敵ふたり
オレは空に向かってぐっと首を伸ばし、日課の大欠伸をかました。
ほとんど垂直に開いた口の中は、自分で見る事はできないが赤い、らしい。かなり前に姉から、ごく最近に別の奴から、そう聞かされた。どちらも頼んでもいないのに。
オレと姉しかいなかった山に、近頃もう一人客が増えた。
山なんてもんは、誰も知らない所で常に誰かしら生まれたり死んだりしているもんだが、これは大分事情が違う。まさに”一人”だ。人間、ヒトという意味での。
すったもんだの末に、この神宿る山の神子として迎え入れられた、人の子供。一言で表すなら、災難だとしか言いようがない。オレにとっても、あのガキにとっても。だが果たされちまった約束はもはや覆しようがなく、今更泣こうが喚こうが、命ある限りこの山に囚われる。
魔物と関わるってのは、そういう事だ。
と、本当ならオレは、こんな諸々のゴタゴタから外れた位置にいられる筈だった。山の主はオレの姉で、つまりこの山は姉のもので、だったら山の神子であるガキも姉のものという事になる。オレは権力争いに敗れた、そこらの低級よりは幾許かマシな程度の、しがない白蛇に過ぎない。
だからあいつが仕える義務を負うべきはクソッタレの山神様であって、断じてオレなどではない筈なんだが、どういうつもりかガキはオレの側に付いて回りたがり、姉はガキをオレに押し付けておきたがる。
もっとも、これについてはオレは諦めの境地に達しつつあった。
切っ掛けは姉でも、それを繋いじまったのは紛れもなくオレだ。
初めからガキが姉の方に親しみと忠誠を示していたなら、姉の興味には掠りもしなかっただろう。あくまでオレが付き纏われて迷惑しているって構図が、姉の望みなんだから。
「考えれば考える程死にたくなってきた、畜生」
「死ぬなんて言っちゃだめだよへびさん。命はたったひとつなんだから」
わざわざ手繰り寄せたオレの胴体を脚の上に乗っけた状態で、件のガキが訳知り顔で視線を寄越す。口の中に何か含んででもいるのか、所々で発音がやや不明瞭になっている。
幼い口調からは、徐々にたどたどしさが消えつつあった。
こいつが姉の神子に――オレのとは言わん、意地でも――なってから、そう長く日は過ぎちゃいない。なのに言語方面に確かな成長の兆しが見えつつあるのは、つまり元から、利発な部類のガキではあったんだろう。日々が生きるか死ぬかの瀬戸際じゃ、んなもん発揮する機会も必要もなかっただけで。
いかにもお義理ってな態度で横を向くと、ガキは念押しでもするかのように小首を傾げてきやがった。丁寧に切り揃えられ、こまめに梳かれた前髪が、ぱらりと目の前で動く。
「ね」
「で、お前は何を食ってるんだ」
「おさかな」
「……ああそうかい」
香ばしいのであろう焼けた皮の匂いが、すぐ隣から漂ってくる。
ん、と一匹を勧めてくるガキに、オレは首を振った。魚なら食えない事もないが、焼かれたのを出されても困る。
魚を獲るのも焼くのも、こいつが自分でやった。
山奥の小さな溜まり池。およそ外敵とは無縁に生きてきた魚達は、木の枝と葉っぱを組んでこしらえただけの雑な罠に、面白いようによく掛かった。
その日に食う分に加え、蓄えとして数匹を獲る。器用に内臓を抜き、目玉に蔓を通して干す。やけに手馴れていると思えば、小川で捕れた小魚を干すのを手伝わされた経験があるらしい。当然の如く、自分の口には入らなかったみたいだが。
別段オレと姉が自給自足を強いたって訳でもないのに、こいつは良くそんな風にして食えそうな物を探している。正直なところ、そこまで頼られたら堪ったもんじゃねえから、これは助かっていた。やれそうな事は自分でやれ、こっちに面倒をかけるな。それでいい。
「おいしくいただきました」
ガキは軽く手を合わせると、食い終えて残った骨を、さくさくと土を掘って埋めた。おしまいに指先に付いた泥を、ふっと吹いて飛ばす。一連の動作を行う手指は、もう垢にまみれていないし、ひび割れても擦り切れてもいない。布の上からでさえ浮き出した肋骨が数えられそうだった体には、この短期間で見違えるように肉が付いた。山の獣の前に置いてやったら、涎を垂らして食いつくだろうよ。
少し前に作ったばかりの衣服が、心なしか小さくなったように見える。
……ああ、作ったのは姉だからな。
オレは人の衣服の仕組みなんぞ知らん、蛇だから。まァ姉も蛇なんだが。
あいつが、ガキの着ていた襤褸を参考に嬉々として仕立てた装束は、上から下まで真っ赤な色をしていた。中身はともかく、仕立てだけならどこの御殿の姫様かと言わんばかりの上質な代物だ。こんな異質なものに夜の山中で出会いでもしたら、大人だろうと腰を抜かすだろう。そういう意味じゃ、この山が古くから天狗が棲むと噂され、目の間で娘一人が消えるという一件を経て、より禁忌の場所となっているのは、麓の村人にとっちゃ幸いだったに違いない。踏み込んでくる奴なんざ、さすがにいる筈がないからな。
――ああ、手持ち無沙汰だからって触ってくるんじゃねえ。腹が膨れたんならとっとと寝ちまえ。
鬱陶しい事に、こうして隣り合うと、オレの体の白に、この深く鮮やかな赤が映える。あいつは、これを狙ってガキの服を真紅にしたのかもしれない。つくづく、ああつくづく手の込んだ嫌がらせが好きな奴だ。
「へびさん、何かする?」
「何もしねえよ。いいから胴体を持ち上げようとすんのをやめろ」
「でも」
「いいかガキ、ここに仕事はない。
お前の働くべき事は何もない。仕事だけじゃない、何もないんだ」
座る脚の上に引き摺りあげられたせいで、仕方なくオレはガキを見上げる格好になりながら、言った。白蛇に表情ってもんが作れたなら、その時のオレはさぞかし皮肉げに口の端を歪めていただろう。
だが現実に蛇であるオレの顔は何ひとつ変わらず、ついでにオレは話すのが上手くない。再び口を開く寸前、ガキの喉にうっすら茶色く残る、一直線の傷跡が目に入った。
「どうだ、この恐ろしさが分かったか」
「……こわくは、ないよ?」
「今は分からなくても、じきに分かる」
オレはガキから目を離し、前を向いた。何もする事がないという意味。こいつにはそう遠からず、身を以て理解せざるを得ない日が訪れる。
オレ達はそれでもいい。オレも姉も、どれだけ鮮明な自我を持とうが本性は蛇、土と水の内に生きる蟲に過ぎない。只そこに居続ける、という事を、山の獣と何ら変わらず行える。
しかし、人であるこのガキはどうだ。
死ぬまで逃れられない鎖に繋がれてしまったと自覚した時、こいつは泣くのか喚くのか、それともオレを恨むのか。
急に体を後ろに引かれ、オレは思考を中断した。
どうやら、ガキが背後から手を回してオレを引っ張ったらしい。
「何しやがるんだ、離せ」
「へびさんの言うこと、わからないけど」
より近付いたから、ガキの声が、オレの頭のすぐ上から聞こえる。
喉元に当てられている小さな手が、ひとつ、ふたつ、と、指を折って何かを数えている感触がする。腹側の鱗は幅広で柔らかいので、えらくムズムズした。
「ここは、おなかがいっぱいになるし、あったかいねどこで寝られるし。
足、いたくても土ほらなくていいし。爪がわれたりしないし、頭もかゆくならないし、あと、あと、それから……」
「はっ、平凡な暮らしこそが幸せですときたか、おめでたいこったな。
足が痛い? 爪が割れる? いずれ、そっちの方が良かったと思うようになるかもしれねぇぞ」
「……ええと、たくさん。そういうたくさん大変なのがなくなって、たくさん考えられて、いま、楽しいよ?
あっちは、考えたりできなかった。何かしてないと、おっかあたちに叱られるから」
「考える、だあ?」
「うん」
思わず振り返る、というよりはほぼ真上を見上げる形になったオレに、ガキは至極大真面目な様子で頷いた。
呆気に取られた声は、すぐさま馬鹿にした声に変わる。
考えるたって一体何を考えるってんだ、貧農の無学な百姓娘が。
しゅっと、オレの口から舌が伸びた。二股に分かれた舌先が空を切り、すぐに引っ込む。
「阿呆か。お前みてぇな奴が、何を」
「考えるの」
「だから何を考えるのか言ってみろよ。そのお利口な頭で、どんな素晴らしい事を考えてらっしゃるのかをよ」
「……ううぅん、と、ねー……すごく考えてるよ。へびさんをいじめて楽しむほうほう、とか」
「おおいっ!?」
完全に油断していたオレは、次の瞬間ガキの口から飛び出たとんでもねえ一言に絶叫して飛び上がった。誇張じゃなく全身が地面から浮いていただろう。ああまったく、こういう芸当は姉だけで充分だってのに。
不用意な大声に、驚いた鳥だか栗鼠だかが、何処かでバサバサと梢を揺らすのが聞こえた。だがそんな事はどうでもいい。こっちは驚くを超えて、度肝を抜かれて泡食った状態にいるんだ。
と、また次の瞬間には、こてんとガキの首が逆の方向に傾げられている。
「……って言うとへびさんが面白いことになるって、ゆいねえさまが教えてくださった」
「あんの性悪があああっ!!!」
響く怒号に、ガキが反射的に肩を竦ませた。
無論、先だっての絶叫も含めてあいつには筒抜けに違いない。そう思ってしまうと怒りも急速に萎んでいき、代わりに激しい脱力感だけが襲ってくる。オレにとっては、怒るよりも奴を喜ばせる方が遥かに癪なんだよ。
ぐったりしたオレの背を、ガキの指が突っついてくる。やめろ。だいじょうぶ?とか言っているのが聞こえるが、元はといえばお前があの天邪鬼の言葉を真に受けるからだ。そもそもまず、どうして真に受けて実行してやがる。
だがそこでガキはといえば、説明の為に口にした姉の名から、更に余計な事に辿り着いちまったようだった。
「ねえ、へびさんの名前は?」
「無いかもしれないしあったとしてもお前には教えん。知りたきゃあいつに聞けよ」
「ゆいねえさま、きいても教えてくれないの。これは自分でききだすのが腕まえだって――かっ、こほっ!」
「……何やってんだ、だらしなく寝こけてて腹でも冷やしたか? ほら、悪くなる前に帰れ」
オレが強引に話を切り上げ促せば、ガキも逆らおうとはせずに立ち上がる。ガサガサと山住まいの生き物にしちゃあ実に騒がしく、けれどもここに来た当初よりは明らかに減った足音を立てて、ガキは自ら作った頼りない獣道を登っていく。胴体をくねらせながら少し遅れてその後を追うオレは、すっかり助け舟を出された気分でいて、背を丸めて発せられた数度の咳が何らかの予兆だなどと考えさえしなかった。




