第五話:再会
奈緒美から指定された『アンブレ』という名の喫茶店は、国道沿いの雑居ビルの一階にあった。小さな看板しか出ていないその店は、昼時だというのに客もまばらで、静かに流れるBGMとサイフォンのたてる吐息だけが耳を突いた。
生垣に私の姿を見た奈緒美は、慌てた様子で駆け寄り、この店の大まかな場所と「後で行くから」というセリフだけを残して老婆の元に戻った。そのまま何事もなかったかのように世話を続け、二度と私の方を見ようとはしなかった。
窓ガラスには冬枯れのどこかはかなげな青空と、国道を行き交う車列が途絶えることなく映っている。その風景をぼんやりと見つめながら、私はさっきの奈緒美の様子を思い返していた。再会を喜ぶ風でもなく、いやそれどころか私の訪問を迷惑がっているようにさえ思えた。
初めて病院で会った時とあまりに違いすぎる反応に私は当惑していた。
そんな状態がどれくらい続いたのだろうか。奈緒美が入口のガラス戸を開ける姿が眼に飛び込んできた。目の前に置かれたコーヒーに一口も手を付けていないのに気づき、ふと口にするとコーヒーはすっかり冷めていた。
「ごめんなさい、すぐに出れなくて……」注文を取りにきたマスターらしき男性に「いつものを」と慣れた様子で注文しながら奈緒美はそう言った。
「……久し振りだけど随分印象が変わったので驚いたよ。元気そうだね」
「どれくらいになるのかしら、お別れしてから……」
「ちょっと待ってくれよ。あんな別れ方はないんじゃないかな……俺の方は別れたと言われても腑に落ちないよ。一方的に婚約破棄なんて……」
「………………」
「お待ちどうさま!」その時、奈緒美の『いつもの』飲み物が運ばれた。笑顔で受け取り一口含んだ奈緒美はカップを手にしたまま、視線を遠くへ投げ続けていた。まるでどう話せばいいのか、どう切り出せばいいのか考えあぐねているかのように―ー
沈黙を破ったのは奈緒美の衝撃の一言だった。
「どうやって私を探し出したの。いえその前に……あなた……誰なの?」
「………………」
「祐介さん……じゃないわよね。ううん見た目は確かに祐介さんだけど、あなたは彼じゃない。そんな事あるはずがないけど……そうとしか思えないのよ」
それから堰を切ったように奈緒美の話が続いた。
「いいわ全部話してあげる。あなたが祐介さんなら、ただ単に記憶を失くしているだけならとても伝えられないけど、そうじゃないなら受け止められるでしょう」
「あなたが、いえ祐介さんが仕事の関係で前橋に来たのは私がまだ高校生の頃だった。あなたは市民ホールを作る現場の監督で、父の会社が下請けだった。あなたは父に気に入られて休みの日なんかよく家に食事しに来てたわ。私の事も父と二人でよくからかって……」
幸せだった頃の思い出を語るかのように、優しい視線が投げかけられた。
「あなたが前橋にいたのは2年ほどだったけど、その間に父はすっかりあなたを私の将来の婿にと思っていたし、私もそう望んでいた。でもあなたはその話になるといつも困ったような顔をしたわ。私の事が嫌いなのか、あるいはご両親が亡くなっている事を気にしているのかと思っていたけど、違ったわ。あなたが気にしていたのは妹さん、涼子さんの事だった」
「……涼子?」当然じゃないかと思った。両親が亡くなりたった一人の肉親なんだから……。
「その意味が分かったのはずっと後。その時は単に妹の反応を気にする兄の気持ちと思っていたわ。でもそんな煮え切らないあなたの態度を見て、父ももう少し時間をかけてと思ったんだと思うわ。結局白黒をつけないままあなたが東京に戻るのを見送ったのだから」
そこで一区切りを付けるかのように、奈緒美はテーブルに置かれたグラスから水を一気に飲んだ。
「あれは私が大学卒業直前の頃だった。バブル後の不景気で父の会社がおかしくなって、焦る父がうまい話に飛びついてとんでもない借金を抱えさせられたのは……そして父は家族に迷惑をかけまいとして自殺した。あなたにも遺書が残されていたのよ。もちろん現物は見てないけど、お葬式の後参列していたあなたに教えてもらったのは……私を頼むって書かれていたという事だった。あなたは生前あれほど慕っていた父の最後の頼みすら受け止められなった。その時ようやくその理由を明かしてくれたわ」
「……理由って?」
「それは………………」まだためらいを見せる奈緒美だった。しばらくの沈黙の後重い口が開かれた。
「それは、あなたが涼子さんを愛していたからよ」
「そりゃそうだろう……」
「いいえ違うの! 妹としてではなく1人の女として愛してしまってたのよ。あなたが話してくれたのは、いつからそうなったのかは分からないけど、ご両親が亡くなってから数少ない親戚の間をたらい回しにされている内に芽生えた、お互いへの過度な依存がいつしか愛情に変わっていったのだろうっていう話だった……祐介さん本当に苦しんでた。人倫に反する関係に妹を巻き込んだって……」
あの夜の涼子の行動が理解できたような気がした。退院後の2人きりの生活が涼子に昔の関係に戻れるかどうかを確かめさせずにはいられなかったんだろう。でも……その時私の口を突いて言葉が溢れ出していた。
「でも……涼子は俺とも付き合っていた!」
「えっ!」一瞬奈緒美の瞳が大きく見開かれた。
私はすべてを話すしかないと思った。私は事故に遭ってからの話を、不思議な甦りの経緯を奈緒美に伝えた。
「……やっぱりそうだったの。話し方や仕草だけじゃなくて病院での涼子さんへの接し方を見ていて違和感を感じていたの。あんな事があったのに……」私の話に聞き入っていた奈緒美がその終わりと同時に小さくため息をついてそう言った。
「私がソープで働いていたのも知ってるわよね。店を訪ねてきたのはあなたよね。あなたが私の事を聞いたボーイからこっそり連絡があって年格好を聞いてあなただと思っていたから……実は父の残した借金には個人保証の分もあって、全財産を放棄しなければいけない所だった。でも私は今、母が1人で住んでいる家だけは手放したくなくて債権者に掛け合って長期の分割返済にしてもらったの。でも毎年の返済額もとても普通のお勤めの仕事で得られるような額じゃなくて……女が確実に多額のお金を手にするには他に方法がなかったわ。それから約10年、来る日も来る日も男たちの相手をし続けたわ。そしてようやく去年返し終わったの。でもその間は本当に辛かった……母のため、家のためと割り切ってたつもりだったけどあまりに辛くて、ある時祐介さんに連絡したの。その頃私精神状態が不安定で……たぶん彼はそれに気付いたのね、すぐ会ってくれたわ」
その時の祐介の驚きと心配が実感できるような気がして私は小さくうなずいていた。
「駆けつけてくれた祐介さんにすべてを打ち明けた……彼はしばらく無言で私を抱きしめていてくれた。それから不意に『俺たち結婚しよう』って言ったのよ。あんまり突然で、しかもそんな状況だったから単なる同情か憐みだと思って断ったら……」
「断ったら……」話に引き込まれて思わず復唱していた。
「祐介さんの方でもその直前に大変な事があって……涼子さんが妊娠してしまって……2人でさんざん悩んだ末に堕胎したらしいの。その時やっと本気で2人の関係を兄と妹に戻す決意を固めたから、私さえ嫌じゃなかったら是非一緒になってほしいって言われたの。それで私祐介さんをそんな状況から救い出すためにもってプロポーズを受ける事にした。だから婚約してたのは本当。あの指輪も亡くなられたお母さんの形見だといって後日もらった物なのよ」
時期を確認するとちょうど涼子も私と付き合いだした頃だった。そうか涼子も祐介との関係にけりをつける覚悟で……初めて2人で過ごした夜の涼子の少しおびえた様子が脳裏に浮かんだ。あまり経験がないんだなと初な女性を手に入れた喜びを感じていた自分が情けなくなった。
「あっ!雪が……」突然、奈緒美が声を上げた。窓に視線を向けると、先ほどまでの青天が嘘のようにいつしか空は灰白色に変わり、木枯らしに煽られるように粉雪が舞い始めていた。それは思い出を映し出す銀幕に物語が映写される直前の、ほんの一瞬を切り取ったようだった。
「婚約してからは辛い仕事も耐えられたわ。もちろん祐介は何度も自分が何とかするから仕事を辞めろと言ってくれたけど、サラリーマンの彼に何とかできる返済額じゃなかったから……
でも彼はそんな仕事を続ける私を婚約者として扱い続けてくれたわ。会社の仲間たちとの飲み会にも連れて行ってもらったし、一緒に暮らした時期もあった。でも涼子さんにだけは会わせてもらえなかった……『時期がきたら……』と言っている内にあの事故が起こったの」
奈緒美はいつの間にか継ぎ足されたグラスの水を一口飲んだ。私は悲しい記憶を呼び起こす事を拒むようにその手が微かに震えているのに気付いた。
「事故の話を会社の人から聞いた時、すぐにでも駆けつけたかった。でも涼子さんの反応を想像するるとためらってしまったの。私の事を何も聞かされていない涼子さんは私の仕事を、いえもしかしたらそれ以前に私の存在自体を受け入れられないのではと思ったわ。でも祐介さんが涼子さんへの愛をゆっくり封印しようと苦しんでいた姿を思えば、婚約者として堂々と振る舞おうと思ったの。私という存在を見せ付ける事で、祐介さんとはもう以前の関係には戻れないんだという事を分かってもらおうと思ったの……でも逆効果だったかもしれない」
「……どうして?」
「病院であの男に―ー店の常連だった男に―ー会ったの。そのまま見舞いを続けていると私の正体がいつか涼子さんに分かってしまうって思って、お見舞いに行くのをを止めたの。でも祐介さんの意識が戻ったって聞いて、居ても立ってもいられずにあの日お見舞いに行ったの。でも久しぶりに見た涼子さんの目は、妹として、婚約者でありながら突然姿を消した私を非難するというより、祐介への愛情の深さを競い合うライバルを見るような目だったの……でも私は負けなかった。ライバルではなく祐介さんの妻つまり涼子さんの姉になる立場の存在として振る舞った。暖かく包み込むように接していると彼女も私を受け入れようと努力してくれているのが分かったわ。もう少し、もう少しでと思っている時、また偶然あいつに会ってしまったの……」
あの日の待合室の光景を思い出した。あの男さえいなければすべてうまくいっていたかもしれないのに……今更ながら言い知れぬ怒りがこみ上げてきた。
「でも、そう遠くない時期に退院できそうだって事はあなたも知っていたんだし、しばらく来るのを控えるくらいでよかったんじゃないかな」
「一瞬、そんな風にも思ったわ。でも……10年近くもあんな所で働いていたんだし、今後いつまた誰かと出くわす事だってありうると思うと怖くなったの。もしその時横に涼子さんがいたら、あるいは祐介さんやこれから生まれるかもしれない子供がいたらって……私には一生拭い去れないレッテルが貼られていて、そのレッテルが白日の下に曝される時は周りの大切な人を不幸にするんだという事に気がついたの……それに祐介さんも記憶を失くしているから、私がいなくなっても―ー実の妹の―ー涼子さんと簡単に昔の関係に戻ってしまう事もないと思ったし……」
長い話を語り終えた奈緒美は視線を窓の外に投げていた。その瞳から涙が止めどなく流れているのに私は気付いた。奈緒美は……声を殺して泣いていた。
「だから、あなたは会いに来てはいけなかったの……せっかく私から」
その言葉が終わる前に私の中で何かが弾けた。その後、私の口を突いて出た言葉はどう考えても私自身が発したものではなかった。
「何言ってるんだ、奈緒ちゃん……涼子との関係を断つためだけに俺が君にプロポーズしたと思っていたのかい。君のお父さんの遺言には涼子が俺以外の誰かを愛する事ができて、その時まだ奈緒美の事を愛していたら一緒になってやってくれと書かれていたんだよ。そう、俺は自分と涼子の関係をそして悩みを、信頼する君のお父さんにはすべて打ち明けていたんだよ。お父さんは理解してくれた。その上でいつまでも待つと言ってくれたんだ。だから俺が東京に戻る時も黙って見送ってくれたんだ。あの時プロポーズしたのはちょうどその頃、涼子にも好きな人ができて―ー頼りない奴だけど―ー本気で人を好きになる事が確認できたからなんだ。それから妊娠した子の父親はそいつだよ。まだ学生で生活力もなさそうなそいつの子を産むかどうか涼子はさんざん悩んで、俺にも相談してきたんだ。その時涼子との関係が普通の兄妹に戻れたと確信できたんだよ……君がソープで働いていた事だって、お母さんと思い出の詰まった家を守るためじゃないか。第一、今の君の姿はどう見たって昔の奈緒ちゃんのままだよ。
だから改めてお願いするよ。俺と結婚してくれ」
そういって私は内ポケットから、あの小さな真っ赤な指輪を取り出し奈緒美に捧げていた。指輪を持って出た記憶はまったくなかったが、そんな事は気にもならなかった。
涼子と付き合い始めて間もないあの頃に、涼子が私の子供を身ごもっていたという、普通なら驚愕すべき事実さえ静かに受け止める事ができた。
私は私自身の一連の言動を他人の目でドラマでも見ているように感じていた。
「……祐介……さん?」奈緒美が涙でくしゃくしゃになった顔のままで、唸るように声を絞り出した。
「そうだよ奈緒美。ずいぶん待たせちゃったね、これでやっと……」
その時私の視界が暗転した。気がつくと隣の席に移っていた奈緒美に体を支えられていた。
「祐介さん、行ってしまったのね……」奈緒美が耳元でポツリと呟いた。
「……そうだね。でもさっきの言葉は俺の言葉でもあるんだからね……もう一度言うよ。結婚してくれ。病室で初めて会ったときから君を愛していた」
そう言って私は奈緒美の手から指輪をもぎ取り、その左手の薬指にそっとはめた。
しばらくその指を眺めていた奈緒美は再び大粒の涙をこぼしながら、感極まったように私の頭を胸にかき抱いた。
初めて病室で会った時のように、ほのかに甘い香りが私の鼻腔を満たした。
遠くから「ありがとう」という微かに聞き覚えのある祐介の声がしたように感じたのは、錯覚だったかもしれない。
(了)
仕事の関係でずいぶん間隔があいてしまいましたが、ようやく完結させることができました。次は短編や新たなテーマのものに挑戦してみます。激励の意味でぜひこの作品の感想をお聞かせ下さい。




