閑話:婆と近衛騎士
青空、星空の庭園があるのだから、当然王城には曙の間も黄昏の間も存在する。
地方から出てきた者たちが故郷を偲べるような、北の間だとか南の間だとか、そういった場所もある。
それぞれの空間は季節に合わせて時折天気まで変化し、訪れる客人を飽きさせない。
ヘイスティングズが今、木造りの東屋から頬杖をついて見つめているこの空間は、水の大地と呼ばれる東部を模したところだった。
特に蓮の間と冠されている通り、東屋から接する池を見下ろせば、一面蓮の花の群れである。
蓮は一日の中で一時だけ気まぐれに花を咲かせるので、それ以外の時間帯は少々さびしい感じがしないこともない。今の時間帯は、外しているようだ。
「残念ですね」
ヘイスティングズは振り返らず、気配だけ感じ取って声をかける。
「今は咲いていない」
そう言い終わるか否か、地団駄を踏む音が聞こえてきた。
「相変わらず気障な男だのう、聞いてて鳥肌が出てきおったわ」
「おや、ご婦人方にはそこそこ受けがいいのだが?」
「あなた様に、わたくしを口説き落とす趣味があるのかえ? 猫を被るのはやめなされ、そういった我々でもございますまい」
ヘイスティングズはくすくすと笑いながら振り返り、目を細める。
師父は女性には老若問わずに紳士たり得るようにしているが、昔からこの相手にだけはどこかもう少し違う親しみを覚えていた。
「お久しぶりです――お婆様」
ふん、と鼻を鳴らした女性は婆の名の通りの姿であり、こつこつと杖の音を立てながらヘイスティングズの近くまでやってきて、ゆっくりと向かいの椅子に腰を下ろした。
「お加減はいかがですか?」
「この通り、ぴんしゃんしとるわ。残念だったかの?」
婆の言葉に、ヘイスティングズは微笑んだままあえて何も言わなかった。
杖に縋らなければ歩けない、というのは、長命種としてはとても万全の状態であるとは言えない。……王城を辞していたくらいだ。このヒトも、もう先が長くないのだろう。
なんだか年を感じるな、いや冷静に考えれば自分も十分年寄だった、などと思っているうちに、婆は青い瞳をこちらに向けてきた。
その眼もかつての澄み切ったそれではなく、どこかどんよりと曇り空のように濁っている。あまり先までは見えていないのだろう。
婆はしかし、衰えたとはいっても鋭い眼光で男を射抜き、重々しく口を開く。
「ひい様になんということをしてくれたのじゃ!」
予想できなかったわけではない、単刀直入な本題に思わず吹き出しそうになるのを堪えるが、婆は目ざとく見咎めるとぶんぶんと座ったまま杖を振り回した。
ちなみにひい様、というのはこの婆だけが呼ぶ皇太子殿下の通称である。姫様、が転じてひい様、になるらしい。
小さな姫君がお父様から離れた後、一番慕っていたのがこの婆やだった。
婆や婆や、ひい様ひい様と口を開けば互いの名前を呼び合って、中に入れてもらえない陛下は随分ぐれたものだ。
おまけに魔王に負けず劣らずの親馬鹿っぷりで、赤ん坊の時代からうちのひい様が一番可愛い美しい、うちのひい様が一番賢い分別がある、と何かにつけては自慢にしていた。――それこそ本当に、王が親馬鹿に目覚める前から、である。
体調に異変を生じてからは宮仕えを辞していたが、それでも王城に味方の少ない姫を案じて、たまにこうやって顔を出しに来る。
今回はタイミング的に、おそらく奴――あの自称子羊たちを束ねている男が手を打ったな、とヘイスティングズは想像している。
初めて顔を合わせてからこちら、どうにも好きになれない輩だが、相手にそれとなく言ったら同族嫌悪ですねとやっぱり胡散臭い笑顔で返答が返ってきた。
……向こうの方が年下だろうに生意気だ。年齢不詳だが、おそらくあっちは3000以下だろうと推測している。
「笑うでないわっ! ああおいたわしや、ひい様と来たら婆が参上仕った途端、あのような――。
一体今までどれほど我慢なされたことか。あんなにひい様がお悲しみになられるのは、お父君が怖いと仰った物心ついたばかりの時以来ですじゃ。聞けばあなた様の不肖の弟子のせいですとか。師父が聞いてあきれまする。あなた様ともあろう男が、どう教育したらひい様を泣かせるような男が育つんじゃっ! くれぐれもとお願い申し上げたはずですぞっ!」
ヘイスティングズは時々杖の猛攻をかわしながら、悪戯っぽい顔になった。
「お願いの部分に関しては申し訳ない――仕方ないだろう、陛下が殿下にめったに男を近づけようとしないんだから。私だってその警戒すべき男の枠に入ってしまっているのだし。
それにしても、やはり殿下とうちの弟子にはただならぬ関係があったのだな」
婆は彼の言葉を受けてぴたりと腕を止めると、あんぐり口を開けた。
「なんと――知らなかったと?」
「いや、みな察してはいたが、本人が頑なに口を割らんものでね。悪い先輩がためしに口を滑らせるかと飲ませたこともあったんだが、驚くほどの下戸で失敗した。
なるほどしかし、これでようやく確証が取れた。やっぱり最近の腑抜けぶりは殿下がらみだったのか」
近衛騎士のさわやかな笑みに、婆は束の間硬直してから気を取り直したように口をとがらせる。
「なんじゃ、わたくしの思っていたことと多少様子が違うのかえ?」
「とりあえず、どういった経緯なのかお話し願えませんか? 何分弟子はやらかしてからこちら、ずっと使い物にならなくてね。そのくせ何があったかは言おうとしないし、こっちとしてもいまいち状況がつかめずにいた。――ああ、もちろん他言はしませんからご安心を」
からかうように付け足すと婆は目を瞬き、そっぽを向いてまたもや鼻を鳴らす。
「ふん、言われずともないわ。あなた様でなければほかならぬひい様のご様子を、みだりに陛下以外のどなたかにご報告するものか。……エバ様の御恩、この婆一生忘れませぬ」
近衛騎士は一瞬だけ目を見開いてから穏やかな顔で、咳払いの後に始まった婆の言うことに注意深く耳を傾けた。
遡れば、婆と近衛騎士団長の出会いはもう1000年以上も昔になる。
当時の婆はラミアリス家の乳母であり、王妃に就任したエバ=ダリアの侍女として彼女とともに後宮入りした。
ラミアリスはその昔、宮仕えしていた娘ヴィクトリアが初代魔王の寵愛を戯れに受けた折、気紛れな王に公の位を与えられていた。しかしあっという間にその興味を失い、以降は位ばかりの貧乏貴族、名ばかり公爵と、ずっと他の貴族たちから馬鹿にされ続けてきた。
エバはそんな家の一人娘で、やはり行儀見習いで宮中に上がっていた間に王に見初められた。
そんな経緯あってか、家のことで随分とエバは責められた。
いかな手練手管を用いて再び表舞台に躍り出たものか。エバの陰口が叩かれない日はなかった。
ヘイスティングズは当時すでに黄薔薇の団長であり、彼女に対して距離を置くか冷ややかな目で見つめる赤薔薇から何かにつけて庇っているうちに、自然と縁ができていった。
赤薔薇に対する対抗心というか抵抗心は、その頃にしてもう一種の条件反射みたいなものだったから、けして王妃に特別な何かを想っていたというわけではない。むしろ最初はそこまで注目していなかった。
口の悪いやつには妙な噂を立てられそうになった時に、ぴしゃんと言い放たれた婆の言葉が、王妃に心から従おうと思うきっかけを作った。
「エバ様が、陛下以外のどなたかに懸想するものか! あの方が何のために、こんな魑魅魍魎の跋扈する場に出向いたと思うておる! 陛下がいらっしゃればこそ、陛下を思えばこそ、エバ様はここで生きてらっしゃるのです。
あなた様方の流している根も葉もない噂のことはわたくしの耳にも入っておりまするぞ。――よいか。もしそれが真実なら、わたくしが気が付かないはずがない。エバ様の異変にわたくしが気が付かないなんてこと、断じてありえない。
そのようなことがあるのなら、主の恥は仕える我らの恥。エバ様を地獄にお連れし、わたくしも後を追いまする――わが君と共に罰を受けましょうぞ」
そんな風に周囲を黙らせた婆を、あっぱれだなあ、とヘイスティングズは面白がって見ていたわけである。
婆は言うなれば、王を支える王妃の支えであった。
これほどにまで篤い忠義を捧げられているからには、ただの小娘ではなくきっと陛下にとって特別な存在になるような人物に違いない。
ヘイスティングズは彼女の言葉を聞いて、改めて王妃を支援する気になったのである。
その後どこまでもヘタレな魔王をけしかけるのはかなりの難題だったが、幾度となく騎士と婆は協力して取り組んだ。
今回も駄目でしたと落ち込んだ王妃を慰めたり、王妃の気持ちがわからぬと途方にくれる王を叱咤激励したり。
盟友とでも言おうか、彼らの間には確かな信頼がある。
王妃の懐妊を知った時、二人は誰よりもその報せに喜び、手を取り合って互いの健闘を称えあった――。
「――なるほど、そういうことだったのか。相変わらず殿下は難儀な性格をしてらっしゃる」
婆の話を聞き終え、団長は苦笑した。
婆も深いため息をつき、杖を両手に背を丸める。
「もちろん、そちらに悪気がなかったのはひい様とてよくわかってらっしゃる。
――だが、だが。知らなかったで済ませるには、あれはあまりにも惨い」
ヘイスティングズはふっと息を吐き、立ち上がって膝のあたりを払った。
「婆、ありがとう。おかげで解決の目途がついたよ。もう少し話していきたいのはやまやまなんだが、この後予定が詰まっていてね。ただ、原因は分かったから必ず解決してみせるさ。殿下にはあと少しだけ我慢していただくことになるだろうが――」
婆は濁った瞳を声の方に向ける。ヘイスティングズは東屋の入り口にまで歩いて行って、そこで一度立ち止まった。
「ただ、婆。一つだけ師父として言わせてくれ。
うちの弟子はそりゃあ世間知らずだし、武一辺の脳筋なところがないとは言いきれない、まあ言ってしまえば馬鹿だろうが――殿下のことは、一途に心の底からお慕いしているよ。
……ちょうどエバ様が、陛下をそうだったように」
「――ならば、今後はこのようなことで、ひい様を傷つけないでくださりませ」
ヘイスティングズは心得た、とうなずくが、老婆が動く気配に振り返って目を見開く。
老婆は杖を置くとこちらに向かって深く深く身体を折り曲げ、地面に額と両手をついていた。
「婆――」
「あなた様の弟子の方、ひい様の――殿下の将来のご父君にお伝え下さりませ。
わたくしは、殿下をお小さいころから見守って参りました。この命続く限り、御母上の分までもと思い、お仕えしておりました。しかし、もう長くありませぬ。不敬を承知で申し上げるなら、おそらく陛下も――。
殿下がお若いうちに、同じくお若く、可能性に満ちているお方を一生の支えと見出しなすったのは、まさに僥倖にほかなりませぬ。
どうか、お助けくだされ。他の誰の言葉にもじっと耐え、心動かされぬひい様が、あなた様の些細な一言で、強くも弱くもなるのです。殿下を支えてくだされ。
――でなければ、わたくしはあの世でエバ様に、なんとお詫びすればよいのかわかりませぬ。あのお方の代わりになると誓ったのに、それすらこの弱小の身にはかなわない。
殿下をお守りください――あなた様になら任せられると、婆は信じております――!」
後半は嗚咽交じりに声を絞り出す。
師父は婆の言葉を聞き届けると、こちらも騎士としての最敬礼を取った。膝をつき、左胸に拳を当てる。
「――その心、確かに承った」




