戻らない何か 中編
ティアは談話室奥、つまり自分の部屋に向かって引っこんでいった博士の後を追う。
何に使うのかもわからないガラクタだらけの薄暗い空間が、ぱちりという音とともに証明に照らされる。光が差したところで、その場の様子がひどいことには変わりない。整理整頓とは真逆の事実がここにある。
既に乱れきっている秩序であるが、それでもさらなる混沌を招かないように慎重に経路を選んで進んでいくと、ドクターエックス氏は室内を漁っている。ぐるりと見回した周囲は一見するとゴミ山の群れにしか見えないわけだが、本人にはこの状態でこそどこに何があるのか把握できているのかもしれない。
何も踏まない、何も倒れてこないと判断できる地点で止まっている賢明なティアは、博士を待って得体の知れない数々の魔道具をきょろきょろと見回していた。触って壊して怒られるというお約束は既に遂行済みであるので、今回は大人しく目で見ているだけである。
「助手がいれば挽いてくれるんだけどなあ」
言葉のする方から何かを注ぐ音が聞こえてきて、ふと視線を白衣の方へ向ける。どうやらぼやきながら彼の好きな飲料をカップに注いでいるらしい。
何せドクターエックスは自分の興味のこと以外、特にこと日常生活におけるスキルの低さに定評のある男である。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるヒトがいるのをいいことに自堕落路線を満喫しているから、彼の一番の好物はとうてい自作できないのだろう。ちなみにティアもできない。今入れたのは助手が休憩中にせっせと用意して出してくれるような本格的なものではなく、お湯に溶かせば簡易的に作成可能なインスタント飲料であるらしかった。
「シーグフリード=ティア=テュフォン。君は裏表のない男だ。殿下を第一にお慕いしている」
しゅわわ、とは泡の立った音であろうか。湯気とともに室内にふわりと、心落ち着く不思議な香りが漂ってくる。魔人たちはそれなりに愛用している者も多いが、ティアは特に感慨のない飲み物だった。確かに香ばしさは好ましいし、リラックス効果もあるとされる。飲めばさらに眠気を覚まして集中力を上げる等の優れた効能すら持つが、味がとにかく苦いのである。この苦さが良いのだと愛好家達は語るが、ティアには理解できない。
特に異論のないティアは博士の言葉に無言でうなずいている。
「私はね。正直なところ、子羊の中でも殿下に対する忠誠心という点で低い方なんだと思う。ここに来たのも、嫌な仕事なんかせず、好き勝手に物を作って暮らしていけると聞いたからなんだ。あと、同じ魔人でも角がないだけであらゆることをさせてもらえない前の職場より、こっちの方が条件がいいと思った。殿下は私にとって都合のいいパトロンみたいなものに近いんだ。……もちろん彼女のことが嫌いとかいうわけではないよ? ただ、君たちほどに熱狂的なファンではないってことなのさ」
子羊の中でリリアナに対する温度差のようなものが各自あることは既にいわれなくてもなんとなく察していたことだし、別にそれが問題であるとティアは感じていなかった。むしろ全員が自分と同じような感情を抱いているんだったらそっちの方が問題だと思う。つぶす必要のある相手が増えてしまうではないか。
自称愛飲者、いわゆる通である割に甘党の角無し魔人は、助手がいないのをいいことに、自分のカップの中に角砂糖をぽんぽんと放り込んでいた。「通じゃなくて痛でしょう」とはヒューズの言葉だったろうか。「大人の味がわからないのだね、シーグフリード!」と煽った自分の記憶は完全にどこかに飛んでいってしまっているらしい。あるいは、飛んでいるのは意識の方なのだろうか。
「シーグフリード、君には鋼の鎧と意志がある。しかし弱い私はどうすればいい。ただの……ただの興味、好奇心だったんだ。それが……ああ、知れば知るほど、私はこの城が恐ろしい。何て所に来てしまったんだろう。それでいて君に語ることも止められない」
名前を呼ぶセンテンスが差し挟まれていることからして、黒色の豆を挽いた飲料(ただしインスタント)入りのカップを片手に博士が口にしている言葉は、一応独り言ではなく話しかけているもののようだ。ティアは耳こそ傾けているが、特に大げさな相槌を打つでもなく、静かに黙り込んでいる。元々そういう聞き方をする男だ。ただしそのまま聞いていないで妄想の国に浸っていることもそれなりにある。
くるりと博士が振り返った。あまりに静かすぎるリアクションを怒られるのだろうか? とティアは一瞬予想したが、そうでなかった。
「少し考えれば誰だってわかる。今回の件……いくつか、明らかにおかしい点がある。邪眼はわざわざ城内に侵入した。何らかの目的か理由があってのことだろうか。だとしたら、それは何だった? あれほど派手に出てきた割に、肝心の部分でナイトメア達があっさり散ったことに違和感は? 赤薔薇部隊を壊滅させて、他でもない君に討伐されたのはなぜだ? そもそもどうしてこのタイミングで奴は目覚めた? ああ、いくらでもあるとも。まだまだ出てくるよ。たとえば、親愛なるセオドア=ヒューズはその間に何をしていたのだろう。どこで? 誰と? 何のために?」
博士は愛用の椅子の上に陣取り、カップを片手にしゃべり続けている。この部屋に誘ってきた時同様、どこか異様な雰囲気を帯びたまま。
「私はね、君程彼らを見分けられない。すると余計な点と点を繋げて線を結び、そこに因果と意味見出したくなってしまう。奇妙な符号が一致しているんだ。今も昔も……そうだ、さっきセシリーが言わんとしたことを話してしまおうか?」
こいつ大丈夫か、一発なぐって正気に戻した方がいいんじゃないか、と鈍いなりにフォローを考え始めたティアが目を細めると、どうやら博士は気を利かせて話し相手の分も作ってくれたらしい。テーブル……ではなく、本来は棚の一つなのだろうか? ティアが現在いる場所に比較的近い空きスペースに、黒色の温かい液体が入ったカップが置かれる。
ちなみにカップの柄はファンシーな兎柄。推定するに、本来はかの助手のものではなかろうか。当然のように助手の持ち物を私物化している博士である。
置いたらまた自分の椅子へ戻っていき、行儀の悪い格好で座って続きを再開する。
「この城はね、穴だらけなんだ。ナイトメアたちはヒトよりも容易に出入りすることができる。初代魔王がそういう風に城を作った。私の言っている意味が分かるかい? これがどんなに恐ろしいことか? セシリーは言っていたね。警備システムは穴だらけ。……それが最初から、彼らの出入りを制限しないために作られたものだとしたら? わからないかい、シーグフリード。私たちは餌箱の中の飼料同然ってことになる!」
出されたものをしげしげと眺めていた黒龍は、水を飲むのとほぼ同じ要領でぐっと一気に飲み込んでしまった。しかし明らかに飲み方を間違えている様子に異議を唱えることも無い。
「つまり結局、お前は俺に何が言いたいんだ?」
苦い味と喉を通っていく熱さを噛みしめたティアはようやく口を開いた。博士はこちらに視線を向けているが、焦点はティアに向いているようなもっと遠くを眺めているような、不安的に揺れている。
「私は……君に言いたいんだろうか。それともただ、聞いてもらいたいだけなのかもしれない。待ってくれ……」
カップを持ったまま、彼は数度口を開け閉めした。彼は手元に目を下ろし、ゆっくりと手近な場所にカップを置く。震えたままの爪を口元に持って行って噛みしめるとガリッと音が鳴った。
やがて聞こえた一言は、今までの何かにとりつかれたような危うい雰囲気も、おかしな声の張りもなく、ただ弱々しくて聞き逃してしまいそうなほど小さなものだった。
「翼持てる方よ。私は恐ろしい。あなたは何者だというのだろう」
その直後。
バシン! と激しく空に爆ぜるような音が響き渡った。




