけられた布を指先で掴んだ。
(……今のうち、どんな顔しとるんやろ…また、笑えるやろか……?)
そう思いながら、布を静かに剥がした瞬間———
「……い、いったい……なんやの、これ……」
紗月は息を呑み、思わず後ずさる。
夕方に見た時には、ただの普通の鏡だった。
しかし今、その鏡面には見たこともない奇妙な文字が浮かび上がっていた。
文字はまるで生きているかのように揺らめき、薄く光を放ちながら次々と形を変えていく。紗月は霊符を抱えたまま、震える手を抑えることができなかった。
(なんやの……これ……うち、何もしてへんのに……)
その時――鏡の中から、何かがこちらを覗き返しているような感覚に襲われた。
(だ、だれか……おるの……?)
恐る恐る鏡を覗き込もうとする紗月。
しかし、鏡面に浮かぶ文字が一層輝きを増し、思わず鏡から目を背けたその瞬間、鏡面から声がした。
「おー、やっと出られた! すぅ〜はぁ〜、カ、カビ臭っ!! 外の空気ってこんな悪かったっけ?」
あまりの呑気な調子に紗月は思わずつっこんだ。
「いやいや、あんた誰や! しかもここは外やない!! 蔵ん中や!」




