20.蛇について知る
「本当に……。大変失礼しました。こちらティルムンに、蛇はいないんでしたね」
囁き声で、ロラン君が僕に言う。パンダル君は書架の前に立って、何かを探すのに集中していた。
二人のイリー留学生は、僕を“プリムリーボ書店”に連れてきた。彼らのあとに続いて、僕は初めて上階へ続く階段をのぼる。ここの希少皮紙本の中に、≪蛇≫のよい絵図がある、とパンダル君は言った。地上階と違って布巻き本はどこにも積まれていない。布巻き本の棚とは造りの異なる書架に、平たい木箱が無数に押し込まれている。
「あった。『アイレー動物絵図・イリー西部』……すみません、こちらの本の簡易閲覧をお願いいたします」
書店の作法に従って、パンダル君は店員に声をかけた。部屋の隅に控えていた中年の男性店員がうなづいて、布手袋をはめた手で書架の中の平べったい木箱を引き出し、近くの卓に置いて蓋を開ける。
布にくるまれていた羊皮の本が、店員の手によって静かにめくられてゆく。いたちや栗鼠などの小動物に加えて、鳥の姿がたくさん描かれている本だった。僕の知らないものばかり。ティルムンの鳥たちに比べると、だいぶ地味な見かけな小鳥たちが多い、という気がする。
「あっ、そこで。とめて下さい」
パンダル君の声に、店員が動きを止めた。
「モモイさん……これです。これが蛇です」
直接皮紙に触れないよう、パンダル君がだいぶ遠くから指でさし示しているその図を、僕は凝視する。
「向こうの森林地帯にいる、ごくありふれた軽毒質のまむし……。褐色魔虫、というのです。イリーの蛇は、だいたい皆こういう姿をしています」
僕は叫び出しそうになるのを、どうにか気力で抑えつけていた。隣のロラン君は、何か勘違いをしているらしい。
「そうですよね、モモイさん……気色わるいですよね。大丈夫ですか? 何だか顔色が悪いみたいですよ……」
注釈に体長が記されている。この≪蛇≫、褐色魔虫は、僕の足くらいの長さしかないようだ。しかし小さくても、それは……≪蛇≫はまさに、ティルムンの≪敵≫と同じ姿をしていた。
――海竜が、いる……。
僕はその衝撃に、青ざめたのである。
その後もパンダル君とロラン君は、イリー世界の≪蛇≫について僕に詳しく教えてくれた。
引き続き店員に簡易閲覧を頼みながら、いくつかの図解本をひもといて、その生態や特性に関する僕の問いに、次々と答えてゆく。中年男性店員は慣れきった様子で、嫌な顔もせず、ひたすら淡々と頁を繰っている。プリムリーボ書店上階にこの時、僕ら以外の客はいなかった。こういう風に図解本を見ながら勉強をする学生が、きっと多いのだろう。
「それじゃこの長い身体の表面は、とかげに近い感じなんですか?」
「ええ、その通りです。ちろちろとのぞく舌も、とかげによく似ています」
「そして魚とはまた異なりますが、全身を細かいうろこに覆われているのですよ」
陸上だけでなく、水中に棲んでいるのもいると聞いて、僕はすーっと血の気の引く思いがした。
先ほど、食事の席でロラン君が暗誦してくれた『大鷹王の話』の中では、長虫……蛇たちはうねうねと海中を泳いで、他の島へ渡っていたではないか。
寒さを嫌い、温かい場所を好むこと。四季のあるイリー世界において、寒さが厳しい冬季の間は、地中などにこもって眠ること。様々なものを食べるが、主に小さな動物や虫のたぐいを食べる、肉食性であること。温かければ、昼夜を問わずに活動すること……。聞けば聞くほど≪蛇≫という生きものは、海竜によく似ているように思えてくる。
しかし、≪蛇≫が寒さを嫌う……というのは相違しているだろうか? 気温が格段に低くなる夜間でも、海竜は活発に襲撃してくるではないか。
……いや、以前誰かが言っていた。ティルムン北海岸においては、陸上の気温に比べると海中の水温というのはそんなに上がり下がりの幅がないらしい。半身を海につけて襲ってくる分には、海竜どもはあんまり冷気の影響を受けないのだ、きっと。
「そしてここからは、蛇の分布についてですけれども……」
パンダル君は、書店の壁にかかったアイレー大陸全体地図を示した。
「こちらはだいぶ簡略化されている地図ですが、イリー都市国家群と東部大半島の位置は、はっきり判別できますね。私たちの故郷は、そのイリーの中でも西側よりにあります」
パンダル君の指は、“白き沙漠”の南限から、少しだけ緑色のイリー地域へ入った部分をさしている。きれいに揃えられた爪の先が、すーっと右側へ……東方向へ移動する。
「一般に、蛇はイリーでも東へ行くほど、数が少なくなってきます。このイリー東端にあるテルポシエでは、ほとんど見かけることもないと言われている」
「どうしてなんでしょう?」
親友イスラのお婆さん、そしてお母さんの故郷の名が出て、僕はまた少し動揺しかける。
「寒いのが嫌いだから、やはり蛇たちにとっては住みにくいのでしょうね。さらにこのテルポシエから先、東部ではぐっと湿気が高くなって、夏季でもかなり冷涼なのです」
「ええと、でも……」
僕はパンダル君の右横に立ち、同じ地図を見上げたまま言った。彼の指先、さらに右横の東部大半島を見る。
「ロラン君の話してくれた『大鷹王の話』は、この東部から来た物語なんでしょう? 話どおりに行くと、大昔はこの辺りにも、蛇がいっぱいいたということになるはず……」
東部に蛇がいない理由を説明するための物語なのだと、若者二人は前に言っていた。ではあれは、もともと自分たちの土地にいない蛇をイリーで目にして、驚いた東部ブリージの民が作り上げた物語なのだろうか? ……言い方は悪いが、こじつけやでっち上げ……?
少し混乱してきた僕は、そういう頭の中の疑問をそのまま口にした。けれど聞いた二人は口をつぐみ、真剣に腕組みをして考えこむ。
「……そうなんですよね。現代の物語……それこそ、『常緑の森』の挿入話みたいなものとして登場する話だったのなら、誰かの創作なのだし、おかしな感じはしないのです。けれど『大鷹王の話』は旧すぎる。実際に起こった史実と、つくられた話との区別がつかない時代から、語り継がれてきたものを元にしている……」
低く言うパンダル君の目が、ここではないどこかを見ているようだった。
「あのー……。これは僕なりの、おもしろ解釈のひとつなんですけど」
ロラン君が、うつむきがちに考えこむパンダル君の脇から言った。
「ずっと昔々の時代と言うのは、現代とは気候が全く違っていたんじゃないのか、という説を出している学者がいるんですよ。以前、地理風土の本で読みました」
例えば、イリー以東の東側世界はもっとずっと温かく、今の北部穀倉地帯なみに様々な動植物が栄えていたのかもしれない、と言う。あるいはその逆で、冬の季節がずうっと長く続いていた可能性もある……。
「その学者の根拠づけは、ちょっと分野外すぎて僕にはさっぱりわかりませんでした。けれどもし仮に、大昔の東部が今よりずっと温かかったのなら。蛇がたくさんいた時代があっても、おかしくはありませんよね?」
「ああ、本当だね!」
パンダル君が、友達の言葉にうなづいた。
「その線で行くと、物語の中で語られているように、巨大な蛇がいたとしてもそんなに不思議ではないだろうね」
「そうそう。えさになる他のけものが豊富にいたのなら、食べものにも困らない。どんどん大型化していったのが、いたかもしれないよ!」
ぷふ~! すぼめた口から息を吹き出して、パンダル君はさも驚いた、と言うような表情である。端正な顔が、ちょっとひょうきん系に寄った。彼自身も面白がっているのだ、きっと。
「……なじみ過ぎて、ちっとも不思議と思わなかった『大鷹王の話』に、こんな裏の可能性を発見するとはね……。驚いたなぁ。物語と言うのは本当にとんでもない、意識や知識の詰まった泉のようだよ」
「宝の泉だよ」
二人の若者は両手こぶしを握りしめて、紅潮した顔でうなづき合っている。傍から見ていても、本当に息が合っているというか……仲が良さそうだった。たぶん今までもこうやって、一緒に勉強してきたのだろう。何かを知って理解し、さらにその先へ考えを進めてゆく喜びを分かち合って、二倍ぶん楽しんでいるのかもしれない。
僕もそうだったのだ。十四年前までは何でもかんでも二倍分、一緒に楽しめる存在がすぐそばに、確かにあった。パンダル君とロラン君の楽しさはよくわかる。
ここで僕はふと、僕自身を理解した。
どうして自分は、ここまでイリーの≪蛇≫に……海竜に近しい、その未知のけものにこだわるのか。
――憎いんだ。
これまでずっと、ぼんやりと胸の中にくすぶっていたもの。戦線から、≪敵≫の正面から遠く離れて、僕は初めてこの感情を受け入れた。
僕からイスラを、かけがえのない親友を奪ったあの怪物。
いま海竜は≪ティルムンの敵≫から、≪僕の敵≫になった。
やつらのことを深く知って、その弱みを突きとめたい。効率よく痛めつけ弱らせて、息の根を止める、……殺しほろぼす。その全群を根絶やしにしてやりたい。
昏い願望が、いつしか僕の胸中で静かに燃え広がっていた。




