3.赤い風
フィーニスはぎいと軋む扉を開けた。そろそろ蝶番に油をささねばならないなと、心の片隅でぼんやり考える。
「さぁ、入って」
扉が閉まらないよう押さえながら促せば、リヤーフは「失礼します」と断って、扉をくぐった。
もともとは見張りのために建てられたのだというその内部は、想像していたよりもずっと快適そうに見えた。
黴臭くもなければ、荒んだ雰囲気もない。
質素ながらきちんと整えられた室内は、故郷の城を思い出させた。
故郷の城は砂嵐に耐えられるように頑強な石造りで、この塔のように壁は石材がむき出しになっていたものだ。
部屋の隅には小さなかまど、反対側の隅には上の階へと続く階段があった。
「狭いところで申し訳ない」
「いいえ。故郷の城を思い出します」
すまなそうにするフィーニスに向かって、リヤーフは正直な感想を述べた。
掃除が隅々まで行き届いているようで塵や埃は見当たらない。また、壁や床の岩は蝋燭の明かりにきらきらと光り、常に磨かれているのだろうとうかがい知れた。もちろん、天井に蜘蛛の巣など張ってはいない。
「ありがとう。掃除と読書が趣味なんだ。――と言うより、他にはすることもないからなんだけど」
「掃除が趣味!」
リヤーフは信じられないと目を丸くした。
「王子らしくない? 『掃除なんて』だの『もっと王子らしくしろ』とよく笑われる。あなたもやらないほうが良いと思う?」
苦笑いを浮かべれば、リヤーフは勢いよく首を横に振った。
「違います! 掃除を侮ってはいけません。快適な生活に欠かせないものです。なのに、殿方の中にはたかが掃除と軽んじる方も多いので、それで驚いただけです。フィーニス様がお好きならどんどんやるべきだと思います。したいことを我慢していて良いことなど一つもありません。ここの壁と床はつやがあって、とても美しいです。故郷の城では女性総出で掃除をするのですが、どうしても砂が入り込んでしまうので、なかなか美しさを保つことができなくて……」
懸命に話す彼女に少々気圧されつつも、フィーニスは嬉しそうな微笑みを浮かべている。
彼の穏やかな目を見つめているうち、リヤーフはようやく我に返った。
「私ったら! 申し訳ありません。おしゃべりが過ぎました」
「いや、構わないよ。――もしかして君も掃除が好きなのかな?」
深い藍色の瞳に覗き込まれて、彼女は顔を赤くしつつ頷いた。
「そう。それは良かった。では、明日から一緒に掃除をしようか。ふたりでやればきっとこれまで以上に楽しい。ね?」
今までのフィーニスにとって、掃除の時間は無心になれる貴重なひとときだった。これからはきっと変わる。それも良いほうへ。
そう思うと、明日の朝が待ち遠しくなってくる。
昨日まで、明日など来ないほうが良いと思ってばかりいたのに。
――我ながら、単純だな。
たった一人の女性の出現で、こうも気持ちが変わるのだから。
「はい! きっとケントルムとアキークではお掃除の仕方も違うと思うのです。ご指導のほど、よろしくお願いいたします!」
目をキラキラさせてそう告げると、リヤーフは勢いよく頭を下げた。
「こちらこそ。では、私にアキークの掃除法も教えてくれるかな?」
「もちろんです!」
「楽しみだ。――さて。夜も更けてきたし、そろそろ休もうか。寝室に案内するよ」
フィーニスがそう口にした途端、リヤーフはスッと表情を硬くした。
緊張したその面持ちに、フィーニスは彼女が今なにを思ったのか悟った。
少しばかりの雑談で気が緩んでしまった己にほぞを噛んだ。もっと早くに告げておくべきだった。夫婦になったとは言え、お互いの心の準備が整うまで、そういう行為はしないと。
フィーニスは誤解を解くために慌てて口を開く。
「安心してほしい。その……、あなたが思っているようなことはしないから」
「私ではご不満ですか?」
安心させるために言った言葉なのに、それを聞いたリヤーフは顔を曇らせた。
「違うんだ! 不満なんてない。あなたは私には過ぎた花嫁だ。そういうことではなくて、ね。突然結婚しろと言われて、心の準備もできないままだろう? そんな状態ですることじゃない。もっとお互いを知ってからでも遅くないはずだ」
「はい……。フィーニス様がそうおっしゃるなら」
まだ納得できないという顔であったが、それでもリヤーフはしぶしぶ頷いた。
らせん状に続く階段を上った二階が寝室として使われている。階段はさらに続いていたが、上は物置であり、そっちの案内は明日にでもとフィーニスから告げられた。
寝室の広さは一階とほぼ同じで、階下同様、綺麗に整頓されていた。
「明日、上の荷物を片付けて、あなたの寝室を作ろうと思う。申し訳ないが、今夜だけは私のベッドを使ってほしい」
「はい。ありがとうございます」
答えながらリヤーフは、どうやって寝ようかと考えた。
一つしかないベッドは、ひとりでは大きいがふたりでは少し狭い、そんな微妙な大きさだった。
しかし、答えを導き出す前にフィーニスが動いた。ベッドのわきのクローゼットから毛布を引っ張り出す。
「私は下で寝るよ。――では、ゆっくり休んで」
リヤーフは階下の風景を思い出した。成人男性が寝られるような場所はなかったはずだ。
――まさか床で寝るの!? 一国の王子が!?
そんなことさせるわけにいかない。
リヤーフは、階段を降りようとするフィーニスの手首を慌てて掴んだ。
「いけません! 私がそちらで休みますので、フィーニス様はどうかご自分のベッドでお休みください!」
「それは聞けないな。あなたがベッドを使って」
「いいえ! 私は野営にも慣れております。お気遣いは無用です」
手首を掴んだ者、掴まれた者、双方一歩も譲らない。
「慣れている、慣れていないの問題じゃない。女性を差し置いて自分だけベッドを使う気にはなれないよ」
「それなら、私だって! 旦那様を差し置いて自分だけ寝るわけにはまいりません」
「リヤーフ……」
フィーニスは聞き分けのない子を諫めるような口調で、彼女の名前を呼んだ。
「嫌です、絶対に」
呼ばれた彼女は絶対に引き下がらないとばかりに、男をキッと睨みあげる。
――やれやれ。このままでは二人で床に寝ることになってしまいかねないなぁ。
天井を振り仰ぎ、どうしたものかとため息をつくフィーニス。
なんとか言いくるめて寝てもらわないとならないが、なかなかうまい言葉が見つからない。
人付き合いをほとんどしたことがないフィーニスにとって、意志の強そうな娘を説得する言葉などそうそう思いつくわけもなかった。
困り果てた彼の腕が強引に引かれる。
「なっ?」
そういえば、手首を掴まれたままだった。
「言い争っていても時間の無駄です。フィーニス様も私もお互い譲らないのでしたら、折衷案をとりましょう」
「折衷案?」
それと、自分が腕を引っ張られていることにどう関係が? と一瞬思ったが、引っ張られていく先がベッドのある方角であったため、すぐに察しがついた。
「リヤーフ!? まさか」
「はい。そのまさかです。二人とも床で寝るというよりはまだマシな案だと思います」
心の中を見透かされたような気がして、フィーニスはどきりとした。
「しかし、リヤーフ。あなたは嫌ではないのか? 今日会ったばかりの男とひとつのベッドで寝るなんて」
彼の言葉を聞いて、リヤーフはきょとんとした後、すぐおかしそうに笑った。
「お会いしたばかりですが、フィーニス様が優しくて素敵な方だというのは知っております。そんな方と一緒に寝るのが嫌だなんて思うわけがありません。――それに私たちは夫婦ですよ?」
いたずらっぽく笑うリヤーフに、フィーニスは心の中で白旗を上げた。これは敵わないと。
孤独を当たり前に思っていた男がこんなふうに無条件に信頼されて、太刀打ちできるわけがない。
「そう、か……。ではお言葉に甘えて一緒に寝させてもらおう。――私の理性が一晩もつことを祈ってくれ」
リヤーフにやり込められてばかりで少し悔しい。フィーニスはちょっとした悪戯心で冗談を付け加えた。
だが……
「理性? もたなくても私は一向にかまいませんので、あまりご無理はなさらないでくださいね。私たちは夫婦です。そういった行為をすることに、はばかりはありませんでしょう?」
無邪気に返されてしまった。完敗だ。絶句するより他はない。
「参ったな」
「なにがです?」
「いや、何でもない。少し待っていてくれ」
フィーニスは彼女に背を向け、階上へと消えていった。
石の階段を上る音に続き、天井からコツコツと足音が聞こえる。おそらく上階で何かをしているのだろう。
リヤーフはベッド脇に置かれた丸椅子に腰を下ろして彼の帰りを待った。
「待たせてすまなかった。古いものだが、定期的に風通してあるから着られるとは思う。好みが合わないかもしれないが……今夜はこらえてくれ」
フィーニスから渡されたのは薄い布地で仕立てられた寝間着だった。質素なデザインのそれは何度も水を通したもの特有の柔らかさを持っていた。
「これは?」
「亡き母が使っていたものだ。申し訳ない。どうやらあなたの荷物はまだ運び込まれていないようだし、その衣装のままでは寝られないだろう」
「お母様の形見ではありませんか! そんな大事なものを使わせていただくなんて!」
慌てて返そうとしたが、フィーニスは首を横に振り、受け取ろうとしない。
「いいんだ。箪笥の中にしまい込むより、あなたに使ってもらったほうがいい。そのほうがその服も幸せだろう」
「フィーニス様……。――では、ありがたくお借りいたします」
リヤーフは手の中の寝間着を大事そうに撫でた。
目を伏せた彼女の長いまつげが、目元に濃い影を作る。
「では、寝支度をしようか」
「はい」
お互い、相手に背を向けて服を脱ぐ。
耳に届く衣擦れの音が、否応なく緊張を高める。しかし、それは決して不快ではなかった。
明かりを落とした部屋の中。
リヤーフは眠れずにいた。
体は疲れきり眠りたいと訴えているのに、頭がひどく冴えていた。このまま朝を迎えてしまえは、明日はひどい一日だろう。
わかっていても眠れないものは眠れない。
風が強くなったのか、鎧戸の向こうからひっきりなしに葉擦れの音がする。
ざわざわ、ごうごう、時折びょうと甲高い音がするのは細い枝が鳴る音か。
鎧戸が鳴らないのは、風向きのせいか高い城壁が近いせいか。戸がガタガタいわないだけでも幸いだ。
――砂漠の風音とは全く違うのね。
隣で眠るフィーニスを起こさないよう、リヤーフは細心の注意を払って身じろぎをした。
しかし、かすかな軋みに気付いたらしいフィーニスが、囁くように話しかけてきた。
「眠れない?」
「申し訳ありません。起こしてしまいましたね」
「いや。私も眠れなくてね。今宵は外が騒がしい」
眠れなくて当たり前だと言外に慰める彼の優しさに、小さな幸せを感じる。
「無理に寝ようとしてもよけい眼が冴えるだけだ。リヤーフ、どうだい、眠くなるまでおしゃべりをしないか?」
「よろしいのですか? あまり夜更かししては寝坊してしまいます」
「構わない。明日も予定なんてないんだし」
くすくすとおかしそうに笑うので、リヤーフもつられて微笑んだ。
彼の提案に乗り、ふたりは空の白むまで他愛のないおしゃべりに興じた。
「そうだ。ねぇ、リヤーフ。君の名前は……どんな意味なんだい?」
話し疲れてうとうとしかけた頃、聞き忘れたとばかりに、フィーニスが問いかけた。
「風、という意味です」
「風か。素敵な名前だね」
答えるフィーニスの声は話し疲れて、少し掠れていた。
目を閉じた彼の脳裏に、見たこともない景色が広がる。
どこまでも続く砂の大地に朝陽が昇る。空は複雑な色に輝き、一陣の風が砂をふわりと巻き上げる。
巻き上がった砂は朝陽を受けて茜色に輝いて、赤い風となる。まるでリヤーフの髪のような……
神々しいまでの光景。
――リヤーフ……赤い風。どこへでも行ける、誰も止められない、自由な……
「フィーニス様のお名前の意味は……?」
そんな問いを夢うつつで聞いたが、フィーニスは答えられなかった。いや、答えなかった。
フィーニス。最後の。終わりの。
兄弟の中でフィーニスだけが正妃の子どもではない。
身分の低い貴族の娘が身ごもった子どもは、第一王子に万が一何かあった時のためにと、生まれることを許されたのだ。
しかし、二人目を生むことは許されなかった。
その約束を違えないように、いつでも忘れぬように、彼はフィーニスと名付けられたのだ。
彼が生まれて二年後、正妃が二人目の息子を生んだため、彼は完全に王宮の厄介者となった。
殺すのも面倒だと言わんばかりに、母とともにこの塔へ押し込められた。
もともと体の弱かった母は、彼が十六の時に逝去した。亡骸は下男の手によってどこかへ運び出され、その行方は杳として知れない。
こんな事情をリヤーフには知られたくなかった。
いつか彼女は知るだろうが、今夜は穏やかな気持ちのまま眠りにつきたかったのだ。




