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ライフコース  作者: 只野 唯
退職編
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私はある日突然壊れた。

朝、目が覚めた瞬間から、もう疲れている。

理由は分からない。昨日なにか大きな失敗をしたわけでもない。上司に怒鳴られたわけでもない。誰かに無視されたわけでもない。それなのに、布団の中で天井を見つめたまま、体が鉛みたいに重い。

出社しなきゃ。

頭では分かっている。スマホのアラームは三回目のスヌーズを鳴らしている。止める。止めた指が、そのまま動かない。

起き上がれない。

洗面所までが遠い。服を選ぶという行為が、まるで難解なパズルみたいに思える。化粧ポーチを開ける気力がない。電車に乗る自分を想像しただけで、心臓がぎゅっと縮む。

会社のセキュリティーゲート。

あのカードをかざして、ピッと音が鳴るあの瞬間。何も悪いことをしていないのに、なぜか「ここに入ってはいけない人間」のような気がして、想像の中ですら足がすくむ。

どうして?

分からない。分からないけど、行けない。



突然の無断欠勤。携帯には上司からの通知が並んでいる。人と会話するのが怖い。けど、連絡しないと。でも、何て?自分でも自分の状況が分からないのに。

それでも何とかショートメッセージで暫く休む旨を伝えた。文面はめちゃくちゃだったけど、どうしようもなかった。



それから3日。トイレとベットを往復する以外は天井を見つめている。こんな状況、親にも言えない。「体が動かない」なんて言ったら、理由を聞かれるかもしれない。答えられないのに。『どうして普通にできないの?』母親の声が聞こえた気がした。情けない。社会人なのに。みんな普通に働いているのに。

私はスマホを握りしめ、匿名の掲示板に書き込んだ。

「会社に行けない。死にたい」

送信ボタンを押した瞬間、涙が出た。こんな言葉、誰にも言えなかったのに。

返事はすぐ来た。

『メンクリに行け』

メンタルクリニック。

冷たい文字に見えた。でも同時に、どこかで聞いたことのある、安全そうな言葉にも思えた。

検索窓に打ち込む。

「メンタルクリニック 近く」

星の数ほどの病院がヒットした。駅前、商店街のビル、少し離れた住宅街。写真には優しそうな院長の顔。口コミの星の数。待ち時間が長い、受付が冷たい、先生が話を聞いてくれる。

どれが普通なんだろう。

普通って何だろう。

こんな時でも私は、平均値を探している。みんなが選びそうなところ。失敗しなさそうなところ。はみ出さない選択肢。

『自分で決められない』

掲示板にもう一度書くと、また誰かが返してくれた。

『住んでる市の相談窓口に聞いてみ』

見知らぬ親切な誰かは、具体的だった。

私は言われた通りに検索した。

「〇〇市 相談窓口」

生活に関わる相談のトップページが表示される。高齢者、子育て、税金、介護……スクロールしていくと、

『こころの健康、悩みなどの相談』

という文字があった。

カーソルを合わせる。少しだけ指が震える。

クリック。

受付時間。平日9時から17時。電話番号。その隣に、メールアドレス。

電話は、無理だと思った。声が出ないかもしれない。途中で泣くかもしれない。説明できないかもしれない。

メールなら。

何度も書き直せる。消せる。整えられる。

私は決めた。メールを書こう、と。

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