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翌日、夜明けと同時に目を覚ましたティアは、身を起こして社からの景色を眺めた。フレリスの姿はない。ただ社の正面に作られた竈に、煤とわずかに焦げ付いた兎の骨が残っている。
ティアは朝から雑草取りの続きを行った。午睡を経て山と積まれた雑草は、ティアの胸ほどまでの高さがある。
すでに空が赤らんでいた。薪を集め、竈の煤を掃除し改めて整える。祠を軽く掃除し、また社の寝床となる辺りを掃き清める。そんなことをしている間に夜を迎えた。
フレリスはどこかから猪の子を捕まえてきていた。すでに解体処理を済ませていて、ティアは初め首を落とした赤子か勘違いして焦った。
「猪の肉はクセが強いから、穀醤で煮詰めないと食べられたものじゃないんだったわよね」
鍋まで持ってきたフレリスは、ティアに笑みを見せる。
「少し思い出してきたわ。確か牡丹鍋って言うんだったわよね」
そのどこか楽しそうな様子に、ティアは少し驚いていた。遅れ気味に返答する。
「ええ、はい。よくご存知ですね。やっぱり食べられたんじゃないですか?」
「いいえ。でも、よく作ってあげていたわ」
鍋を眺めていたフレリスの笑みが、突然凍りついた。
聞き返そうとしたティアが口を開く前に、フレリスは鍋を投げ捨てる。肩をすくませて、ティアは打ち捨てられた鍋を見る。側面が石に当たったらしく、へこんでいた。
「材料はあるんだから、もういいわね。ちゃんと食べて体力をつけなさい」
冷たい声で言い捨てて、フレリスは去っていく。ティアは一声も発さず、身じろぎ一つせず、その背中を見送った。猪肉と鍋、大葉に包まれた穀醤がかまどの周りに散らばっている。臭味取りの香味野菜が足りない、と伝えることは、もうできない。
また日が昇った。祠に果物が転がっているのを見て、ティアはため息を吐いた。ぼんやりとした表情で空を見上げる。
この場所での寝食に慣れてきていた。今日はどこを掃除するべきか、と考えて、ティアはごろんと寝転がる。
「なんのために、ここにいるんだろう」
生贄とは、何のことだったのだろう。掃除が終われば、フレリスに殺される。そうなのだろうか。そうだとして、村は守られるのだろうか。ただ掃除をするために、村から寄越されているわけではないはずだ。脳裏に、幼い日に見た森の姿が浮かぶ。静謐で、深遠で、途方もなく恐ろしかった、お姉さんを飲み込んだ暗い暗い道の向こう。あのころに想像していた、洞窟と、奥の祭壇と。
お姉さんの穏やかな死相。
きっとそうなんだろう、と願っていた。自分もそうなるのだろう、と信じていた。だからティアは、生贄になることを恐れなかった。恐れる必要がなかった。お姉さんがやり遂げた、村のために不可欠な仕事を、自分もまた担うことができるのだから。けれど、実際は、ただ荒れた社を整えるだけだ。食べ物は与えられ、雨風も防げる環境で、何日も働く。その仕事はまるで、村に居たころと同じようで。さらに蓋を開けてみれば、守り神と信じていたものは、人を忘れた人だった。生贄として命を賭して、それで、本当に報われるのだろうか。ティアが村を出るときに願った、村人の幸いは、叶えられるのだろうか。お姉さんも、本当にこんな仕事を行っていたのだろうか。生贄とは、いったい何のためのものだったのだろうか。
今は、少し、怖い。
「ああ、もう! ダメダメ、早くやっちゃおう」
ティアは声に出して思考を振り払った。立ち上がる。
瞬間、目蓋を閉じたかのように視界が暗くなり、平衡感覚を失って体が傾いだ。戸口に半ば体当たりをして体を支える。視界に明るさが戻って、改めて自分が目蓋を開けたままだったことを確認した。立ちくらみだ。
「あれ……疲れたのかな」
まさか、とティアは自ら否定した。普段より夜が早いくらいで、村暮らしより厳しい要素はひとつもない。
ポリポリと指先で首筋を掻き、間抜けに開いた口を閉じて自分の体を見下ろす。ちゃんと立てることを確認して、ティアは息を吐いた。
「よし、やらなきゃ」
ぐっ、と手を握る。今日は、屋根の泥をこそぎ落とす。
梯子を持って屋根に上がる。地面が遠くなり、目線が高くなる。雑草がひとつもない、均された地面が日を照り返している。土を焼いて作った石……瓦で葺いた屋根によじ登り、ティアは微笑んだ。木のヘラを握る。瓦の間に詰まった泥を削ぎ取り、捨てていく。また見えるところは一つずつ丁寧に磨いた。屋根の縁から身を半分も乗り出して、腕を伸ばし瓦の裏に手を入れる。
ティアに高所の恐怖は無縁だった。森の子であったティアは、高所の不安定を御す方法に精通している。むしろ不安定を制御することに喜びさえ感じた。木を登り、登りきり、あまつさえ、しなる枝を伝って隣の木に乗り移ったときの、胸をすくような快感は、無上のものだ。親や長老には叱られた。弟にすら、たしなめられた。それでもティアは、木に登ることをやめなかった。木が好きだったのだ。木肌の触りも、うろに指をかける重みも、足に感じる枝振りも、しなって揺れる柔らかさも、ティアには奥ゆかしく好ましい。とりわけ日に照らされた幹に抱きついたときの、じんわりとした温もりは、何にも代えがたかった。そうして家財と仕事をなげうって、木とともに育ってきた。
報いを受けた。
ティアはあるときから急に、木の上が居心地悪く感じられた。枝振りが狭く、身を屈めなければ座れない。枝のしなりが悪く、揺れを感じない。うろに手をかけると、木の肌が剥がれてしまった。それでもティアは、木の上の心地よさを満喫するつもりで、抱きつくようにしてよじ登った。
叩き落とされたのだ。
覚えているのは、枝葉を叩くバサバサという轟音と、足を掬われて体が回転し、視界に入ってきた空だ。
しばらくは、森にも行けなかった。腕に打ち身が残り、怪我を診てもらうときに、長老に教えられたのだ。大きく育ったティアの重みは、木には負担であった、支えきれなくなってしまったのだ、と。決して見捨てたわけではない、それがために軽い怪我で済んだろう、と。
無垢な暴力の報いではなかった。ティアが木を好きなことは、木も喜んでいるに違いなかった。ティアはまた森に足を運ぶようになった。もう無理に木に登ることはなくなった。お互い傷つかないために。
ティアは日に炙られて熱を持った瓦から、体を離した。いつの間にか、日が高い。よく照って、見映えよく輝いている。その眩しさに目がくらんだ。傾いた足元の不安定が、突然波打つ。ティアは慣れた感覚通り、熱い瓦を踏んで体を整えた。にもかかわらず、ティアのひどく狭まった景色では、地面が大きく回り込んで目の前に迫ってきている。




