Day7
青白い蛍光灯の元で、銀の糸が美しく煌めいていた。
水面をぼんやりと漂う様は、ある有名な絵画によく似ていた。
「おいで」
潜めた呼び声は、彼女に届いたらしい。驚いた顔に喜色を浮かべ、音も立てずにあっという間に距離を詰めた。
その体を、そっと持ち上げる。
手袋をしているから火傷させる心配もない。暴れることも無く、あっさりと彼女は捕まえられた。
こてん、と首を傾げてこちらを見ている。安心させようと微笑むと、分かっているのかいないのか微笑みを返してくれた。
「少しだけ、我慢してね」
午前27時。
強い風に晒されて、窓枠が軋む音がする。今夜は嵐が来るとニュースで言っていたからその影響だろう。幸いにも、雨はまだ降り出していないらしい。レインコートの帽子を被り、コンテナを載せた台車に手をかける。
とうに無人の研究所。車輪が床を滑る音を聞き咎める者は居なかった。
外は、以外にも晴れていた。電灯がほとんどないこの町では、星がよく見える。
夜闇の空に浮かぶ三角形に、そういえばもう夏が来ていたのだと思い知った。
空を見上げるのは、久しぶりだった。
細心の注意を払いつつ、漸く岩場の上まで来る事が出来た。辺りを見渡すが、ここにも誰もいない。
「…大丈夫。誰もいない」
チャプン、とコンテナの中身が揺れる。そっとその上に手を置いた。傷ついた人魚は、何も言わない。
「…本当は明日、君を殺すように言われていたんだ」
内側から、コツンと何かがぶつかる音がした。怒っているのだろうか、それとも驚いたのだろうか。分からないまま、でも、と続ける。
「でも僕は、嫌だ。研究者としては間違ってるだろう。これはただのエゴでしかない。分かってる。それでも僕は、君を殺したくない」
コツ、コツ。連続して音が響く。硬い何かがぶつかる様なそれ。
「僕は、君を皆が言うような…凶暴で、人を襲う、そんな風には思えない」
頭の中に、あの日の出来事が蘇る。
小さな、本当に些細な怪我だった。
それなのに、この人魚は。
酷く悲しそうな顔をして、涙すら流して。
まるで、それは。
「だから、僕は君を殺せない」
コンコン、ノック音が二回。
抗議するかのようなそれに、ハッと意識を戻した。狭い中に閉じ込められていては適わないだろう。
「ああ、ごめんね。今開けるから」
一言謝ってから、金具に手をかける。ガコン、と音を立てて簡単に外れた。
彼女が内側から押し上げれば、すぐにでも外に出られる。
「出てきていいよ」
しかし、蓋が持ち上がることは無かった。疑問に思いもう一度声をかけるが、彼女は何も言わない。
「?どうし…」
もしや、移動中に何かあったのか。
不吉な考えに咄嗟に蓋を持ち上げようとした、その時。
白い手が伸びて、蓋を勢いよく押し上げた。
しなやかな足が地面に触れる。やや間を置いて、彼女が立ち上がる。
…人魚が?
「え…」
ゴトリ。転げたコンテナの中で、鱗が月明かりを受けて煌めいていた。
「久しぶりだなぁ、夜の空を見るのは」
歌うような声だった。
軽い足取りで、岩場を跳ねる。踊っているかのような錯覚を起こす程、軽やかに、楽しげに。
彼女は…人魚は、二本の足でステップを踏んだ。
「しゃべ、れるのか」
「私だけはね。ああでも、声を出したのは久しぶり。治らなかったらどうしようって思ってたから良かった」
ふふ、と無邪気に笑って、彼女は真っ直ぐにこちらを見つめる。
ざあ、と強い風が吹いた。彼女の髪が靡いて光る。
「アキヨシからアケハルへ。
兄ちゃんは、ちょっと海の神様に会ってくる。暫く帰らないが、心配するな。ああそれと、恥ずかしいが」
そう言って、彼女は一つ区切りを置いて。
「愛してる、って」
「待ってくれ!」
背を向けた彼女に、思わず叫んでいた。
「君は人を、兄さんを食べたんだろう」
「だけど、頭だけは持って帰ってきてくれた」
「君のおかげで、兄さんの骨を、生きた証を形として残せたんだ」
「教えてくれ、君は、どうして兄さんをーー…」
「愛してたよ」
人魚の告げた真実は、たった一言だけ。それだけだった。
それだけが、全てだった。
「一人ぼっちだった。家族はみんな死んだ。死ぬ度に彼らの肉を食べた。そしたらずっと一緒に居られるから、でも。
見れない、話せない、抱きしめられない。だから、寂しくなくても、ずっと寒かった」
「そんな時アキヨシと出会った。アキヨシからすれば望まない出会いだったかもしれない。でも、私にとっては救いだった。アキヨシと過ごす時間が、何より暖かかった」
本当は、助けてあげたかった。でも、私には出来なかった。
「ごめんね、本当は生きて君に会わせてあげたかったのに」
アケハル。君とアキヨシを、会わせてあげたかったのに。
「謝らないでくれ」
震える声で、絞り出す。
「君のおかげで、兄さんの最後遺した言葉を聞けた」
「消えるはずだったものを、君が命をかけて救い上げてくれたんだ」
「だから、謝らないでくれ…!」
込み上げる涙に混じった言葉を、人魚が聞き届けたのかは分からない。
ただ。
人魚は、とても優しい顔をしていた。
とん、と一歩足を踏み出した。高くなった波が、飛沫をあげる。
「最後にひとつ、教えてあげるよ。人魚はね、一度だけ人の足を得て陸に上がれるんだ。その代わり、二度と海には帰れない。泡になって消えるの」
不思議でしょ、そう言って彼女は振り向いた。紫の瞳が、何かを懐かしむように細められる。
「ねえ、アケハル。私の名前、ハルカって言うんだ。アキヨシが付けてくれたの、ふふ、素敵でしょ。」
人魚の、ハルカの体が傾いた。黒い海に吸い込まれる様子が、スローモーションに見えた。
待ってくれ。
叫んだところで、もう届かない。
掴もうとして伸ばした手は、無情にもすり抜けていった。
「アキヨシに伝えに行かなくちゃ。あなたの弟は、ちゃんと元気で居ましたよって」
音もなく。
泡が、弾けて、消えた。




