No.Less りんごの花が降る日
その人はとても美しい人だった。
今は瞼の裏にうっすらと思うことしか出来ない彼女の美しい金髪に縁取られた白い顔の笑顔の片鱗を久々に呼び起こす。
別れとも思わずに別れた日の彼女の笑顔――。
はらはらと落ちてくる白いりんごの花弁を見ながら、私は始まりの日を思い出す。
「服を脱げ」
気がついたら暗い場所に閉じ込められていた。何人かの少女の泣き声と、暖かく細い腕が自分を守るように抱きしめている。
自分がどうしてここにいるのかはまったくわからないが、嗅ぎなれた姉の柔らかな香りが少しだけ恐怖を感じてか薄くなる。
自分を隠すように服を脱いで目の前に置かれた盥から水を絞って体を拭く姉。泣いてはいけないが涙が堪えきれず溢れた。
「泣かないで、いい子にしていて」
自分も泣き出したいであろうに、それを我慢して姉が柔らかく言う。小さく必ず迎えに来るから――そう言って、男に連れられていく。しばらくして先ほどの男に乱暴に小屋の中から引きずり出された。小突かれるように歩かされて連れて行かれた先にはフードを被った男二人と、みすぼらしい服を身に着けてもなお美しい姉が立っていた。転がるように姉の元に駆けていき、姉も固く自分を抱きしめてくれた。
そのまま粗末な馬車に運び込まれ、そのまま移動させられる。
途中で与えられた久しぶりのパンと水で薄くしたワインを与えられ、二人してそのまま気を失うようにして眠ってしまった。目が覚めた時には、森と草原に囲まれた邸が目の前に見えていた。
邸の入り口に一人美しい女が立っている。
馬車が止まって姉と二人して下ろされて、その女に連れられてその日は入浴と食事を供されてそのまま眠りについた。今まで触ったことのないようなふかふかの寝台で。
姉は一体何をしたんだろう?
そう疑問に思いつつも、泥のような眠りに落ちていくしかなかった。
翌日、姉と一緒に『お館様』に挨拶をするように言われて、綺麗な格好をさせられて広くて本の匂いのする部屋へと連れて行かれた。
「昨日は暗いのと汚れているからそれほどでもなかったが……」
そうつぶやく彼らの視点は私ではなく姉に向けられていた。姉は美しい。
私とは違って、赤ん坊の頃から整った容貌に、赤銅色の髪……だんだんと月の光のような金色になりつつある。頭もよくて私の目からすると何でもできる素敵な姉。
ただ本当は知っている。
できるために努力を惜しまないこと、それも姉の才能の一つだと思う。お館様に挨拶したあと、部屋を連れ出してくれた女の人がとても怖かったから、姉は必死だったのかもしれない。
「安心しちゃダメ。メイドやただの娼婦をさせられるより、ここはひどいところよ」
そうにっこりとひどく優しく言われて、ぞっとしたことを覚えている。しばらくして、姉と自分を人買いから買ってくれたのが『犬』と呼ばれる組織だったことを知った。ただし、姉と違って自分は、何の訓練も施されない。
私の一日はとても平和だ。最初は文字を習い、そのあと台所に連れて行かれる。台所で野菜を洗ったりしながら、料理人が味見と称してお菓子をくれたりするのを楽しみにしていた。もしくは庭師の手伝い。手伝いといってもほとんど土遊びに近い。雑草を抜いたり、頼まれた場所に水をやったり。まだ小さかった私はその合間に昼寝も加えられた。
正直言って、買われた身の上としては極楽だと今思い返しても思う。私は『犬』として買われたのではなく、姉の足枷として買われた事に途中で気がついた。
だから姉は、私に目立たないよう、周りの言ってることをよく聞くようにということを折に触れ言ったのかもしれない。目立って利用されるのは体を張って私を守ってくれる姉が最も恐れていることだということはわかっていたから。
そんな風にして何年かが経っていった。いつの間にか姉に懐くようになった少年二人がいつでも守るように寄り添ってくれて、姉もごくまれに彼らに対して、本当の笑顔を素直にこぼすようになっていた。
だから姉の変化はすぐにわかった。
あれほど一緒にいる少年たちが気がつかないのが不思議だった。少しずつ丸みを帯びた体になっていく姉がある日を境によりいっそう自分の気持ちを気取らせないように注意をし始めた。何度も夜中に寝台から抜け出して、一人気持ちを落ち着かせるために図書室で夜を過ごすようになった。大抵はすぐそばで眠る少年のどちらかが気がついて連れ戻してくる。
私も何度か姉を探しに行った。
私と二人きりになると、姉は『目立ったことはしてないよね?』『今日はどんなことを勉強させられたの?』そんな質問を静かな声でして来た。
私が『犬』とは関係のない勉強だけさせられているのを聞いて、小さく安堵の吐息を吐いて、それから綺麗な微笑み――私を安心させるためのもの――を浮かべて寝台に戻るのが常だった。
そんな日々の中で、いつものように姉を連れ戻した少年がなぜ姉の変化に気がつかないのかがとても不思議だった。
戻ってきた姉からはほのかに血の甘い香がする。後から考えると、姉は初潮を迎えたんだということがわかる。
姉の顔を覗き込んだ私が何かを悟ったことに気がつくと、ふっくりとした笑顔を浮かべて眠るように言った。
その時の表情は『安心しちゃダメ。メイドやただの娼婦をさせられるより、ここはひどいところよ』と言ってきた時のあの女の人とそっくりな歪で美しい笑顔だった。
それからの数日間はとても静かだった。
数日して、とても疲れきった姉が部屋に戻ってきた時には、部屋には私だけだった。それでも優しく頭を撫でてくれて、今日の出来事を私が話すのを聞いてくれた。そのあと、姉は珍しく化粧をした。真っ青だった顔色が、いつものように白くて桃色の頬に一見見える。金色の長い髪の毛を緩くまとめた姉は、少女から女へと変わりかけているのがとてもよくわかった。
毎晩寝るときに読んでくれる話が、前に私が好きだといった話ばかりなのに2日ほどで気がついた。
「おねえちゃん、そのお話好きだよね」
そう揶揄する私に姉は微笑んだ。
「あんたが大きくなって、好きな人が出来て、子供が生まれたらこの話読んであげたいと思う?」
「ふふ。お姉ちゃんに読んでもらったお話はどれも好きだよ」
姉が読み聞かせてくれた話は全て覚えている。同じ話を何度かせがんでいるのは姉の低い眠気を誘うような静かな声が聞きたかったからでしかない。
夜の世界しか知らない女の子が昼の少年と出会うお話、4つの風に連れられて影をなくした王子と出会うお話……。他愛もない物語を姉はこの邸に連れられてきて、文字を覚えたあとから毎晩読み聞かせてくれた。
今まで読んでもらった物語の話をしていたら姉は、少しだけ躊躇するように話し出した。
私達を買ってくれたお館様の知り合いのりんご農家にしばらく手伝いに行って欲しい。そこに行ってくれるととっても助かるんだけど、だめかな? そう姉は遠慮がちに小さく言った。
「白くて可愛いお花が咲くんだって。りんごって」
「へーー。それ綺麗なのかな?」
「多分。お姉ちゃんも見てみたいけど、あんた先に行ってどういう風に綺麗か調べてくれる?」
「私も犬の仕事できるの?」
「――。う、ん。あんたにしか出来ない犬の仕事だよ?」
私が実は犬の仕事に憧れている――というよりも、姉と少しでも一緒にいたかっただけなのだけれども――ことを知っているからこそ、姉はそういったのに違いない。そういわれれば私は思い切りよく首を縦に振るしかなかった。
3日後、朝早くに馬車の迎えが来て私は、姉と一緒に準備した荷物と一緒に乗り込んだ。朝早くに姉が髪の毛を彼女が大事にしていたリボンを使って結ってくれ、新しく買った普段着のドレスを着せてくれた。とても綺麗な微笑みを浮かべて、ほっそりとした手を馬車から見えなくなるまで振り続けていた。
農家の仕事はとても楽だった。
体は使うけれども、優しい女将さんと旦那さん。毎日温かくて美味しい食事を3人もしくはお手伝いに来てくれる人たちで囲んだ。
夜眠るときは姉の語ってくれた物語を思い起こして眠る。一つの季節が終わろうとしても姉からの連絡がまだなかった。
段々と不安になり、食事も進まなくなった私を心配して、女将さんと旦那さんが一通の手紙を差し出した。『泣いてどうしようもなくなったら見せるようにって言われたんだけどね』そう半分泣き笑いのような表情で渡された。
一人にしてもらい、手紙を開く。姉の流麗な筆跡。
――この手紙をあんたが読む頃には私は、きっと『犬』として独り立ちをさせられてると思う。
そういう書き出しで、姉がどうやっても『犬』になった自分を見られたくないことや、今いる村は『犬』とはまったく関係ないことがつづられていた。
――ずっと、ずっとあんたはそのまま私が私だったことを覚えておいて欲しい。あんたはこれから普通の女の子が経験するようなことを経験して欲しい。そして少しだけその風景の中に私もいるって想像してほしい。
私も小さな白い花が降るような林檎の木の下であんたと喧嘩したり、お菓子を食べたりしてみたかったから。そんな私を少しだけ想像して。
『ずっと』という言葉の裏に自分もきっと普通に暮らしたかったであろう姉の心が見え隠れする。胸が痛くて痛くて、私は静かに泣くしかなかった。
翌日、目を少し晴らした私に、女将さんは冷たい手ぬぐいを充ててくれた。それから数年は何事もなく通り過ぎた。宰相様が罪を犯してそれから行方不明になったり、王様が信頼していた将軍に殺されたりしたけれども、この辺境の村はそんなことは関係なく平和だった。
そんなある日、朝の水汲みをしに歩いていると、少し小汚い、でもよく見ると整った容貌の男の人が目の前に立った。あっと思ったときに昔見た面影とその人の顔が重なった。すっかり男の人の顔になっていたけれども、姉につきまとっていた少年のうちの一人なのに気がついた。
よく飴やお菓子をくれた優しい人。少し精悍になった横顔にいやな予感が胸を打った。その人は懐から長い金色の髪を取り出した。所々茶色く変色したものがついているのが余計いやな予感を深くする。
「あいつが憧れた林檎の木の下にでも葬ってくれない?」
そう少し乾いた彼の手から、それを受け取った時に私は堰を切ったように涙をこぼすしかなかった。ひとしきり泣いたあと背中に暖かい感触を覚えて顔を上げると、透き通るような悲しみをたたえた瞳で彼が私の背中を撫でていてくれた。
少し落ち着いた私に、暮らしはどうかを尋ねて、『息災ならよかった』とつぶやいて、彼はそのまま去っていった。
もう二度と会うことはないんだろう。
彼の背中を見送りながら、姉の事を聞かなかったことを少しだけ後悔した。でも姉はあれからのことを私に知られたいとは思わないこともわかっていた。
久しぶりに脳裏に姉の声やしぐさを思い起こした。優しい姉の記憶。それを思い起こしながら私は日々をつなぐように暮らした。
最初に姉が語ってくれた話から数えると284の物語の全てを私は覚えている。姉が恐れていた私の特技。どんなものでも全て覚えていつでも記憶の底から取り出して再現することが出来てしまう。
姉が怖くて仕方なかったのはこの特技だ。実の両親がなぜ姉と一緒に私を売り払ったか――この特技を気持ち悪いものとして恐れたせい。
『犬』として、見たもの聞いたものを瞬時に全て覚えて取り出せる能力は必要とされるものであろう。あの邸での5年間、姉は必死にそれを隠すために、自分の『犬』としての資質に磨きをかけて、私は凡庸な少女でしかないことを演出していた。
今もそれを忘れずに私は私の能力を隠したまま、ここで暮らしている。
それはとても平穏で、平凡な幸せ。
姉が話してくれた284の物語を思い起こしながら日々をつないで暮らしていたら、季節がいくつか回り、私の中の悲しみも薄れてきた。
悲しみが薄れたとはいえ、どこかに必ず存在する。
いつの頃かここでの生活を思い返すと、ふとそこに姉がいるような気がした。冬のお祭りの時の養母となった女将さんが作った熱々のアップルパイを思い出したり、秋の森の中にきのこをとりに行ったり。そんな他愛もないことを思い返していると、視界の隅に姉が立って笑っている。自分の思い込みなのは、ちゃんとわかっているのに、思い出の片隅に姉が入り込んでいる。
そして、明日、姉が憧れた白いりんごの花が降り落ちる中、私はお嫁に行く。
きっとこれからも、姉は私の思い出の中に忍び込んでくるのだろうと、少しだけ懐かしい幸せな気持ちに浸った。
絢水さんのところの『四季の乙女たち』(http://spring76.web.fc2.com/chicalinda/)に参加させていただいた作品です。
ほかのかたがたはさらに素敵な乙女たちを描かれていらっしゃいますのでぜひぜひのぞいてみていただければと思います。
そしてこの作品、とある作品のスピンオフなのでございます……。