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雪中花  作者: 田鰻
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向こう側 - 4

真っ暗な夜だった。

夜はいつだって暗い。日によって少しの違いはあっても、夜を明るいと感じた事は一度もない。夜は暗くて、冷たくて、固いもの。物心ついた頃からそうで、それはこの寒村に暮らす誰にとっても同じだった。

とはいえ、個によって多少の差異は生まれる。どん底の中にも、恵まれた者とそうでない者は生まれる。上下をどこで区切った所で、結局は最も強い者が富み、弱い者が糧となる。その構図に変化など起こりはしない。

それこそが、人であろうと獣であろうと共通する、生き物の本質だからだ。


「……ん」


小さな声を漏らして、寝ていた土の床から顔をあげる。

半分寝ぼけている目が、それでも暗闇の中、隣に佇んでいる人影を捉えた。


「おっかあ?」


おぼつかない口調。

暗闇に目が慣れるまでには、もう少しかかる筈だが、馴染んだ気配でそれと判るのか。

その声に、人影は僅かに揺れたようだった。だが次の瞬間、眠い目を擦っていた細い手を乱暴に振り払うと、首に縄で編んだ紐を掛け、一息に左右へ引く。


「あ、がっ――!?」


どこもかしこも細い身体が、跳ねる。

人影はそれを無視し、尚も縄紐を強く弾き続けた。喉が締まり、その息苦しさに激しく手足をばたつかせる。

本来の体格差を考えたなら、そんな些細な抵抗は意味のないものだったろう。

だが痩せ細っているとはいえ、日々の農作業で力は思いのほか強かったのか。

それとも、締める手に、まだ幾許かの恐れと躊躇があったからか。

偶然、暴れる爪が相手の肌を抉った。反撃の痛みと驚きに人影は思わず手を引き、縄を持つ力が緩んだ。戦う手段など知らない幼い命が、僅かな隙をつけたのは、ひとえに生きようと足掻く本能からだったのかもしれない。

腕を振り回して人影を殴りつけると、首に掛かる縄もそのままに、土を蹴って外へ飛び出した。


声が追ってくる。

馴染んだ声が、まるで知らない、違うもののように聞こえる。

その事実が生み出す恐怖に怯えながら、いまだ己に降り掛かった事態さえ把握しきれないまま、無我夢中で、痛む喉に涙を浮かべながら、ひたすら闇を駆ける。

立ち止まってはいけない事だけは判った。しかし逃げるといっても、一体どこへ逃げればいいのか。自分の行ける場所など、村のどこにもありはしない。

かといって、迷う暇も考える時間も与えられていなかった。虚を突いて逃げ出せたとはいえ、子供と大人では走る速さも体力も違う。迷えば、考えれば、追い付かれる。捕まる。

声に追われて暗闇の中を逃げる足は、よって自然と、最も慣れた場所を、体の覚えている方向を目指していた――


ここまでが、オレの見ていた光景。

ここからは、オレのいる光景だ。


あーあー……なんだって、こうなっちまうんかね……。


迷惑千万を全面に出してぼやきまくるオレに、ガキは目を白黒させていた。

そりゃ、顔見知り(不本意だが)つったって、何もない場所にいきなりポンと出てこられりゃそうなるだろうな。

走り通しで乱れた息を整える事も、テメェが今どういう状況に置かれてるかって事も忘れて、ぽかーんとしたバカ面で立ち尽くしている。

……また、ちっとだが育ったか? オツムの方は止まってるようだが。

そんなガキに、前置きなしでオレは言った。

これ以上の面倒な真似は御免だ。だから、訳がわからず反応できないまま終わるってのなら、それでいい。お粗末な頭で一から十まで理解できるよう、丁寧に説明してやらなきゃならねえ義理なんてありゃしないんだよ。


「よお」

「へびさ……」

「お前よ、こっちに来るか?」


我ながら全身全霊の不機嫌な声で、オレは聞いた。

希望は問わない。聞くべきは来たいか来たくないかじゃない、来るか来ないかだ。

案の定、え?とガキは問い返す。案の定、その反応にオレは苛立つ。どっちに転ぶにせよ、こんなくだらねえ茶番はさっさと済ませたいってのに、余計な手間を増やしやがるこいつに。


「お前の目の前の、土な。そこに、横に引いた線が見えるだろ。

その線は、他の奴らには見えない。

こっちに来たいのなら、そのまま進んで、そいつを踏み越えろ。

それが山との契。境界を超えるという事の意味だ。お前はその時、人から、人じゃないものの世界に入る」


結局、やっている。

ああ、自分で自分の親切さに涙が出てくるね、情けなくて。

オレとガキとの中央に引かれた――引いた、一本の線。そいつを挟んで、じっと向き合う。こんな事をしているのが、よりにもよってあの祠もどきの真ん前だってんだから、悪い冗談にも程がある。


「……追ってきてるな」


ガキの背後、闇の奥を見据えてオレは言った。

マヌケな事にやっと思い出したのか、ガキがビクッとして振り向く。

無理もねえ話だが、懐かしがるって感じじゃねえな。もう、完全に恐怖しかないって感じか。

追ってこられた事自体は、別段不思議じゃない。もともとガキ一人で容易に来れるような、山の浅い場所だから。問題なのは、わざわざ追ってきたワケだな。

あそこの連中は、この山を恐れている。

そんな山に、それも闇の濃くなる夜に、それでもガキを追って入ってきたのには、それだけの理由がある。嫌でも怖くても追いかけてこなくちゃならなかった、ってのが正確か。

口減らしをするのが目的なら、放っておけば勝手に山で野垂れ死ぬ。けどそうじゃない。目的は、殺した先にある。そこまで飢えに追い詰められつつある人間どもに、さすがにオレも思う所が一切無い訳じゃない。

かといって、オレにはどうする事もできない。

どうにかするとしたら、姉であってオレじゃない。だからオレは知らない。

知らないままでいたかったんだ。知ろうとしたところで、オレは無力でしかないから。


「人として死ぬか、魔性として生きるか……。

来る気があるなら、踏み越えろ。じきに一切の苦役から解き放たれるそちら側と、この糞ったれな世を生き続けなきゃいかん、こちら側との境目を。お前自身の、心と足とで。

そっちにいれば、ひょっとしたら浄土とやらがあるかもな。

だがこっちには何も無いぞ。何も、無いんだ」


声が近い。もう、あまり時間は残っていない。


「……わかんない」

「頭の足りんガキが、難しい事なんぞ考えようとするからさ。

考えて判らん時は、心をそのまま語れ。隠すな、繕うな、無駄に笑うな。

お前は、お前の里での暮らしをどう感じていたんだよ」

「あそこは……」


何かを迷ってるみたいに、声が詰まった。

それからガキは手を握ると、俯いて、閉じた目からぼろぼろと涙を零した。


「あそこは、苦しいよ」

「やっと本音が出たか」


オレは何故だか、そこで笑った。

来いよとガキに言う。自分から促す気はないと考え続けてきた事も、その時ばかりは気にならなかった。

ガキが頷いて、歩き始める。進む歩みに迷いがなければ、背後からの声に怯える気配もない。

追ってくる声が高くなった。ガキの姿を見つけた為だろう。もう、そこにいる。オレの位置からは、ぼんやりした人影だけじゃなく表情までもがはっきり見えた。複数人で、まぁご苦労なこった。走ってくる。奴らも必死なんだろう、生きるのに、生かすのに。だが残念ながら、ちょいと遅かったな。

あと数歩で手が届くという場所で、突如ふっと視界から消えてしまったガキに、奴らは呆然としたナリで佇んでいた。






「これで、お前はこの山のモノとなった。

モノは者であり、物だ。

以後お前の命と魂は山に縛られ、山に尽くす責務を負う。ま、負わなくてもいいが。現状を正しく言い表すなら、お気の毒に、だな」


あれから少し場所を移して、オレ達はひとまず息を落ち着けた。

追手はといえば、ガキが消えた辺りで右往左往している。

いくら探そうと無駄だがな。境界を飛び越えた相手は、そこらの人間になんざ見付けられやしない。奴らも今は驚きが勝っているようだが、すぐにそれを超える恐怖に襲われるだろう。泡食って村まで逃げ帰り、そうして、山に人攫いの天狗がいるという噂はますます広がるって訳だ。

まあ、これ以上の厄介事が増えないのは歓迎だが。


ばさり。


上から騒々しい羽音がする。振り返れば姉。


「いや、いや! とうとうやりおったのう!

娶るのが遅すぎたぐらいじゃが、その煩悶する様もまた一興よなぁ」

「娶る言うなロクデナシの天邪鬼が。だいたいこいつはオレのもんじゃない、あんたと山のもんだ」


オレは、真紅の眼に殺意を込めて姉を睨んだ。

といっても蚊に刺された程にも感じないだろうが、威力でも心情でも。

効かないだけならまだいい、むしろ喜ぶから最低なんだよ。

無理しおって、と、これ見よがしにシュウッと舌を伸ばす姉から、オレは目を逸らす。覚悟はしていたが死にてえ。


「さあて、忙しゅうなるのう――。

山に人を入れるなど初めてじゃ。神子としてのカタチを整えていかねば」


姉が翼を震わせる。ちょっと待て、なんで張り切ってるんだよあんたは。

きょとんとしている娘。喉には、夜の闇にも確かな傷が、一直線に赤く擦れて付いている。その傷が、くだらん事に張り切る分を少しでも村に向けろよと言おうとしたのを、既の所でオレに飲み込ませた。

姉が、人里に目を向け、水を恵むなり土を肥やすなりしてやれば、ここまでにはならなかっただろう。だが姉の性格を考えたら言っても無駄だし、オレにだって言う気なんてなかった。

そもそも山の主は姉だが、姉は山だけの主なのだ。

人に関わる義務は無く、首を突っ込まないというならそれで正しい。

だから、オレに口出しする資格はない。一瞬、思考が止まった事でそれを思い出せた。何より、今しがた殺されかけて逃げてきたばかりの村の話を、ここで持ち出すってのもちょいとな……。

ああ、ガキ一匹に何を気を使ってるんだ、オレは。だから嫌だったんだよ。両目と口を一杯に開いた貧相なバカ面で、樹上の姉を見上げているガキに、オレは八つ当たり混じりの声をあげる。


「お前、とりあえずその格好をどうにかしろ。雨上がりに泥ほじくってるイノシシでも、まだお前よりマシな格好してるぞ。

まずは水。川……いや泉があるから、そこで体を清めろ。それから服――着るもんは調達しておく。で、食い物も探しておく、っと……おいガキ、ぼさっとしてんじゃねえ、オレは気が短いんだよ、走れ!駆け足!」

「へびさん。どっちに行ったらいいか、わからないよ」

「ああ面倒くせえ! あっちだあっち、とっとと山の地形を覚えろ!」

「あっちってどっちー」


くすぶる苛々と、どうしようもないモヤモヤを解消するように、オレはガキに向かって喚き続けた。お前もお前で、いちいち生真面目にうんうん頷くんじゃねえ。どう聞いても理不尽だろうが。

姉はといえば、その時愉しいものだけを追い求める眼を歪んだ形に笑わせて、ひどく愉快そうに俺とガキを見ていた。

オレの示した全く具体的じゃない方角に、それでも言われた通りに駆けていくガキの、髪が揺れる。過酷な暮らしで艶も失せ、土と垢でばさばさに汚れた髪は、山の孕む闇よりも黒かった。


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