二章 マトリョーシカの匣<過去編>
あれやこれやと悩むうちにも日は暮れて、祝日はもう明日に差し掛かっていたことに、桜がふと気づいたのは、端末に並んだカレンダーにぴっこり浮かんだ、ひとつの名前を確認してのことだった。
「明日じゃん……」
分かり切ってはいたものの、桜は相当に悩んでいた、というよりも切羽詰っていた。彼女はこれまでに何度もそれをしてきたし、また向こうにもしてもらっていたから。何曜日とまでは言えなくても、何月何日が枝理の誕生日なのか、諳んじることくらいはできる。けれども、今回はどういうわけか、選ぶものが定まらず、骨折した足を引きずるヘラジカのように思い悩み、現実という無常はすでにその足を焼き始めていた。
ううんと唸り声をあげてベッドの上を転がると、桜は上半身を起こしてあぐらをかいた。スウェットの股に落とした端末を指の腹でなぞり、本日の天気を確認する。日曜日、晴れ、と書かれた文字の上で、太陽はてかてかとしていた。寝起きのうつろな表情はすこしばかり光を取り戻すと、それも針を穿った風船のようにしぼんでいって、最後には薄く目を閉じ、細い猫背の真ん中にくっきり浮かんだ背骨のくぼみが、しだいに重力に飲まれるように沈み、もう一度後ろの枕にぽふんと頭を預けると、安堵の息を漏らした。
飛び跳ねた髪の一部をつまみ上げてくるくる巻きしながら、桜はこれまで枝理にプレゼントした数々を思い出そうとした。アクセサリーや化粧品はもう渡したことがあるし、彼女の気に入る品々も、大体予想がつくけれど、今回はもうすこし趣向を変えて、慢性的ななにかしら雰囲気みたいなものに発破をかけてみたいと思ったのは、おそらく偶然でないことを、彼女の心がいちばんに理解しているわけだった。そしてそれに思い至るやいなや、桜の頭のなかは次第にぐるぐるとごちゃごちゃとしてきて、ついには立っていられなくなる始末だった。
「手作りでなにか作れたらいいんだけど、私には厳しいんだよなぁ」
目で見て綺麗と思えるものが、作れた試しのないことを、桜は自分で知っていた。真心が重要なのは理解していても、それがなかなか難しい。
「あんまり考えすぎずに行こ」
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ネット経由で見つけたアンティーク店の地図を頼りにして、桜は街中を歩いた。色んなところに顔を出してはみたものの、どれもこれもいまひとつ、ぴんと来るものがなかったけれど、今回その店はオープン直後というのもあり、わりかし良さ気な掘り出し物が、ひとつくらいはあるかもと、黒い木造のつるつるした目的地を発見、金属で出来た扉を引っ張る。
シャンデリアが吊り下げられ、ところどころキャンドルスタンドが備え付けられた店内を廻っていると、青銅色の鳥籠が目に入った。蓋の中心部分がハートのかたちに掘られていて、桜はなんとなく、籠に入ったミニサイズの枝理を想像して笑いそうになる。みどりに近いほど濃い前髪が、眉のあたりで切り揃えられているとこまでは同じでも、その下にある鳶色の凛としたふたつの瞳は、毒気を抜かれたようなジト目を浮かべ、格子に手をあて、不満をこちらに漏らすように、籠をぐらぐらさせるとこまで頭の中でこしらえたら、そんなことにうつつを抜かす場合でないと頭を横に振った。普段ならばいつまで考えたって、彼女のことなら飽きはこない。
棚の上に置かれた匣を見つけたのはすぐだった。鏡や食器や大小さまざまな家具に隠れるようにして、匣はぽつりと置かれていた。匣は一片が七センチほどの木製で、桜はそれをしげしげと眺めた。片手にとって蓋を開けると、中からは一回り小さな匣が顔を出した。
「……もうこれでいっか」
店員に包装してもらい、会計をすまして外に出る。閉めた扉の前に立った桜の目の前を、ふたりの女子高生が横切った。それが見るからに楽しそうで、廃れた街に降りそそぐ、灰色ののっぺりした粒子のほうが、彼女たちの周りだけを避けるようにしてるみたいだった。
「あっ、手繋いでるし」
桜の目がついついと、二人のあいだの手に向かう。徐々に遠くなるその背中が、向こうの壁に消えるところまで眺めると、ため息をひとつついて、反対側の歩道を歩き出した。
重力やらなにやらに引っ張られるようにして下を向いた桜の顔に、自らのふたつの足が、左右、左右と進むのを、彼女は他人事のように眺めながら、なにやら感じる焦燥は、よく分からない買い物をしてしまった自分に対する不甲斐なさ。プレゼントを枝理に渡して、喜ぶとこまで目に浮かんでも、包装を解いた中身は入れ子の匣で、そのふたをぱこぱこ開けてく枝理の顔が、そのたびになんとも言えない無表情へしぼんでいくのは必至だった。
すこし歯並びの悪い建物のあいだの公園に入り、桜はベンチに腰をかけた。見渡す空に、ちぎれ雲はもにょもにょと浮かんでいた。桜の網膜には、さきほど見た、女子高生らの背中が離れなかった。いくら親しい仲だとしても、自分はあんな風に手は繋げない、と桜は思った。それは、いつも彼女の隣にいる、枝理を例えに出しても同じだった。
放課後、枝理に手を差し伸べたらどんな顔をされるだろうかとか、どう思われるのかも分からない、拒否されるかも分からないし、もしそれが功を成しても、なにを言えばいいのか分からない、おそらくぎこちなくなるし、そのうち胸の奥がむずむずしてきて、耐えられず、誰かにくすぐったい胸中を掻いて欲しくなる、たぶん、とそんなことを順序立てて考えているうちに、桜の頭はもんもんとしてきて、そんなことにはお構いなしに、空は青いし、あの女子高生たちは普通に手を繋ぐし、そばに置かれた手提げ袋は、そっぽを向いて、しゅんと落ち込むわけだった。
「なんもかんも上手くいかない……」
桜は頭を抱えた手をまるめると、髪をくしゃりとさせた。そうして彼女が考えるのは、以下こういう次第だった。枝理と手をつなぐとかはしたいけど無理で、だいたい枝理はなに考えてるのか、妙なところにこだわりを持っているような感があり、前みた彼女の現国ノートには、合わせ鏡のような図面がびっちり描かれていて、病んでるのか意味わからんわ怖いわで、そのくせ意外なところは素直でくるし、彼女のそういう微妙なこだわりには、桜はとっくに慣れているわけだけれど、家にいるときには、なぜだか彼女のことばかりが気になり、彼女の顔を肩をからだを枝のように細く長い指先を、ちくいち想像するうちに、心の殻をぷしゅっと刺されたような気持ちになって、その枝の先っぽが、異物のようにぬるりと深部に侵入してきて、桜のいちばん大事なところを、ちくちくちくちく、刺激して、痛くてかゆくて、どうしようもなくなるのだった。桜は、それに耐えられなくなって、たまに枝理と、キスするところとかを想像してしまうのだった。自室でも教室でも彼女の部屋でもなんでもを、うんと上手に背景として、とにかく二人がキスするところを、想像してしまうのだった。枝理の細い首にかかる黒髪をかき分けて、腕を彼女の後ろに回して、押さえ込むようにして、その薄い唇に、唇を重ねるとこまで想像してしまうのだった。
「あああああ……」
こんな想像はおかしくて、よくなくて、と桜は内省し始めるやいなや、たちまち想像もろもろは、ぐちゃぐちゃになって、ちりぢりぴょんぴょんに散ってしまう。
向かいのベンチに腰をかけたおっさんが煙草をふかして、桜はそれをぼうっと見つめた。おっさんが手を離すと、口から灰色の粒子がぷうっと出てきて、それはすぐに霧散した。おっさんは立ち上がり煙草をちょいとつついて灰を落とすと、吸殻を灰皿に捨てて、しばらくすると鞄を持って立ち上がり、どこかへ消えた。後にはベンチの上に忘れていった、煙草の箱とライターが哀愁を漂わせた。
桜は立ち上がって、おっさんのいたベンチまで来ると、なんとなしに蓋を開けて中身を確認した。中には何本か煙草が残っていて、ライターの底にもまだ油があった。
「吸ったれ」
ひょいと取り出した煙草を口に咥え、親指を擦ってライターに火をつけると、先っぽをあぶって煙をふかした。肺の奥にすっと埃が入ってきて、襞のとこについた灰が、ぬめぬめしていたものをぜんぶ固めて、それと一緒に口から吐き出す。煙はすぐに風にのって、ゆらゆらと広がって消えた。それはなにやら気分がよくて、胸の真空を軽快な血が突き刺さってくるようで、桜は悩んでいるのがアホらしく思えてくるのだった。ぜんぶがバカバカしく思えてくるのだった。