─蚊─
『
この季節、この場所へ来るとあの、忌々しく痛ましい出来事が、私の脳裡に鮮明に甦ってくる。
ああ、今年もこの季節が来てしまったのだな。
それは夏の宵であった。
開け放たれた室内は、望めば誰でも出入り自由であった。月の薄明かりの元、仄かに漂う煙香に酔いつつ、私は暑さに蒸し返る夜をどうにか遣り過ごそうと、幾度も寝返りを打っていた。
そんな時だ。妖しげに揺れる甲高い音を響かせ、寝苦しさに悩む私に近寄って来たのだ。明るさが足りないせいで、近寄るものの姿が見えない。
私は身を起こし、プー…ン、と鳴る妖しい声に耳を傾けた。
『アタシは此処よ、此処に居るわ。』
そう囁いているような、細く高くに鳴り響く音だった。耳許の近く遠くで囁かれる都度、私の胸はどきりとし、鼓動が速く脈打つのを感じていた。
じわりと肌に張り付く蒸し暑さが、見えない彼女と私を淫靡に包み込んでいる。そんな妄想さえ沸き起こしてしまう、危険な夜になりそうな予感がしていた。
白濁する意識と戦い、精神を集中して、私は彼女の居場所を必死で探った。
慌ててはいけない。もし慌てれば、逃げられてしまうかもしれないからだ。
他人からすれば、単なる笑い話かもしれないが、私は真剣であった。気付けば、首筋にもじっとりと汗が滲み出ている。それ程に、夢中になったものだ。
不意に彼女の囁きが止んだ。後から思えばその時に、彼女は私の首筋にそっと吸い付き、その繊細な唇でキスをしていたに違いない。
誰にも気付かれぬ、彼女の秘密の口付けだ。
舌先をストローの様に丸めて刺すが如く、鮮やかすぎて私に分からぬ華麗なキスを幾度も彼女は繰り返したらしい。
途端に我慢ができぬ疼きが、私の身体を襲った。
「ああああ…」
思わず私は声に出して、見悶えた。彼女の口付けは場所を変え、身体中を転々とする。
爪を立て、堪らぬその疼きに私は身体中を掻きむしった。
そんな私を嘲笑っているのか、ムウゥゥ…ンと再び彼女が囁き出して、私の周りを舞っている。気配だけの彼女であったが、ついに私はその姿を見つけた。
ゆっくりと、赤く膨らんだ腹を見せて、悠々目の前を過っていく。子を孕んだ腹だと、はっきり分かる程に、彼女の下腹部は重く大きく張っていた。
そっと壁に寄り添って、細やかな脚をはらりと垂らす。ゆらゆら揺らして尚も私を誘っている様だ。
疼く肉体を堪え、ごくりと生唾を飲み込む。私はそっと彼女に近付いた。それこそ息も漏らさずに、だ。
ふと、揺らしていた彼女の脚が止まった。後はスローモーションを見るかの様に、彼女は壁から離れ、ゆっくりとそのままの姿で落ちていく。
そして、畳の上に仰向けのまま、息を引き取った。
「ぬをおぉぉぉ!!」
声にならぬ声で私は叫び、四肢を投げ出した彼女の身に何が起きたのか、全く想像できず…
』
パタン、とノートを閉じる音がした。
此処は、夏期限定のゼミの合宿所だ。恒例の合宿前の掃除に、まだ何処と無くあどけなさの残る優秀な後輩二人を連れて、杉原女史は訪れていた。
「蚊取り線香、こんなにあるじゃないですか。」
なんで使っちゃダメなんですか?と尋ねてくる後輩瑛子に、杉原女史はにっこりと微笑みを返す。
そろそろ本館の薬剤散布も終わったことだろう。毎年不快害虫の巣窟になるこの合宿所の清掃をするのは、女史の役目である。
何故なら、合宿中の己の快適な居住空間を確保する為には、それが必要不可欠だからだ。
「蚊取り線香は、教授より『使用禁止令』が出てしまったからねぇ。」
とはいえ、捨てるのも勿体無い。他のゼミに売り付けてしまおう。胸寸で算段をし、清掃道具を揃えに動いた。
「彼女の下腹部って…彼女って…」
もう一人の後輩柊菜は、見てはならないものを見てしまった様に、手にした教授の日記を持ったまま震わせている。
困惑気味の眼差しで、女史に救いを求めてきた。
「どうしたの。」
瑛子も疑問に思って気遣うように柊菜に声をかける。
「気にしなくて良いのよ。只の戯言なんだから。」
多分、教授の情事が書かれているとでも思ったのだろう。ある意味では間違いなくそうだろうが。
「でも、その女性…亡くなられたんですよね!」
「えっ、何かの事件があったの!」
二人が驚くのも無理はない。
杉原女史は微笑みを向けたまま、二人を本館へと案内した。薬剤の散布も終了し、元の静けさが戻っている。
躊躇いなく中に踏み入り、その光景を見せた。
「これ、よ。」
本館座敷の畳一面に累累たる虫の死骸が広がっている。その手近な中から、小さな虫を拾い上げた。
ポテ、と膨らんだ腹が何処と無くどす黒い。
「蚊、ですよね。」
「そうそう。で、こいつが『蚊取り線香禁止令』の原因。」
蚊の死骸を前に、二人とも首を傾げる。
「蚊のメスってね、卵育てるのに手っ取り早く、動物の血液から栄養分摂るのよ。」
幻滅する二人を前に、意気揚々と女史は語る。
昔とった杵柄の様に、ノートに書かれた話の解説を延々と…。
「さ、バ○サンも終わったことだし、教授が戻るまでに片付けちゃいましょう。」
そうしておかないと、また一々煩い。軽く室内を芳香剤で香り付け、今年の合宿所の準備が整った。
帰り道、妙に距離感のある後輩達との温度差に、哀しいかな、杉原女史も気づく気配は無かった。
類は友を呼ぶのだろうか。それとも、朱に交われば赤く染まっていくのだろうか。
渦中の人は未だにそれを知らず、である。
─カの章 完─
2013/08/23 考




