エピローグ
屋上には先客がいた。
あまり会いたくない先客が。このまま戻ろうかと一瞬考えたが、彼女が振り向く方が早かった。
「ああ良かった、ちゃんと生きてら。人魚と一緒に死んだかとひやひやしてたよ」
君、随分入れ込んでたみたいだからねえ。
先輩はそう言ってけらけらと笑い、手に持った缶─今日は珍しくココアの─に口をつけた。
「流石にそんなことしませんよ。相手は研究対象ですよ」
逃がそうとした事を棚に上げ、さも当たり前だろうという風に肩を竦める。缶のプルトップに指をかけると、軽い音と共に甘い匂いが立ち込めた。
「おや、君もココアか」
お揃いなんて照れちゃうね、とわざとらしく身をくねらせる先輩を無視し、冷たいそれを一口すすった。
あの夜。人魚が…ハルカが死んだ夜。
あれからというもの、周囲は大騒ぎだった。
次の日、ある一団がやってきた。人魚の安楽死命令を出した張本人達だ。死体を引き取りに来た彼らに対し、あの夜の事を説明する必要があったのだ。
とはいえ。
「死体はありません、人魚は泡になって消えました」
などと、あの御伽噺の様な事実を信じて貰うのは至難の業だった。剥がれ落ちた鱗だけが残っていたのも拍車をかけていたのかもしれない。
肉体だけが消えるなんておかしいじゃないか、君が逃がしたのか、それとも死体を隠しているのか。
彼らの疑いと非難は止まらず、しまいには警察まで介入しようかという時。
一人の研究者の声が上がる。
研究者は…遠洋冬樹は、とあるレポートを著した。
〝私の研究所で保護していた人魚の内の一体、サンゴが死亡した。それから約一日後、突然メノウが陸に上がる。それからすぐメノウの鱗が全て剥がれ落ち、内部から人間の足に似た部位が現れる。メノウはこちらに向かいいくつかの仕草をして見せた後、水槽内に飛び込むと、泡となって消えた。剥がれ落ちた鱗のみが残り、それ以外は全て消失〟
まだ確証は持てませんが、という文言と共に送られたそれにより、何とか騒動に決着が着いたのだ。
「君、私に感謝したまえよ」
不意に呟かれた内容に、視線を先輩の方へと向ける。どこかここではない場所を見つめているような顔で、まるで内緒話をするように口に人差し指を当てた。
「内緒にしてやってんだからさ。君が人魚を連れ出したこと」
「ぶっ…」
思わず噎せる。ごほごほと咳を繰り返すと、頭上で笑う声がした。
なんでバレてるんだ。あの時誰もいなかったはずなのに。
「詰めが甘いよ詰めが」
得意げにふんぞり返る様子も、今は恐ろしくてたまらない。この人何なんだ。
目を合わせられずにいると、先輩は大きく伸びをした。
「まあまあ、今度ご飯奢ってくれたらチャラにしてやろう。私はもう行かなきゃ。じゃ、ぐっばーい」
それだけ言うと、返事をする間もなくさっさと歩いていってしまった。
扉が閉まる音が響くと同時に、携帯の着信音がなる。
画面に表示されているのは、遠洋冬樹の名前。
慌てて通話ボタンを押した。
「はい!」
「ああ、高野さん。突然すみません、少しお時間よろしいですか」
「ええ、大丈夫です。先日はどうも、おかげで助かりました」
ちらり、腕時計を見つつ肯定を返す。昼休みに入ったばかりだ。まだ余裕はある。
「ああ、まさに事なんですが。」
平坦な声に、少し色が乗る。悲しみと、好奇心と、疑問のような何か。
「あの時は混乱を招くだろうと、敢えて省いたのですが。貴方には本当の事を伝えておこうと思いまして」
遠洋が語るには。
メノウの死体が泡になったのは事実だが、サンゴについては違ったのだと。
サンゴの死因は恐らく老衰だが、彼女の死体は泡になることはなく、そのままの形で残っていた。
しかし、サンゴの死体は今はない。彼女は、どこに消えたのか。
「メノウが喰らったのです」
止める間もなかったという。
サンゴの死後、メノウは暫くの間彼女を見つめていた。そして、もう目を覚まさないのだと理解したと同時に、サンゴの死体に喰らいついた。
肉も、皮膚も、骨も。
「丸ごと全て、喰い尽くしました。その後起こったことは、あのレポートに書いた通りです。
ですが、何故こんなことをしたのか、どうしても分からないのです。高野さんは、どう思いますか」
電話から聞こえる言葉に、呆然と言葉を失った。
壮絶だったからではない。
嫌悪したからではない。
冬樹の言葉に、メノウの行動に、ストンと胸に落ちるものがあった。
蘇るのは、あの夜の人魚。
───アキヨシの事、愛してたよ
そう言って、笑う彼女。
…ああ、そうか。
ハルカは、そうだったのか。
「──弔い、じゃないですかね」
自然と、口をついて言葉が出ていた。
「仲間の死を悼み、喰らう事が。
…彼らにとっての、弔い方なんじゃないでしょうか」
なんとなく、握ったままの缶を揺らす。ぴちゃ、と中の液体が波打った。
「弔い…ですか。それは、なかなかいい考えですね」
「だったらいいな、って事ですけどね」
曖昧にぼかしながら、しかしある種の確信があった。
「私も、そうならいいと思います。彼女達は、とても仲睦まじかったので」
冬樹はそう言った後、いくつかの世間話をした。そうして、では、と言って電話は切れた。
温くなったココアを飲み干して、笑う。
弔い。人魚から人魚へ、人魚から人へ。
きっと、これは正しいのだろう。
風は、潮の香りを運んでいた。




