6.嵐がくる
流血表現注意
井戸からくみ上げた水をひと掬い口に含んだリヤーフは、それを草むらに吐き出してフィーニスに向き直った。
「地下水の湧く泉に案内していただけますか?」
「まさか……」
リヤーフは今しがた汲んだばかりの水をためらいもなく捨てた。
「そのまさかです。最初に盛られたのと同じものでしょう。即効性はありませんが、長く飲み続ければ死に至ります」
「そうか……。これからは水汲みが大変になるな」
「大丈夫です。私がおそばにおります」
ぽつりと呟くフィーニスの横顔が寂しそうに見えて、リヤーフは無意識に彼の手を握っていた。
「ありがとう。――では早速案内しよう」
手をつないだまま、ふたりはすぐ近くにある通用門に向かう。
いつも通りの道だったが、ふたりの足取りは少しだけ重かった。
「泉は思ったよりも近いのですね。これなら何とかなりそうです」
しかし、難儀なことには変わりない。
これからは水も節約しないと……とリヤーフは改めて考える。
魚をさばくなど、大量の水を使うときは泉のそばでやってしまおう。
考え事に気をとられて、前を見るのがおろそかになっていたようだ。いきなり立ち止まったフィーニスの背に思い切りぶつかった。
その拍子に両手の桶が大きく揺れ、せっかく汲んだ水がだいぶこぼれてしまった。
「フィーニス様、申し訳ありません。私の不注意で……」
しかし彼女の声は耳に入っていないようだ。
リヤーフは不審に思い、横に並び、彼を見上げた。
フィーニスは彼女の視線にも気づかず、緊張した面持ちで真正面を凝視している。
彼の視線をたどれば、正面に王太子べリスの姿があった。
数名の供を引き連れ、尊大な態度でこちらを見つめている。彼の目には蔑みと苛立ちが浮かんでいるのが見て取れた。
第二城壁の農地は下賤の者がいる、汚らわしいと豪語して憚らない王太子が、どうしてここに? 思いながらも、リヤーフは両手の桶を地面に置き、深々と頭を下げた。
「久方ぶりだな、フィーニス」
「これは兄上。このような場所へいらっしゃるとは……いかがなさいましたか」
硬い声で応じれば、王太子べリスは、ふんっと不愉快そうに鼻を鳴らした。
「来たくて来たわけではない。必要ができてしまったから、仕方なく足を運んだまで」
頭を下げたままふたりの話を聞いているリヤーフの額を、嫌な汗が流れ落ちる。
狩りや釣りをしていたことを知られ、いま、泉の水を無断で汲んだ現行犯として咎められるのか。
それとも、何か別の――?
「それは、どういった御用で?」
「ああ、それはな。こういった用向きだ」
べリスが答えるなり、鞘走る音が次々と上がった。
「兄上!?」
驚いたようなフィーニスの声に、リヤーフは急いで顔を上げた。
剣を構えたべリスの姿を認めるなり、彼女はフィーニスを庇うため前に躍り出た。
「フィーニス様、お下がりください!」
「リヤーフ! あなたこそ下がりなさい。危険だ」
互いにかばい合ううちに、剣を構えた王太子や取り巻きがじりじりと距離を詰めてくる。
「女に守られるとは、さすが軟弱者」
べリスの口から嘲笑が漏れるが、ふたりともそれにかまっている余裕はない。
「これは一体、どうしたことでしょうか、兄上」
「どうしたもこうしたもない。往生際の悪いお前たちに引導を渡すために、わざわざ来てやったのだ。ありがたく思え。下賤な血を引くお前らは本当にしぶとい。毒でも死なないとは全く……」
「では、あれはすべてあなたの仕業か」
冷ややかな声がフィーニスの口からこぼれた。
聞いたことのないような声に、一瞬リヤーフはぞくりと身を震わせた。
べリスは彼の答えることなく、無言で唇の端を吊り上げた。それはすべてを肯定する笑みだ。
「王太子の手にかかって死ぬのだ。名誉だと思え!」
膂力に自信があるのだろう。剣を大きく振りかぶる。
だが、リヤーフから見れば隙だらけだ。
一瞬で間合いを詰め、隠し持っていた短剣をみぞおちに叩き込む。体当たりの勢いを持ってすれば、非力な女性でも深々と突き立てることができるのだ。
無言で倒れるべリス。リヤーフが刺さった短剣を引き抜くと、鮮血が噴き出した。
その血がリヤーフを染めたが彼女は顔色ひとつ変えずに、唖然としている男たちの喉笛を掻き切った。ひとり、ふたり、三人と、血煙をまき散らしながら崩れ落ちる。
男たちは己の血だまりの中でもがいていたが、その足掻きも段々と弱々しくなっていく。
最初に刺されたべリスに至っては、もう息もしていない。
最後の一人は腰を抜かしており、殺すのは簡単そうに見えた。何の感慨もなくその男を屠ろうとした途端、リヤーフは後ろから抱きすくめられた。
「リヤーフ、もういい!」
「ですが、フィーニス様。こやつを逃がせば、ことが露見してしまいます」
「どうせすぐに知れ渡ってしまうことだ。捨ておけ」
押し問答を続けるうちに、男はあっという間に逃げ去った。
殺してしまいたかったが、逃げられてしまったものは仕方ない。リヤーフは即座に頭を切り替えた。
「フィーニス様はこのままお逃げください。トーリさんたちに頼めばきっと協力してくれます」
「あなたを置いてはどこへも行けないよ」
「このままではフィーニス様にも類が及びます。私は大丈夫ですから、さあ、早く!」
振りほどこうとすればするほど、フィーニスの腕はきつく彼女に巻き付く。
このままでは、フィーニスまで一緒に捕らえられてしまう。
王太子を溺愛していた王のことだ。弑したリヤーフには苛烈な刑が待っているだろう。それにフィーニスまで巻き込むことはできない。
なのに、彼は腕を離してくれない。どうしてわかってくれないのか、と泣きたくなってくる。
「大丈夫だなんて、そんな見え透いた嘘をついてはいけない。私はいつもあなたと共にある。そう誓ったんだよ。絶対に離れないよ、私の赤い風」
自分を何とか逃がそうと必死になる妻を、フィーニスは世界中のなによりも愛おしく感じる。
このままふたりで世界の果てまで逃げようかとも思った。
しかし、自由で優しい風に、逃げ隠れする生涯はふさわしくない。
それに彼女が姿を消せば、見せしめのためにアキークは滅ぼされるだろうし、それを知った彼女は大いに心を痛めるだろう。そんな彼女は見たくない。
では、どうすればいい?
男は唯一の解決方法を思いつく。
――消せばいい。王を。そうだ、簒奪者になればいいのだ。
フィーニスは腕を解き、兄の亡骸からのろのろと剣を奪った。フィーニスの血で染まるどころか、己の血で塗れた剣。滑稽なものだ、と彼はうっすら微笑んだ。
「フィーニス様? いったい……?」
「王のもとへ行くよ。あなたはどこか安全なところに隠れておいで」
きっと迎えに来るから。
そう告げるフィーニスの態度に尋常ならざるものを感じた。
「いいえ。お供します。王太子殿下を弑したのは私です。私が行かずにどうします?」
「しかし、身の安全は保証できない」
「構いません。剣の腕は先ほどご覧になりましたでしょう?」
ここで別れてしまえばもう二度と会えなくなる。不吉な予感がした。
「それにフィーニス様は先ほど私に向かって、絶対に離れないとおっしゃいました。なのに、舌の根も乾かぬうちに私を放り出すのですか?」
「それとこれとは違う」
「違いません!」
何が何でも食い下がらねばならない。
絶対に離れたりはしないという思いを目に込めて、フィーニスをじっと睨む。
「――なら、おいで」
フィーニスが根負けした形で決着がついた。
「ありがとうございます」
「あなたには敵わないからね。でもこれだけは覚えておいて。あなたは私のすべてだ。もし、あなたに何かあれば私も生きてはいられない。だから、先ほどのように私の盾になろうなんて思ってはいけない。いいね?」
その場になれば、きっとまた盾になるだろう。そう思ったが、正直に言ってしまえば同行の許可は取り消される。それが分かったから、リヤーフは本心を隠して頷いた。
「では、行こうか」
「はい。フィーニス様」
返り血に塗れたリヤーフと、兄の剣を携えたフィーニス。
赤く染まったふたりが目指すのは、王のもと。
それぞれの思いを胸に、最初の一歩を踏み出した。