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化粧品一式と、生理用品、二日分の着替え、部屋用のもこもこした靴下、ハンカチ二枚、風邪薬と頭痛薬。そして、下着が七組。これらが全て、小さめのスーツケースと、手荷物の革鞄に収まっている。三週間も他国に滞在するのに、少なすぎる荷物だった。
母親に、本当にその大きさでいいのか、とトランクのサイズを確認される度に。現地に蒼羽の部屋がある、彼の関係者の好意で、生活に必要なすべてが用意されている、自分の着替えまで含めて、と。同じことを繰り返した。
実際に、オーキッドとベリルの家のメイドが手配した品を書き記したリストが届いた時は、目をまるくしたのだけれど。まさか下着まで用意されているとは流石に言えず、常識的な数を母の横でスーツケースに詰めたのだ。
最後にもう一度、バッグの中の内ポケットに収まったパスポートを確認して、ようやく自室内をうろうろと歩くのをやめた。何度も見直したので、忘れ物はないはず。いや、例えあったとしても、現地でも購入できるだろうし、むしろ、自分のために用意されている品の一覧で全て事が済む気がする。
時計を見上げて、軽いスーツケースを持ち上げた。そろそろ蒼羽が迎えに来る時間なのだが、妙に緊張する。年が明けて、蒼羽と温泉に出かけて、一緒に来いと言われてから。あっという間にこの日が来てしまった。心の準備はできているはずなのに、このふわりと落ち着かない気持ちは何だろう。
「緋天ちゃん、ほんとに大丈夫?」
階段の下にいた母が、心配そうに荷物を見やった。その気持ちは理解できるのだが。
「うーん、・・・蒼羽さんがいるし大丈夫」
三週間と言えど、それだけの期間を家以外の場所で生活するのが初めてであるために、母は心配しているのだと思う。そこに少なすぎる荷物を携えているものだから、余計に。
答えたそれは、我ながら中々の模範解答だと思った。蒼羽がいれば安心、という認識は、母とも一致している。逆に自分が頼りないと思われている事が浮き彫りになったが、この際、どうでも良かった。当の本人が、自信を持って大丈夫と言えないのだから、仕方がない。何しろ、初めての海外であるのだから、そこは大目に見てほしい。
「ああ、蒼羽さんが来たわね」
外から聞こえた車の走行音に、身軽な母がいそいそと玄関に向かった。そこは荷物を持つのを手伝うところでは、と思ったが、口をつぐむ。母の後を追い、ブーツを履いて。
「忘れ物はないか?」
「うん、大丈夫」
上から見下ろす蒼羽の口元に、笑みが浮かんでいるのが見えた。それにようやく肩の力が抜けた気がする。いつも通り、立ち上がる前に彼の腕が伸びてきて、ついでとばかりに頬に口付けられた。
「緋天ちゃん、しーちゃんから郵便だわ」
庭のポストから封筒を取り出した母が、こちらにそれを渡す。宛名には、確かに兄の字で自分の名前が記載されている。出かける時間よりまだ少し早いので、蒼羽の横で封を開けた。ビニールの緩衝材に包まれた中身は、意外と小さく収まっている。
「わぁ、ビーズだ・・・」
中から出てきたのは、小さな筒に入った色とりどりのガラスや石の粒。それと厚手のカード。
「しーちゃんって、マメよね」
横から手元を覗き込んだ母が、なぜか溜息を吐きながら首を振って。反対側にいる蒼羽は、カードの文面を目にして眉間に皺を寄せている。きっと兄は、誕生日を自宅以外で過ごすことになるのを知って、早めにプレゼントを贈ってくれたのだ。いつか彼と何気なく眺めていたテレビ番組を見て、作ってみたいと口にしたのを覚えていたのだろう。
しかし、今は隣の蒼羽の眉間の皺が問題である。もたもたとしていたのが悪かったのだろうか、とそんな考えが一瞬頭をよぎったが。
「・・・先を越された」
彼の呟きが耳に入り、思わず笑ってしまった。そんな事は全く気にしていないのに。
「向こうでの暇つぶしになりそうだから、持っていこうかな?」
なんとなく、蒼羽を伺いながら口に出すと、彼が小さく頷いて。先ほど閉じたばかりのスーツケースを開錠し、封筒ごと一番上に仕舞う。もう一度鍵を閉めてから。
「じゃあ、行ってきまーす」
「蒼羽さん、よろしくね」
「ええ、あまりご心配なさらず」
この三人だと当たり前になりつつある、母が自分を無視して蒼羽に話しかけるという会話をして。蒼羽がスーツケースを車の中まで運んでくれる。軽いな、というコメントつきで。後部座席にそれを入れてから、彼の目線が母に向かった。
「お預かりします」
荷物を、ではなく、自分を、ということだろう。母の笑い声を背に、蒼羽がドアを開けて待っている助手席に乗り込む。母に手を振って、不安とも緊張ともとれる、妙な気持ちを抱えつつ、異国に向かって出発した。