第1話 凪紗と大木智子さん(前編)
「先生~っ! 今日もよろしくお願いしますー!」
朝の5時半。
8月の朝は明るくなるのが早い。冬はまだ真っ暗な時間なのに、すでに少し暑い。
「あっ、智子さんー! おはようございます」
私はたった5段しかない階段を駆け下りて、笑顔で智子さんを迎える。
「先生、今日もお願いしますねー」
「いえいえ。こちらこそです。智子さん、ちょっと痩せました?」
「毎日食べてばっかですよー」
小声で笑う智子さんを、サロンの中にご案内する。
「さ、どうぞどうぞ」
「はぁい、失礼しまーす」
道沿いにある築50年の平屋。
改装して作った、私のサロン。
きっと道行く人達は、まさかこんな所にサロンがあるなんて……夢にも思わないはず。
「こちらにお荷物、置いて下さいね」
「はい、ありがとうございます」
椅子の隣に置いてある籠に、智子さんはカバンを入れる。
「どうですか? 最近。お体の調子」
「夜勤が続いてて……肩がバキバキですねぇ」
「……お仕事お忙しそうですもんね……」
「もう……ほんと大変」
智子さんはここから20km程離れた病院でナースをしている。
「肩ですね。今日は肩を重点的にやっていきましょう」
「はい、お願いします。……もう、痛くて痛くて」
施術の時、いっつも娘さんの話になる。うつ伏せの時も、仰向けの時も。
……たぶん今日も、そうなるんだろうと私は思っている。
「それじゃ、智子さん。お着替えお願いしますね」
「はーい」
そっと襖を閉じて、暫く待った。
私――野村凪紗は、ここ九州の片田舎でリラクゼーションサロンを経営している。
「経営している」といっても……そんな大層なものじゃ無い。見た目はボロボロの古―い平屋。部屋の中もオシャレでもなんでも無い。私自身、着飾った接客をすることもない。
煌びやかな室内で、細身の『美』を意識したセラピストが対応してくれるんだろう……そんな想いを抱いてやってくるお客様は、必ず私の平屋の前で目を丸くする。
私は、しがない個人事業主。
ここは『ないない尽くし』の貧乏サロンなのだ。
「智子さん、如何ですかー?」
「あっ、終わりましたー」
襖を静かに開けて、智子さんがすでに寝ているベッドへと向かう。
「じゃあ、足元から始めていきますね――」
施術の時、ぐっすりと寝てしまうお客様と、たくさんしゃべるお客様に分かれる。
智子さんは、後者。……でも、たまに寝ている。
私のサロンでしゃべることによって、癒しを求めている。
「相変わらず、夜も全然帰って来ないんですよ」
「……咲良ちゃん、でしたっけ」
「そうです。もう、ほんとにイライラしてばっかり」
智子さんの左足をユルめながら、私は智子さんの話に相槌を打つ。
咲良ちゃん。確か県内でも2番目の高校に行っているはず。
「部活、やられてましたよね?」
「そうです。軽音部に入ってるんですけど」
「へえ。バンドやってるんですねー」
「そうなんですよ。塾だって……本人が行きたいっていうから行かせてるのに……さぼってるんです」
「さぼってるんですか」
「そうです。一昨日、塾の先生から電話が掛かってきて」
電話の様子を思い出したのか、うつ伏せの状態からでも智子さんの怒りが、カラダを通して私に伝わる。
「そうなんですか。塾の先生から……連絡が来たんですねー……」
「『最近、お休みが多いですが――』って言われて。私、全く知らなかったんですよ」
「そうなんですか」
「で、咲良に聞いたら……部活の人達と、遊んでたって」
「塾に行かずに……お友達と遊んでたんですね」
「はい。帰りが22時半頃だったから……塾に行ってるもんだとばっかり」
鼻息荒い智子さんをよそに、私はホットタオルで智子さんの首元のオイルをふき取る。
「……心配ですよねぇ」
「もう……『そんなんだったら塾辞めて良いんだよ!』って言うと、『辞めたくない』って言うんですよ。ほんとイライラして」
首周りには神経が密集している。私は慎重に、首から頭の付け根に沿ってリンパを流す。
「イライラしますよね。……お帰りも遅いみたいですし」
「もう……こっちも疲れてるのに……ほんと勘弁して欲しいですよ」
「……首と肩、ガチガチですよ? 智子さん」
「……そうなりますよ」
諦めたような笑いを浮かべながら、智子さんは言った。
温熱の器具を使って、首周りを温めていく。最近買ったばかりの新兵器なのだ。
「……温かい」
「やっぱりですね……温熱が一番ですよ」
「気持ち良いですね……これ」
いつの間にか、智子さんもぐっすりと寝ている。
最初はとにかくしゃべるという方が多いけれど、いつの間にか寝てしまっていることが多い。
(……よっぽど疲れてるんだろうなあ)
「智子さん?」
「あっ……寝てました。……気持ち良くて……」
「ふふっ……お体が温まってきたからですかね。次、仰向けでお願いします」
「よいしょ」と言いながら智子さんは半身の姿勢になり、そのままくるりと回る。
「……主人が非協力的なんですよねー」
「ご主人ですか?」
「はい。塾の送迎とか……娘のこと、全然やってくれないんですよ」
「……そうなんですか」
さて、色々な意味でここからが後半。
チラリと壁に掛かった時計に目を向けると、もうすぐ6時半になろうとしていた。




