小さな竜は魔王の伴侶となった
初めて父に何の飾り気もない本音をぶつけるのは、恐ろしかった。
リリアナは真実だけが正義であるとは考えていない。
取り返しのつかない断絶を生むぐらいなら、なんとなく結論を出さぬままに関係を続けて――それだってヒトの関係の一つだと思っている。
だが、言いたいことを言って、それが受け入れられるというのは、何にも代えがたい満足感をもたらした。
心も体も満たされた気持ちで、晩餐の席から、本だらけの慣れ親しんだ自室に戻ってくる。
部屋に入るなり舌打ちして靴を投げ捨てた。かなり気合いを入れたから今までなんとかなっていたが、女物の服とはなぜもああもいちいち動きづらいのか。おかげで脚がパンパンだ。
ソファーにどっかり腰を下ろして忌々しい、とむくみを取ろうとすると、すっ……と男の手が伸びてきた。
さすさすさす、と当然のように手を滑らせている男の頭をしばし沈黙して見つめた後、リリアナは目を細めて口を開く。
「何をしている?」
「慣れない格好で脚が疲れたリリアナを癒やそうと――」
「この際なんでここにいるのかは突っ込まん、大体シアルやその他の忖度のせいだろうなと、なんとなくわかるからだ。だが、これだけは言っておく。いいか、昨日――というか今日の今日で、またいい夢が見られるとでも思っているなら、大間違いだ。たとえもし今お前が奇跡的な水準で私の倦怠感を拭ったのだとしても、当分寝室には入れないからな。もちろん寝室でなければ、なんて頓知じみた屁理屈も許さん。私の言っている意味がわかるな?」
おそらく思いっきり下心満載、ウッキウキで待機していたらしい男の顔が絶望に染まった。
キュンキュン悲しい声を喉から鳴らす姿に、リリアナはこめかみに指を当ててため息を吐き出している。
「ティア……お前のそういう素直に過ぎる所、もう治しようがないし、かつての私は美徳と認識していた――いや今も美徳である部分もあるとは思っているんだが、もうちょっとなんとかならないかな、と頭を痛める所でもあるぞ」
「だって……」
「だってもでももない」
ぴしゃんと撥ね付けるように言い放ち、彼女は再びソファーにぐでんと体を投げ出した。
ドレスのスリットからこぼれた脚にティアがそわそわ体をもぞつかせていたが、構ってくれないしお許しももらえない、と認識するとしょんぼり床に正座した。
そんな様子を薄目を開けて確認したリリアナが、ちょいちょい、と指で招く。
途端にぱっと顔を輝かせて近づいてきた男の額を、けれど彼女は人差し指でぴしんと弾いた。
う! と声を上げて停止すれば、黒い頭をぐしゃぐしゃとなで回し、微笑む。
「子竜。私は王になるぞ」
目を見張る彼の頭から耳に指が滑り、頬を手のひらが包み込む。
「そしてお前を王配にする。……ただ、大分先の話になりそうだけどな」
指の腹が肌を滑るこそばゆい感触にティアがぴくぴくと目の周りを震えさせれば、彼女は一度手を離し、姿勢を変えて同じ高さに顔の位置を合わせてくる。
(大人になった。少しは大人になれたという、確かな実感を胸にできた。自分の事は相変わらず何一つわからないけれど、こんなに命がけで、全身で好きだと思い続けてくれる相手がいる)
(もしかしたら、変わるかもしれない。先のことはわからない。長命種の寿命は一瞬と思い込むのには長すぎる。特に魔王の血筋は)
(けれど今は。今だけは、この手の温もりを、少しは信じられる――そんな気がする)
「私はこの先もお前に忍耐と苦労を何度も強いるだろう。それでも最後まで、ついてくるつもりはあるか?」
「うん」
期待通り、愚直な男は当然の顔をして間髪入れずに頷いた。
彼女は口元を緩め、ゆっくり顔を近づける。
セオリーに則って目を閉じたのは子竜の方だった。
しばしの沈黙の後、わずかに顔が離れた隙、唇を舌でなぞりながら呟く。
「……甘い味がする」
「気に入ったか? そういう口紅なんだそうだ」
「でも……すぐ取れちゃうよ」
「次も同じのをつけるさ」
じゃれ合うように鼻や耳を食みあった後、再び二人の姿が重なった。
しかし、少し経った所で子竜はべしん、と手痛い一撃を頬にお見舞いされた。
じーんとする場所を押さえてうるうる目で相手を見るが、返ってくるのは冷たい半眼である。
「おい。誰がそれ以上やっていいと言った」
「ええっ!?」
「さっき言っただろう。当分こりごりだ。前言撤回するつもりはないぞ」
「そ、そんなあ……」
べそをかきかえた男に、彼女は頬を膨らませてちょんと鼻を指で突き、それから囁きかける。
「唇一つで私を満足させられない男が、それ以上のものをもらえると思うのか?」
――たまらず、彼は噛みつくようにもう一度口を合わせた。
今度は余計な手つきがなかったので、彼女も大人しく体に腕を回し、ぽんぽんとなだめるように広い背中を愛撫する。
そうして、二人へのご褒美の時間は、誰にも邪魔されることなくしばらく続いた。
* * *
魔界に王あり。
魔界にただ一人の王、魔王あり。
魔王の代替わりに必ず乱あり。
二代魔王バアル=ゼブル=サタンがいよいよその座を譲り渡そうという時になり、彼の異母弟ルシファーは反旗を翻し、後継予定者を魔界から追い払ってしまった。
偽りの王により、しばし沈黙の時代が訪れる。
しかし、追われた者はけして屈することはなかった。
部下や協力者の助けを得て、ついには逆賊共をことごとく討ち取り、新たにして正当なる魔王の地位に返り咲く。
この三代魔王リリアナ=デビ=サタンは、時に初代狂王のごとく苛烈で、時に二代賢王のごとく公正な女王であった。
その傍らには、常に一人の男の姿があり続けた。
シーグフリート=ティア=テュフォン。
その夜の闇の色のような黒い体で常に女王の隣に侍り続ける姿は、魔王の影と称された。
女王に仇なす者はけして許すことがなかったが、そうでなければ昼寝の好きな、穏やかな気性をしていたと伝えられている。
女王との出会いは、お互いの幼少期にまで遡る。
たまたま登城する機会に恵まれただけの、取り立てて目立つ取り柄のなかった落ちこぼれ。それを見初めた彼女は、まだ性別も決まっていなかった小さな竜に、いつか伴侶になれと命じた。
そして彼は、その通りにした。
こうして人生の早期に運命と出会い、互いの苦難を共にし、晩年までけして離れることがなかった夫婦の姿は――いつの時代においても、男女の理想の姿として、語り継がれていくのであった。
途中何度も止めてしまい、最後は駆け足気味で申し訳ございません。
長期間に渡り、ご愛読いただきありがとうございました。
ここまで読んでくださった全ての読者様に感謝を。
楽しんでいただければ何よりです。




