戻らない何か 後編
花が咲いた、と最初ティアは感じた。博士の頭から赤く広がっていくそれが血しぶきだと認識したのは少し時間を置いてから。ばっくり頭蓋から脳まで裂けた頭はゆらりと揺れ、制御を失った体ごと重力に従って崩れていく。椅子から落っこちていくときに周囲の物にぶつかったせいで、一気に積み上げられていたいくつかの山が崩れ落ち、かなり痛そうな音が立った。びくびくと、床に伸びた博士の身体はけいれんする。
目の前で唐突に起こった惨状にティアがそこまで動揺しないのは、博士が角なしとは言えど立派な魔人であり、長命種であるが故だ。このぐらいだったらまだ余裕で再生するだろう、とある種余裕を持っているわけである。
もう少し横にずれて左右の角が生えてくるあたりが割れていたら面倒になるところだが――何しろ角は魔人の立派な急所であるので、そこを傷つけられると極端に再生が遅れる。悪いと全治までに何日何週間もかかったり、後遺症が残ったりと散々だ。
博士は角なし魔人なので、角あり魔人のように折れる心配はしなくていいのだが、魔人と呼ばれる種のヒトは一様に頭頂から少し左右に分かれたあたりにダメージを与えられると弱い。少なくともそこに傷を負っている間中、通常通り魔法や魔術を使うことはできなくなる。
ちなみに有翼魔人の場合は翼、獣人の場合耳や尻尾あたりが同様な弱点になる。また全種族に共通して目と額も封じられると魔に関する行動に支障が出るようになる。そのあたりが彼らが魔を統制し操作するために使われている器官なのだ。
また、短命種のニコあたりだったら頭があそこまで割れたら立派に即死するので、その場合も逆の意味でやることがなく、焦ったところでどうにもならない。
物騒な現場のわりにそのような自己理論で動かないでいるティアの横を、ひょいひょいと器用に物の山を乗り越えて進んでいく影がある。
「あなたは妨害やら反撃やらしなくていいんですか。少し前から僕の存在には気がついていたと思うんですけど、驚くほど無抵抗ですね」
男が言うのでティアは肩をすくめ、大きく息を吐いた。そのまま相手が横を通り抜けていくが、手を出そうともしない。
「理由を考えている」
「何のです?」
「お前と戦う理由があるのか。俺にもこの後攻撃してくるというのなら少しはできるわけだが」
「はあん、なるほどね。ドクターエックスをかばう理由もないと?」
「ないわけでもないのかもしれないが、決定的じゃない。それにそのぐらいの傷なら放っておけば治る。殺気ではなかったから反応しなかったんだ」
「……ふーん。あなた武官タイプだからなのか、死ななきゃ安い思考というか、身体に傷がつくことに対して無頓着なところがありますよね。ま、確かに長命種はこの程度の傷どうってことないですけども」
男が目指している先の床には、お手製の魔道具や先ほどまで飲んでいたカップの残骸などが、博士と一緒に倒れ散らばっている。彼はそこまでたどり着くとしゃがみこみ、がさごそとなにやら博士の体をあさり始めた。ティアは何をしているのか見えないかとそろそろ後ろから歩み寄ってみるが、特にそれ以上邪魔をしようとするようなそぶりは見せない。すると男もまた、ティアに敵意のような物を向けようとはしてこなかった。
「あなたが敵対行動を取らない限りは僕からもすることはないです。博士ほど簡単に気絶してくれないでしょうしね」
会長、と呼ばれていた男の態度は変わらない。状況からして明らかに先ほど博士の頭を爆破したのはこの男なのに、軽く世間話、それこそ今日の天気の話題のノリでティアに話しかけてくる。とても今し方同僚の頭を割ったばかりのヒトには見えない。
「一応、聞いておいた方がいいのか」
「はあ、何でしょう」
「さっき用事があると言っていたはずだが?」
「これがその用事ですよ。僕があの場にいたら警戒して吐かなかったでしょうからね。もしかしたら博士もうすうす盗聴にも気がついていたのかもしれないけど、本人も言ってたとおり好奇心と知識のひけらかし欲求には勝てなかったってわけだ。どのみちやることは一緒だからいいんだけどさ」
ティアが見守っていると、ヒューズはそんな風に答えながら博士の身体をひっくり返して胸ぐらのあたりをつかむ。だらりとたれている博士の頭、割れた部分に向かって何かが伸びていった。うごめく先端から根元の方に向かって目を滑らせると、ヒューズの服の裾、どうやら背中のどこかから生えた触手がその正体らしい。
「何をしているんだ」
「証拠隠滅」
「何のために?」
「そりゃあ、もちろん……ね」
微妙に不本意ながらそれなりの期間を一緒に過ごしてきた仲なので、この男の嘘の作法のようなものはわかってきている。彼はうさんくさい見た目や言動のわりに、嘘らしい嘘はそこまでつかないタイプである。むしろ堂々と真実を、嘘らしく述べていることの方が多い。嘘をついてごまかさなければいけないような話題になると、そもそもしゃべらないか別のことにそらしてしまう。だからティアは「なるほどこの問いには答えないんだな」と納得してそれ以上の追求をやめた。
「放置してたこっちの事情もあるとは言え、よくもまあ単独でここまで至ったものです。さすがに子羊。優秀、優秀。でも発狂したら使い物にならなくなりますから、この辺でちょっと工夫しておかないと」
後ろからひょっこり顔をのぞかせると、伸びていった触手は目的地でかぱりと花開き、呆然としたような表情のまま硬直している顔を覆うようにぺたりと張り付く。半透明の触手の腕(?)が脈打つように震え、七色に発光した。なるほどそうやって記憶を見たりいじったりできるのか、とすっかり他人事のティアは観察中である。
「それもリリアナの指示か?」
しばらく無言で動かぬ博士になにやら細工を続けているヒューズだが、やがて顔にひっつけた触手はそのままに、一度両手の方を離して床に身体を下ろす。ふとティアが声をかけると、ちらりと顔だけ振り返って肩をすくめた。言葉のコメント自体はない。
――ちなみにこれは、この男の場合限りなく肯定に近い反応である。全く異なる場合は「違いますよ」と一蹴するからだ。
「今までもこんなことをしていたのか?」
「なかった、とは言いませんよ。何せ殿下の拾い物は一癖も二癖もある連中揃いでね」
「俺は、そういうことをしていたのはリリアナと会う前のことだと思っていた」
鼻で笑ったような気配がした……気がする。
ティアは確信している。この男が今ぐらいの叙述トリックに素で引っかかることはない。なら、わざとだ。何かの意図をもって、事実を歪曲して眺めたくなるような言葉を選んで発している。
「俺に何か知ってほしいのか」
「さあ、どうでしょう」
「のうきんに考え事は向かない。お前が言った言葉だ」
「ははあ、覚えてらっしゃいましたか。根に持っているのかな?」
「事実なんだろう。だったらお前のやっていることは無意味なんじゃないのか」
「かもしれませんねえ」
「……言いたいことがあるなら、いい加減はっきり言ったらどうだ」
「質問にはお答えしますよ。なるべくね」
「なぜ俺には何もしない」
「なぜでしょうねえ」
腹立たしいほどにのらりくらりとした答えが返ってくる。イライラのゲージがたまりつつあるティアだが、ここで怒ったところで何も得られない。
男は言った。質問に答える。そして疑問だけなら確かにたくさんある。
黙ってちょっと考えてから、ティアは再び口を開く。
「邪眼の事だが――」
「その件に関して僕に質問をしても無駄ですよ。親父の管轄だから口を滑らせたら今度は僕の頭が吹き飛ぶ」
今度の質問にはすぐに、わかりやすい拒否の答えがあった。ヒューズは首を振り、後半はどこか吐き捨てるような口調になる。
若い黒龍は基本ただのアホだがたまに謎のタイミングでひらめくと評されている頭を珍しく使おうとしていた。少しだけ答えの種類が変わった、その意味を考える。
「子は親に、絶対服従」
最近たびたび聞いている言葉を繰り返すと、相手の碧色の目がすうっと虹色に変わっていく。攻撃の意思や殺気こそ伝わってこないものの、空気が緊張を帯びたことは確かだった。
ティアは少し前に見たあの不気味な虹色とそっくりなそれを見据えたまま、静かに続ける。
「だとすれば、今回。邪眼も真祖に従っていたのか」
……不思議に思っていたことの一つだったのだ。思えば最初にナイトメアの特性の話を聞いた時から。
子は親に絶対服従であり、すべてのナイトメアの祖先にあたる真祖の命令は絶対であるとされる。逆に言うなら、真祖が一言出せば子は嫌でも聞かざるを得ない。当然、一つの可能性が見えてくる。
真祖が意図的に、長男の凶行を見逃している可能性だ。
何かが這うような音とともに、博士の顔から触手が離れた。食人花のように広がっていたそれは閉じてつぼみのような形になり、ゆらゆらと空をさまよう。博士の割れた頭はみるみるうちにふさがっていき、まもなく息を吹き返したようだが、目を覚ます気配はなく眠ったままである。ここで目を覚まされると周囲に未だ痕跡が残りすぎているので、そのあたりも偽装するのだろうかとぼんやりティアは考える。
「盲目的な恋にすら似ている狂信的な愛情。あなたたちにはさぞ気持ち悪く見えることでしょうね」
やがてじっとティアの顔を眺めていたヒューズが、目をそらすとどこか諦めたように言った。
やはり邪眼の件に関して、真祖は程度の差はあるにしろ故意に好きにさせていたのか、とティアはその反応から推測した。
自嘲が混じっているらしい言葉に、彼は少々首をかしげる。
「俺は……別に。大変なのかなとは思うが、ニコほど嫌悪はしない」
所詮異種、完全に他人事の感想である。しかしナイトメアは少し意外そうに顔を上げてしげしげとティアの顔を眺め、やがてふっと苦笑した。
「そうだな、大変なのかもしれない」
その口から漏れたのは、いつもの丁寧なものではなくより砕けた言い方である。ティアもまた、ほとんど滅多に聞く機会がないであろう、セオドア=ヒューズの本音の片鱗に意外だという顔をした。
「親父はさ、馬鹿だから、忘れられなくて。今でも許せないんだよ。あいつも俺も、結局の所それに踊らされてるだけってわけだ。……今はまだ、な」
ティアはさらに困惑する。
今まで交わした言葉から、目の前の男が二つの主に従っているのだろうという事情が浮かんできた気はする。ただ、そこから先の一番判断したい部分には相変わらず決定打がないように思えた。
いろいろと悩んではいるが、結局のところ単純なティアが知りたいのはシンプルな二択だ。
敵か? 味方か? それに尽きる。
セオドア=ヒューズは今とてもグレーなところに位置している。正直、経緯が経緯なだけに心証はあまり良くない。とても怪しく見えるし、実はこれは君たちのためで云々と言われても、自分が不在であったことへの詳しい説明をすぐにしないところや、何かを知りすぎたらしい味方の頭を吹き飛ばしている事実が変わるわけではない。
ではこれだけ黒く見えていても、何がティアにここまで慎重な行動をさせるのか。
それはもちろん、愛しの彼女の存在だ。目の前の男の事はうさんくさいと思っているが、彼女のことに関してはそれこそ盲信している。男が彼女の意図に反することをしていたら、そのまま放置されているとは考えにくいのだ。
もう一つ。博士はどうやら余計なことまで首を突っ込んだ結果、このような仕打ちを受けることになった。だが博士から結構重要な部分を聞かされていたはずのティアのことは、放置どころか目の前で自分の手口を披露するに至っている。それはいったいなぜなのか? ティアにはよくわからない。そろそろ考えすぎて頭がぐるぐるしてきている。
――と、その間に自分が荒らした部屋を片付け、博士を椅子に座らせ直す作業を手早く終わらせたらしいヒューズが改めてティアの近くまでやってきてやけに真面目な顔をする。
「シーグフリード。君は殿下の事がどれぐらい好きですか」
愚問である、という顔を相手がしたせいか、ヒューズは微笑んだ。
「では彼女の事をどこまで知りたいのですか」
「全部」
これまた即答すると、ヒューズはやっぱりねとでも言うようにまぶたを閉じて、去って行こうとする。
のかと思ったら、ぽんとすれ違いざまティアの肩に手を置き、顔を見ないまま言葉をかけてくる。
「初代魔王の事をご存じで? 二代魔王の事は? いずれも殿下に縁ある方々。あなたにとっても他人ではない。知っておいて損はないはずですよ」
またもや意味深な台詞だけ残しておいて、肝心の事は濁している感じである。雑多な部屋の混沌の中を、一つも倒すことなく器用にかき分けていく後ろ姿に向かって、シーグフリードは一声呼び止める。
「お前はこれからどうするんだ?」
男はぴたりと足を止めた。ふう、と一度ため息をついてから、
「この世に産声を上げてから、今この時に至るまで、シアルはずっとシアルのために生きてきた。……何も変わりませんよ」
手をひらひらと振っていなくなってしまう。
薄暗い部屋にしばし呆然と立ち尽くしていたティアは、やがて眠りから覚めた博士に声をかけられるまで食い入るように部屋の出口を見つめていた。




