2.ふたりきり
フィーニスの住まう古い塔は、謁見の間から遠い。
長く暗い回廊を進んだその最奥、半ば人々から忘れ去られた場所にある。
フィーニスとリヤーフは、明かりの灯らない回廊を連れ立って歩いていた。
フィーニスの長靴の音と、リヤーフの足首の装身具が奏でる澄んだ音、ふたつが不思議に調和しあたりに響く。
供はひとりもいない。
フィーニスはもともと専属の召使を持っておらず、また、リヤーフの侍女たちは正門を入る前に追い返されてしまったという。
たったひとり、異国に放り出されてしまったリヤーフの心を思い、フィーニスは小さくため息をついた。
――侍女まで門前払いとは、父上も酷なことをなさる。さぞ心細いだろう。しかも、自分のような者に嫁がされて……可哀想に。
フィーニスは自嘲をこめてそう思った。
王のもとにいれば、確かに酷く苦労するだろうが、しかし、望みもまたあっただろう。
危険が高くとも見返りは大きい。権力の近くにいるということは、そういうことだ。
今まで送られてきた娘たちも哀れではあったが、しかし、彼女たちは最後まで足掻き、彼女たちなりに必死に戦っていた。ある人はここで生き抜くために、ある人は自分の故郷を守るために。
しかし、この娘は到着早々その梯子すら外されてしまった。戦うことすら許されなかったのだ。
――彼女はそのことを理解しているだろうか? 父の勧めを受けた私を恨んでいるだろうか?
リヤーフは彼の一歩後ろをついてくるため、彼女の顔は見えず、どう思っているのかうかがい知ることはできない。
いや、仮に見えたとしても、彼女の美しく整った顔から心を垣間見ることはできないだろう。それができるくらいなら、こんなに父王から嫌われたりしない。
父から嫌われるのも、兄から嗤われるのも、弟から蔑まれるのも、すべて愚鈍な自分が悪い。だから、何もかもが仕方がない。自由にさせてもらえているだけ幸せだ。
そのような自分に嫁がされてしまった彼女の未来は暗いだろう。不興を買えば即処刑、よくても自分とともに生涯、古びた塔で飼い殺し。二度と故郷の土は踏めない。
ああ、彼女の故郷はどんなところだろう?
生まれて一度も王宮を出たことのない男は、遥かな砂漠に思いを馳せた。
せめて。
せめて、自分は己の持てるすべてをもって彼女を守ろう。
自分にできることは少ないが、それでも、いつも彼女の盾になろう。
フィーニスはそう心に誓った。
父の気まぐれと意地悪の結果とはいえ、縁を結ぶこととなったのだから。
――できることなら、いつか故郷に帰してあげたいけれど……
だがそれは無理なこと。願えば願うだけ空しくなる。
心の中で芽吹いた希望の芽を、男は慌てて摘み取った。
「疲れているのに、遠くまで歩かせてすまないね。あともう少しだから」
「いえ、これくらいの距離はなんともありませんのでお気遣いなく」
素っ気ない答えだったが、フィーニスは凛としたリヤーフの声を好もしく思った。
生粋のケントルム人には無い、すこし不思議な抑揚もまた魅力的だった。その抑揚の向こうに彼女の国の幻が見えた気がする。
彼は脳裏に先ほどの彼女の姿を思い出した。
謁見の間の片隅から眺めた彼女は、今まで見たどの砂漠の娘より美しかった。
臆することなく顔を上げ、まっすぐ前を見つめる赤茶の目。凛々しく引き締まった横顔。金糸でたっぷりと刺繍を施された赤い衣装も、動くたびにかすかに澄んだ音を立てる装身具も、涼やかな声も、すべてが彼を魅了した。
だから父王に娶れと命じられた時は、動揺すると同時に心の片隅が歓喜に踊った。しかし彼女の将来を思えば、受けるべきではなかった。後悔が心のなかでとぐろを巻く。
素直に喜べもせず、かといって彼女を案じて父や兄弟と争う気概もない。自分の狡さと情けなさが歯がゆいが、そう思う端から諦念が『仕方ない』と甘い言葉をささやく。
「ここから先は少し道が悪い。足元に気を付けて」
「はい」
塔への外廊下は長年風雨にさらされたせいで、ひどく朽ちている。気を付けていないと、慣れたフィーニスでも躓くことがあるのだ。
転ばないようにと手を差し伸べれば、リヤーフは驚いたようにフィーニスを見つめ、その後、おずおずと手を重ねた。
「会ったばかりの男に手を握られるのは嫌かもしれないけれど、少しだけ我慢してほしい。転んでその綺麗な服を汚してはいけないからね」
「え……?」
「綺麗な服だよね。あなたによく似合っている」
フィーニスが率直な感想を口にする。
途端、暗がりだというのにリヤーフの顔が見る間に赤くなるのが見て取れた。
「あ……りがとう、こざいます」
消え入りそうな声で礼を言う。
王宮へ到着以来、褒められたのは初めてのことだった。
服装のことも、やれ田舎臭いだの、みすぼらしいだのと嘲笑されるばかりだったのに。
ふいにかけられた優しさに、張り詰めていたリヤーフの心がフッと緩んでしまった。
慌てて立て直そうとしても、溶けてしまった氷と同じでもう戻りはしない。
「太陽の光みたいだ」
「こっ、この服は……、母や姉たちが心を込めて作ってくれたもので……その……、フィーニス様に褒めていただけて嬉しいです」
恥ずかしげに視線を逸らす彼女を見ながら、フィーニスは暖かい微笑みを浮かべた。
太陽の光と褒めたのは、服のことだけではない。彼女自身を含めてのことだったのだが、彼女には通じなかったようだ。
しかし、彼はあえて誤解を解こうとはしなかった。
本当のことを言えば彼女はますます狼狽えるだろう。凛とした彼女が見せる可愛さをもっと見てみたくはあったが、あまりしつこく追及して、せっかく繋いだ手を振り払われてしまっては困る。
「着いたよ。こんなところで申し訳ない」
言われてリヤーフは目の前にそびえたつ塔を見上げた。
半月の弱々しい光に浮かび上がったのは、なんの装飾もない石造りの塔。
石の隙間にところどころ黒い影が見えるが、おそらくその正体はこんもりと張り付いた苔だろう。それは何百年もの間、そこにあったのだろうと思わせる古さだった。
塔の裏には高い城壁があり、その先では森の木々が黒々と夜に沈んでいる。時おり吹く風に枝がザワと不気味な音を立てる。
――フィーニス王子はこんな寂しい場所に一人で住んでいるの……
彼がどれだけ冷遇されているのか。それをまざまざと見せつけられて胸がちくりと痛んだ。
「怖くはない?」
「怖い?」
何が怖いのか分からずおうむ返しに聞き返せば、フィーニスは寂しげな笑顔を浮かべた。
「これからあなたはこんな場所に住まねばならない。きっと故郷では御父上の愛情のもとで幸せに暮らしていたのだろう? ここには華やかな宴も、豪勢な食事も、美しい衣装も、何もない」
申し訳なさそうにそう告げられて、リヤーフは小さく首を振った。
突然、蛮族の娘を娶ることになったというのに、この王子は自分のことを二の次にしてリヤーフのことばかり案じる。
魑魅魍魎が跋扈するこの王宮で、彼のもとへと回されたのは自分にとって最上の幸運だったのではないか。リヤーフは思う。
「大丈夫です、フィーニス様。ちっとも怖くなってありません」
リヤーフは、頭一つ以上高いフィーニスへと手を伸ばした。
ひんやりした細い指が、男の青白い頬をそっと包む。
「フィーニス様さえそばにいてくだされば、私は幸せです。宴もご馳走も要りません。もちろん美しい衣装も」
柔らかく、しかし奥に情熱を秘めた赤茶の目がフィーニスの心を絡めとる。
頬から伝わる彼女の指の感触に、彼は胸を締め付けられた。
自分に向けられた迷いのない視線。
自分を欲してくれるというその言葉。
すべて嘘かもしれないと思いつつ、フィーニスの中で何かが蠢動を始めた。
諦念ばかりを詰め込んだ心の奥底で、何かがじわりと熱を持つ。
「リヤー、フ……?」
リヤーフは、かすれた声で自分の名を呼ぶ男をじっと見上げた。
彼女よりずいぶんと年上のはずだが、まるで帰り道を忘れた子どものようだ。今にも泣きそうなフィーニスの頬を引き寄せて、その頬にそっと口づけた。
自分でも驚くような大胆な行動だったが、されたフィーニスのほうはもっと驚いたようだ。
両目をこぼれんばかりに見開いている。
――フィーニス様、可愛い。
リヤーフは彼から身を離すと、無邪気な顔で笑った。
「――とは言え、食べないわけにもいきませんし、裸で過ごすというわけにはいきませんから、最低限の食べ物と衣服だけは必要ですね」
「あ、ああ。そのあたりは大丈夫だと思う。たぶん……」
たぶんと付け加えたのは、今までの習慣でフィーニスの分だけは運ばれてくるだろうが、リヤーフの分まで追加してくれるかどうか甚だ不安だったからだ。
「それなら安心しました。この国は緑が豊かですから、もし水や食料が足りないならどこかから調達して来られます。ですが衣服についてはどうしようかと思っていたのです。実は裁縫が大の苦手で……」
リヤーフはそういうと顔を赤くして身を小さくした。その姿は初々しく、可愛らしい。
今しがたフィーニスを圧倒し、恐ろしいほど魅了した面影はない。
――なんと魅力的なんだろう、わが花嫁は!
フィーニスはこらえきれず、笑い声を上げた。
彼がそんなふうに忌憚なく笑ったのは、生まれて初めてのことだったかもしれない。