プロローグ
私は『普通』もしくは『定番』が安心する。
朝の歯磨きと同じくらい。決まった手順で世界が起きるのが落ち着く。
だから今日もいつもの時間にいつもの喫茶店に向かう。
真鍮のドアノブは指先に冷たく、ガラス越しの蒸気は薄く曇っている。午前七時半。駅前の店は私と同じく出勤前と思しき人で溢れていて暑かった。
席を確保してからカウンターに向かう。頼むものは決まっているのに手持ち無沙汰なのでカウンター上のメニューを眺めてしまう。だけどすぐに私の番になったので季節のドリンクが何だったか分からなかった。どうせ頼まないけど。
『アイスカフェラテのМください』
若い男性店員が笑顔で頷き、少しして戻ってくるとトレイに蜂蜜の小瓶を乗せていた。透き通った琥珀色が光って小さなスプーンの影が揺れる。
『期間限定のサービスで蜂蜜をお入れできます。何周かけますか?』
何周。聞き慣れない質問だった。何周という単位で甘さが測れるなんて考えたこともなかった。私の中の普通はシロップ一杯、ミルクは多め、蜂蜜は――そもそも入れない。
少し迷って私は言った。
『普通でお願いします』
言ってから、胸の奥に不安が広がった。ここでの普通は誰の普通なんだろう。店の普通。彼の普通。街の普通。私の普通は、ここでは別の言葉で呼ばれてるかもしれない。
店員は頷き、カフェラテの白い海の上で、蜂蜜をスプーンの先から落とし始めた。黄金の糸が輪になって広がり、彼の手首の動きに合わせて円を描く。
一周。琥珀の線がミルクの表面を走り、きらめきが泡の間に沈む。ニ周。もう一度、同じ輪郭をなぞる。三周。――彼はそこで手を止め、スプーンを小瓶の縁でそっとしごいた。
『三周おかけしました』と渡されたアイスカフェラテを受け取って思う。三周が普通なんだ。
鞄を置いていた席に戻る。アイスカフェラテにストローを刺して軽くかき混ぜて一口飲む。舌の上で冷たさと甘さが追いかけっこする。蜂蜜はシロップより丸い。ミルクに溶けると角が消えて、言葉にするのが難しい優しい重みになる。二口。コーヒーの苦みが遅れてやってきて喉の奥で蜂蜜を追い越す。三口。いつもの味の周辺に知らない道が増える。知らない道は怖い。
ざわついた気持ちでアイスカフェラテを飲み終えてから、蜂蜜を入れるのを断るという選択肢に気付く。自分はこういうところが普通じゃないのかもしれない。
いつもの喫茶店でいつもの安心を買えなかったあの日の私は普通の大人を探して生きていた。




