211 アルゴスの古都
エリオンの命に従い、一行はアルゴスの古都に辿り着いた。
千年を経たアルゴスの王宮に、かつてゴンドレシア全土を支配した栄光の影はない。草原には蔦に覆われた巨大な石柱が何十本も転がり、自然の風化と百年前の大乱によって徹底的に破壊し尽くされていた。
だが、エリオンは迷うことなくある一点を目指した。王宮の馬場を潰して造られた、かつての薔薇園――。雪の下でさえ薔薇を咲かせた、あの場所へ。
(千年も経ったのよ。ボロボロに崩れているはず……)
望みは、すぐに打ち砕かれた。
葦の茂る草原の奥に、聖妃アタランテを絶望させたあの壁画が、千年の時を嘲笑うかのように堂々と姿を残していたのだ。風雨に晒され輪郭こそ丸みを帯びてはいるが、数多の女を従える偉大な王と、その王を鋭く睨みつける王妃の姿は、はっきりと刻まれていた。
『お前の功績と美しさを、千年二千年と伝えるために決まっているだろう?』
かつてアトレウスが放った言葉が耳に蘇る。
動機は何であれ、壁画が崩されぬようあらゆる工夫を凝らしたのは間違いない。
特別な石材を取り寄せ、崩れぬよう土の魔法まで施して、この光景を未来永劫残そうとしたようだ。
古都に立つと、脳裏には豪華絢爛な王宮の調度が鮮明に蘇り、エリオンの心を締め付ける。
カリマが「この二人って、もしかして……」と呟いた。
首筋に氷が走った。カリマのいたラサ村には、昔からアタランテの姿は伝わっていなかったようだ。
この状況、何も知らなければ、誰もが思うであろう。燃えるような巻き毛を伸ばし、厳しい顔つきで聖王を睨みつける醜い女が、ゴンドレシアを慈愛に導いたとされる聖妃アタランテだと。
エリオンは感傷を振り払い、冷徹に命じた。
「……壁画を、破壊せよ」
はじめ男たちは、その壮麗な芸術を壊すことに抵抗を感じていた。だが「魔王の源泉を絶つため」というエリオンの説得に、彼らは重い腰を上げた。一番、抵抗を示しそうなセオドアには、すでに意図を伝えてある。
ジュゼッペの魔法で硬い石材を脆い土へと変え、破壊作業が着々と進む。
しかし、カリマだけは激しく拒んだ。
「この大きな女の人はきれいだし……間違ってるからって消すのは嫌だよ!」
きれい? そんなはずはない。これは自分を辱めるために描かれた、嫉妬に狂った女の姿なのに。
だが、泣きじゃくるカリマを宥めながら、エリオンの心は千々に乱れた。
(……まさか本当に彼はただ、私の「美しさ」を伝えるためだけに、これを描かせたというの?)
「ねえ、エリオン様、もういいでしょ?」
中央の男女が跡形もなく崩された時、カリマの目に涙が溜まった。
壁画はあらかた粉塵と化したが、天と地を往復し、生まれ変わる人々の姿が描かれた一角だけが残った。
「やめろ!」
エリオンは、それ以上の破壊を止めた。
エリオンは、泣き止まないカリマを宥めながら、男たちと共に道を引き返した。
瓦礫にかつての聖妃を偲ばせる遺物はないか観察すると、異質な光を放つ白い石が目に止まった。手にとってじっくり観察した。
(これは……魔石!)
前世で天才魔法使いヒッポメネスが発明した、秘術の結晶。ヒッポメネスは火の魔石を、金属の精錬や治療院の温浴に使用した。そしてイシュティは、火だけではなく、魔石に風・土・水すべての魔法を込めることに成功し、冬でも花が開く薔薇園を作り上げた……聖王アトレウスのために。
このように無造作に転がっているところからすると、魔石の技術は千年の間に失われたのだろう。
エリオンは石に念じてみた。
(あ……私の力が吸い込まれていく……もしかして……)
エリオンの魔力が際限なく吸い込まれていく。自分の死後、魔石の技術は改良を重ね、ありとあらゆる力を吸収できるようになったらしい。
彼女は思い立った。この前世の遺恨が眠る都を、誰の目にも触れぬよう封印してしまいたい。
「念のために封印を施そう」
魔石に膨大な魔力を注ぎ込み、地面に戻す。瞬く間に白い霧が湧き上がり、古都を厚く覆い隠した。
七人の従者が感嘆の声を上げる。
「先生、どうしてそんなことできるの? 僕はできないのに」
ジュゼッペの問いに、エリオンは少年の栗色の髪を撫でながら答えた。
「なぜできるかは、私にもわからぬ……ただ私も、願いがすべて叶うわけではない」
(あの人が本当に、私の美しさを残そうとしていたのだとしたら?)
いや、あり得ない。もしそうなら、千年もの間、彼を誤解し続けていたことになる。それは、復讐そのものを無意味にしてしまう。
(第一、本当に『美しさ』を残すためなら、私を恐ろしく描くわけがない)
願い。叶わなかった願い。
ただの男と女として、空を眺め、野薔薇を探す当てのない旅に出る……そんな夢。
エリオンは激しく首を振った。感傷に浸っても、生まれ変わっても、過去は変えられないのだ。
宿に戻っても、カリマは壁画の破壊に納得がいかない様子でエリオンに訴えた。
「無理に絵を壊さなくても、都の周囲を封印するだけでよかったんじゃない?」
カリマの言う通りだ。あの壁画を放置したところで、民の暮らしに不都合はない。ただ、歪められた伝説が語り継がれるだけ。あまたの妾を従えた王と、醜い嫉妬をぶつける王妃……だが、前世アタランテであったエリオンにとって、それは耐え難い屈辱だった。
ネクロザールは偽りの聖王であり、その正体は地獄の魔王であること。巷に蔓延る嫉妬深い聖妃の姿は、彼女を乗っ取った偽りの魔女であり、その魔女が魔王を呼び寄せたこと。魔女の力が込められた壁画を破壊しない限り、次の魔王が呼び寄せられること――
すべては、エリオンが前世の痕跡を抹殺するためにでっち上げた偽りの物語だ。
この偽りを押し通すため、エリオンは「竜の娘」の力を駆使し、幾度となく瞳を金色に輝かせてきた。それは、大切な仲間たちにさえ牙を剥く力だった。
特にカリマは、エリオンが女性であると明かした、かけがえのない少女だ。彼女だけはエリオンを崇めるのではなく、普通の友として接してくれていた。
だが、どうあってもカリマを説得することはできない。ならば、いつもの技を使うしかない。
指導者は瞳を金色に染め、少女の意識を射抜くようにじっと見つめた。力に浸食されたカリマの琥珀色の瞳が、不自然に潤み、光を失っていく。
翌朝、カリマは昨夜までの疑念をすっかり忘れたかのように、晴れやかな顔で告げた。
「あたし、エリオン様を信じるよ」
エリオンは、泣き出したい衝動を抑えて微笑んだ。
七人となった従者たちは、今やエリオンを神のごとく崇め奉っている。氏素性も知れぬ一介の奉仕女を。男だと偽る女を。己の過去を葬りたいがために語る偽りの伝説を、ゴンドレシアの民が天の啓示として拝聴する。
それもすべては、この「竜の娘」の力ゆえだ。エリオンという人間に魅力があるのではない。
対等な友になれるはずだったカリマですら、エリオンは力で裏切り、その心を汚したのだ。
彼女は顔を覆い、己の浅ましさに身を震わせた。
(……前世など思い出さなければよかった。ティリンス村でただの奉仕女として、静かに一生を終わればよかった……)
だが、答えは「否」だ。
いずれネクロザールは自分を見つけ出し、攫うだろう。そして奉仕女オレーニアを「聖妃アタランテの転生」として祭り上げ、民の心を支配するための道具として利用するに違いない。
(そんなことは、断じて許してはいけない!)
込み上げる自己嫌悪と孤独を、エリオンは心の奥底へと押し殺す。慈悲深い指導者の仮面を、深く被り直した。




