邪眼
それが現れたのはいつからだったか。
ヒトの時が始まるころには、彼らは闇の中に既にいたと言う。
妖しの術を用い、ヒトを惑わし、これを食らい、その胎にて自らを殖やす。
――ナイトメア。
虹の目、変幻自在の身体を持つ、ヒトとは全く異なる生命体。
「もうひとつあるぞ。我々との決定的な違いが」
ヘイスティングズは微笑んで弟子の言葉に捕捉した。
「彼らはね――血が赤くないんだ。青いんだよ」
一瞬だけ尋ねそうになって、ティアは思い直して黙り込む。
師の語る言葉には、紛れもなく本や机上の知識だけでない、実感と経験を伴った重みがあった。
そして、どこか悲哀漂うもの悲しさも。
師は引き続き語る。
闇の中の未知の住人だった妖しの生物に名を与えたのは初代魔王だったという。
悪夢のような奴等だ、と王はそのヒトならざる生き物を評した。
一説によると、初代魔王は即位以前から真祖と非常に私的な関係にあり、王城建設後も後宮の片隅に彼の部屋を作って住まわせてやっていた。
真祖は後宮の寵姫、さらには城内の貴族たちを糧に徐々に良質な種を増やし、今の繁栄に繋がっている……。
「と聞くと、いかにも退廃的、エログロスプラッタで凶暴な種に聞こえるが……お前は必ずしもそうではない事をよくわかっているな」
弟子がこっくり頷くのを確認して、ヘイスティングズは続ける。
「そうとも。大方のナイトメアは不必要な流血を好まない。
彼らはヒトと言う生き物がいなければ生きていけないし、殖えることもできない種だ。
大勢殺しても、自分たちの生きる糧が減るだけ。さらに悪いことに、彼らの寄生先はどの生物よりも強いエゴに満ちてる生き物だ。
植物なら風にそよぎ日の光を浴びるだけだが、動物は足がある、牙や爪も持つ。
麦ならば刈り取られるまま、家畜なら潰されるがままだが、ヒトは逃げる、おまけに狩られれば必ず報復する。時には必要以上に徹底的に。
私たちはおそらくこの地上でもっとも凶暴な生き物だ。刺激しないに越したことはない。
それを奴等だってよく心得てる――」
にもかかわらず、その個体だけは自らの種の理から外れ、大量の血を、殺戮を好んだ。
「それが邪眼。国家的犯罪者――いや、駆除対象となっている危険生物だ。
で、ジーク。ナイトメアの種族特性魔法がどんなものか知っているか?」
問われてティアは思い出す。
と言っても、彼が知っているのはナイトメアと言う種に対してと言うよりは、一人の男とその周囲の数名についての情報と言った方が正しい。
セオドア=ヒューズはリリアナの侍従である。一見すると、赤茶色の髪に緑の目の角なし魔人に見える。
彼についてもう少し捕捉するなら、リリアナの侍女であるフレイヤ=バタフライと同一人物で、その本性はれっきとしたナイトメアだった。
拾われものたちなら誰だって知っているか察していることだ。
ナイトメアと言う種族は他種の体液を媒介にし、魔力を吸い取って生きている。
だからおそらく、奴も生きるために誰かの汗なり血なり唾液なり――ちょっと大声では言えないようなその他の体液を吸うことがあるのだろう。
悪夢は健康な成人が眠っている寝所に、彼らの夢を読み取り、理想の異性の形に化けて訪れる。つまりはそういうことである。
幸い補給をしている現場にはかち合っていないが、朝から妙に色気を振りまいていたり、物陰から出てきたと思ったら襟を正していたり乱れた髪を直していたり、同じ物陰から出てきた男もしくは女が上気した顔でぜーはー言ってたりといった場を目撃したことはある。
……そういえば、どれだけ相手が疲れていても、本人が荒い息を上げているのは一度も見たことがない。微妙に恐ろしい気もしたが、深くは考えない。考えたら、たぶん負けだ。
それでも山ほどある彼についての噂話に、あいつはナイトメアだと言う話題が出たことはほとんどないのだから、色々とうまくやってるんだろう。
ヒューズの方は悪人面寄りの優男だし、マダム・バタフライの方はお色気ムンムンのお姉さま系美女だ。
餌は簡単に釣れるに違いない。
拾ってきたリリアナ本人も当然その正体をわかっているようだが、それ以外の王城の人物たちが誰がどこまで知ってるかはわからない。
ヘイスティングズのように察している者もいるが、大方は魔人扱いしているし、気が付いていないものだって大勢いるだろう。
公に彼の正体がわかっていたらまず間違いなく、素敵だなんてご婦人方にキャーキャー言われるようなことはない。
ナイトメアは恐れられ疎まれることはあっても、敬愛されることはない。
ヒトが彼らに向ける感情は、同じようにれっきとした異種族である竜に対する畏怖とは違う。
だからだろう。ヒューズも基本的にはあえて自分の正体を明かそうとはしない。
ヒューズという男は自分自身について、自分の種について語ることを好まなかった。
時折それらのことについて突っ込まれると、意味深に不敵な微笑を浮かべて相手を黙らせてしまうのが常であった。
ゆえにティアのナイトメアという種族に対する知識の情報源は、父親より幾分口の軽い子どもたちの方からのものである。
特に長男は闘技の際に一度言葉を交わした縁か、子羊たちの仲間入りをしてからたびたび纏わり付いてきて、聞いてもいない情報を落としていく。
尚、最初は警戒心マックスだったティア=テュフォンをどうやって長男が懐柔したかと言えば、弟たちと連携して今日のリリアナ様情報どころか今のリリアナ様情報のライブ実況を披露したことによる。
ハイライトは生着替えの実況だった。それはもう、見事なまでにティアは食いついた。
以来フェイルだけはナイトメア連中の中でも明確に味方とティアには認識されている。
ブレない精神は美徳なのか悪徳なのか。
ともあれ、そんな事情によりヒューズの長男となれ合い関係を築いていたティアは、同じくその長男から彼らについていくらかの情報を特に強いてもいないのに聞かされていた。
その中から、種族特性魔法についての情報をピックアップしてぽつぽつと喋り出す。
まずは変化。男女の変化から、フェイルがやっていたように他人になりすますことまでこなすことができる。顔が違うのはもとより、年齢や性別、種族も化け分けることが可能だ。
ちなみにナイトメアは同じ姿でいることを好まないことが多い。
現に三人兄弟の化けている種は獣人だが、獣の種類については会うたびに変えられている。
ヒューズの方は立場上姿を変えづらいのだろうが、前髪や結い方等、髪型を定期的にマイナーチェンジしているから、やはり同じ姿は落ち着かないのだろう。
定期的な姿の変更はむしろ意図的に行われている。
長期間同じ姿に化けていると、その身体に染まるから。これはナイトメアだけでなく全ての変化を行う種で言えること、と三人兄弟の長男は言っていた。
変化は目くらましや幻覚とは違う。身体の構造から自分の根本を作り変え、再構成する。だから、変化先に染まりやすい。
座学でも似たようなことを聞いた。
ある著名な魔術師が、蛙に変化を行った。しかしあまりにも長期間化けていたため、ヒトの姿に戻った時の振舞い方を次第に忘れていき、ついには戻り方も、自分がヒトの魔術師であったことも忘れてしまった。このように、いかに魔法や魔術に長けていようとも、長期間の別種への変化は極めて危険であり、徒に行っていいことではない――。
そういった、変化によって本来の自分を失うようなことを、ナイトメアたちは染まると表現し――たぶんティアの記憶が正しければ、フェイルは毛嫌いしていた。
同じく本性が獣であり、ヒト型に化けているティアには何となくわかる。
竜の姿の自分が本来の姿であるという感覚が遠ざかっている、とでも言おうか。時々錯覚しそうになるときがあるのだ。
自分にはもともと、尻尾も翼もなかったのではないか、と。
けれど、ティアがそう思うのは毎回ほんの一瞬で済んだ。なぜなら、彼は心に決めていたから。
いつか、彼女に本当の自分を見てもらうのだと。
本当の自分を見て、立派な竜だと褒めてもらうのだと。
だって約束したのだから。大人になったら、その姿を見せると。それは何よりも重い決まり事だった。
――話をナイトメアの特性魔法に戻そう。
変化の次に思い当たるのが、読心。
ヒューズは良く相手の顔をじっと見つめたかと思うとにっこり笑って、今こう言うことを考えていたと言い当てることがあった。
大体被害者は子羊で、やましいことを考えていたりすると特によく茶化された。
その後フェイルに詳しい種明かしされたことには、あれは魔力の流れを読み取る力を応用して行っているらしい。
わかりやすいところで言うと、元気な奴はまぶしく見え、不健康だとか細く見え、動揺すると揺らぐ。
そんな風にあの虹色の目はヒトを見ており、それに基づいてさらに話術で揺さぶりをかけたりして判断しているんだとか。
別に相手の頭の中を直接見ているわけではないらしい。
ヒューズ程になればそう言ったいわゆる本物の読心も可能だが、彼は滅多に使いたがらないらしい。
その辺の事情については、フェイルはそれ以上は語らなかった。
ヒューズ本人が頑として語ろうとしない、過去の出来事に起因していることなのかもしれない。
冗談交じりに一通りの修羅場は潜ったことがありますよ、と言った彼のその体験には、血も涙も流れることがあったのか。
――興味のないティアにとっては割とどうでもいいことだったが。
そして、ナイトメアと言えば一番特異的なのが、そのテレパシー能力。
ヒューズが小さく独り言を呟いているようで遠くの息子たちとやり取りをしているのは、子羊なら見慣れている光景である。
博士の発明品である通信機と違って直接頭の中でやり取りするから、必ずしも声に出す必要はないのだが、それは本人の癖のようなものらしい。秘密の通信や多少急いでいるときは普通に黙っている。
テレパシーといえば、異種族に発信することも可能らしく、主にリリアナに飛びかかろうとしたときの突っ込み兼牽制としてやられた負の記憶がティアには残っている。
ハッスルしかけているときに絶妙に差し挟まれる脳内直接ツッコミ。
一体何度奴を引き裂いてやろうと思い立ったことか、かろうじてリリアナが未成年だと言う事実が押しとどめているが、これで成人後もあの所業を続けるようなら真剣に対応を検討したく――。
「ふむ。まあそんなところだろうな」
師はテレパシー云々の部分で妙に殺気立っている弟子に若干不思議な顔をしている。
「それらに加えて、幻覚魔法だ。お前が邪眼に食らった奴とかな」
あの頭がぐらぐらする感覚か、とティアは思い出す。
……普通ぐらぐらで済まないどころか最悪頭が破裂するような攻撃を自分が受けていたことを、彼は知らない。
「邪眼はそのすべてにおいて、性能も効果範囲も突出している。
あいつはな、ジーク。目があっただけで相手の心を掌握できると言う。
――討伐隊の死因のかなりの部分は同士討ちだ。あいつと目を合わせて、操られて死んだ」
ゆえに、通称を邪眼。
けしてその眼を覗き込んではいけないと言う戒めが込められた通称。
「……」
基本情報を聞いているうちに、ティアははたと止まる。
ゆっくりとだが、頭の中の線と線がつながっていく。
一月半前から姿の見えないヒューズとその息子たち。
一月半前のパレード中の出来事。
今さっき聞かされた、ここ数日の事件の首謀者。
……ところで、パレードの時と言えば。
自分はうっかり、虹色の目をまともに覗き込んでいなかったか――。
「そこだよ、ジーク。私がお前に声をかけたのは」
顔色が悪くなっていくティアに、ヘイスティングズは悪い男の笑みを浮かべる。
「お前の報告を聞いた時に――こりゃやばいかもな、と思ったんだ。だが、その後の様子を見ている分には特に問題ないように思える。……何か既に仕込まれていて、潜伏期間だと言う可能性も大いにあるがな」
ティアが居心地悪そうに身体をごそごそ漁り出すと、師父はますます笑みを深めた。
「ただ、それに関しては恐らく大丈夫だろう。お前、数日前に殿下と会ってるんだからな」
なぜそれを、とくわっと目を見開く。ヘイスティングズは耐え切れなくなったのか、一回声を上げて大笑いしてから答えた。
「その前までげっそりしてたやつが、いきなり朝っぱらから鬱陶しいほど光り輝いてたら、アホにだって何かあったんだってわかるさ。
気をつけろよ。今はまだ未成年だから先輩たちも何も言わないが、成人してもそれだと私生活が丸見えでいい針の筵だからな」
笑いの名残か、時々体を揺すって話す師父に、弟子はすっかりむすっとした顔になった。
「――ともかく。何か異常が感じられたら、まず殿下の拾われものたちは黙っていないだろうよ。特に最近、奴等ピリピリしてるからな」
言われて思い出す。そう言えば子羊たちの秘密基地に入るとき、ここ最近妙に細かくセキュリティチェックをかけられたような。
「それ以上に、殿下はお前の事に関しては特に敏感だ。異変があったらすぐ気が付くだろう。だが、何も言われなかったんだろう? だったら大丈夫だ」
気がそれていたティアは思わぬ言葉にえっと固まり、もう一回もう一回と目だけで強く訴える。師は一瞬おやっとした顔になってからにっこりと答えてくれた。
「殿下はお前に連動しやすい。お前がかっかしてると彼女もちょっとカリカリしだすし、お前が疲れていると彼女もちょっと疲れた顔になる。逢瀬があった日の後は特に、だ。
はたから見てると面白いくらいシンクロしてるよ、お前たち。
ところで数日前からお疲れ気味だった殿下の調子はすこぶる快調だそうだぞ。何かよっぽどいいことでもあったんだろうな、ん?
――わかったわかった、ちょっと面白がって煽りすぎた、だから落ち着け。ほれ、深呼吸。な」
くうう、とティアの喉の奥から謎の音が漏れている。全身が小刻みにカタカタ震えていた。
興奮気味の若い竜が気を鎮めようとしているときの仕草である。瞳孔はすっかりヒトのそれから爬虫類のそれに以降しつつあり、ついでにふしゅるるる、と口から漏れる息が焦げ臭い。うっすら開いた口から見える喉の奥が赤く光り輝いている。
こんなところでこのまま昂る気持ちのままに歓喜の火炎放射をされても困るので、ポンポンと――いや正気に戻らせるために結構バシバシと弟子の頭をなだめるように叩いてから、師はまた真顔に戻る。
弟子は未だぶるぶる震えて荒い息を上げているが、ひとまず細い瞳孔が丸くなる程度には落ち着いたらしい。周囲はしょっちゅう忘れかけているが、この男も割と危険生物なのだった。
「話を戻すとだな、ジーク。おそらくお前があの時目を合わせたのは邪眼だった。――だがお前は、奴の幻覚に耐えた。邪眼は派手好きだ。たまたま目があったのか、それとももともとお前に興味があったのかは知らないが、おそらく落馬くらいはさせようとしたはず――それを、お前は踏みとどまった」
がしりと両肩を掴むヘイスティングズの口調は、気が高ぶっているのかほんのわずかに震えている。
「邪眼の一撃に耐えられる打たれ強さを持っていることは、大きな強みだ。ただ――奴はとんでもなく狡猾だ」
師が何か言いにくそうに淀んだのでじっと待っていると、やがて彼は口を開く。
「……あいつは、相手の心を読んで、弱みに付け込む。――何人もが、ここぞと言う時にあいつに殺せない相手に化けられて、返り討ちにされた」
ティアは一瞬きょとんとしてから、師が呆気にとられるほど晴れやかな笑みを浮かべた。
「師父。偽物に本物が勝ることはありません。俺は偽物のリリアナ様に惑わされたりなんかしない。リリアナ様はリリアナ様。――他の誰かが真似したところで、彼女の魅力に及ぶはずもない」
だって妄想は全く本物に叶わなかった。シミュレーションが実施に勝ったことはなかった。
彼は実体験としてよく知っている。重ねた肌の感触を。唇の甘く蕩けるような味を。
「俺は偽物には容赦しない。リリアナ様はただ一人。それ以外は、いらない」
ヘイスティングズはどこか危うい光すら宿す弟子の目を見つめ、やがて息を吐いた。
「……ならば、師父からお前に頼みごとがある。シーグフリード、聞いてくれるか――」




