第89話 赤黒いハリネズミ
side 狂信者
私が習得あるいは修得した魔法の中で、戦闘での使用が可能な練度のものは四つ。
一つ、ライリーさんの補助による『身体強化』。
二つ、情動抑制の効果のある『浮気封じの呪紋』。
三つ、感染者に特に効果のある合成魔法【赤熱石】。
四つ、ロックさんを以前鎮圧するのに使用した合成魔法【神を試してはならない】。
一つ目の身体強化は使えますが、あくまで大した反動のない範囲なら身体能力のスキルは150程度。
魔力による無意識な身体強化に慣れたこの世界の冒険者との地力の差を埋めることができる程度で、圧倒的な戦力とは言えません。技術的なものも合わせるとテーレさんの格闘技能にも遠く及びませんし。
二つ目は精神操作への耐性以外に使用した相手をある程度冷静にさせる効果もありますが、ロックさんの場合は冷静に考えてもこちらを憎んでいそうなのであまり効き目はないでしょう。
三番目、四番目は条件が整えば効果抜群ですが、今は少し厳しそうです。
どちらにしろ、まず相手に触れられる距離まで近付く必要がありますが、今のロックさんはまるで赤黒いハリネズミ。
回避に徹していれば身体強化で避けるのは容易いのですが、こちらから攻め込むとなるとかなり厄介です。
彼の攻撃性の根源に傷付くことを恐れる臆病さがあることを示すかのような棘の鎧は私が接触して魔法を発動する前にその刃を伸ばし、自身の近くにある物全てを無差別に串刺しにするでしょう。
今は距離を取って様子を見ていますが、ロックさんは小屋の前からほとんど動かずこちらの牽制に反応して地面を抉るばかり。後ろの林に退避していただいたルビアさんにも反応を示しませんでした。
自分から大きく動いてくれるのなら隙もできてやりやすいのですが。
とはいえ、勝つだけならば手はあります。
「テーレさん、どうですか? 彼を無力化できますか?」
「……できるといえばできるよ。でも、普通に行ったら多分死ぬよあれ」
テーレさんなら、今も手にしている切れ味抜群の短剣で血の刃ごとロックさんの生身まで両断してしまえば済む話でしょう。
しかし、それは彼を殺しても構わないという場合の話。彼が自分自身の魔法だけで武装しているというのならともかく、感染者となっているのであれば無闇に殺害はできません。
「私が無力化するにしても、どうやって近付けばいいのでしょうねあれ」
私にはテーレさんほどの身のこなしはできませんし、【赤熱石】で熱感を与えるにしても少々時間がかかります。
刃の先に幻炎を当てたところで末端を多少削れるだけで有効打にはなりません。
つまり、何とかして私が彼の生身に触れられる距離に接近する必要があるのですが……『妖精界の鍵』は私単独ではその場に潜ることしかできませんし、ここでは使えませんね。
あちらでは『自らの意思で歩く』という概念自体が大きな意味を持つので、ほんの僅かだろうと移動できません。
下手をすると三次元方向の前に進んだつもりが時間軸方向に踏み出していて浦島太郎さんの二の舞ということも普通にあるとか。
『妖精界の鍵』を応用した【神を試してはならない】も、その場に留まることしかできませんし。
「これは少し面倒ですね。一時撤退して作戦タイムと行きたいところですが、感染者の皆さんが集まってくると余計に難しくなりますし……」
「……マスター。一つ、確実な手があるにはあるけど、それ使っちゃう?」
確実な手。
おそらくは、テーレさんが自作の『魔本』に蓄えた魔力を利用して、今の所は一日一度の頻度で発動できるという魔法攻撃ですかね。
『万能従者』で一般的な魔法は種類を問わず使えるものの、使いどころの難しい奥の手。温存していましたが、ここが切り時ですかね。
「判断はお任せします。すぐにできますか?」
「……すぐは無理かも。なんか分からないけど共生関係みたいになってるゼットの『自己保存』が魔法抵抗力上げてるから、半端な術式だと弾かれる。発動までに少しかかりそう」
『自己保存』を誤作動させることで自滅を誘う私の【赤熱石】とは違い、一般的な魔法を使用するテーレさんの場合は本来の対象として想定されていない感染者を無力化するわけですから、それはそうなりますか。
しかも、他の一般的な感染者の方々ならまだしも、ロックさんは自我を持って自身の魔法と『自己保存』を合成させている新種感染者。
事前準備もなく適切な出力や効果をすぐに出力しろというのも無理な話。
つまり、時間稼ぎが必要なわけですか。
では、こうするのが合理的でしょう。
「わかりました。では、テーレさんは発動準備を。私はそれまで彼の気を引きます」
「マスター、危険なことは……」
「ええ、わかっていますとも。攻め込むつもりもありません。単純に、彼と話をするだけです」
「……準備できたら合図する。防御か回避が最優先、いいわね?」
「承知しました」
テーレさんから許可が出たので、一歩、二歩と歩み寄ります。
はてさて、何を話すべきか。時間稼ぎが目的だとしても、どうせ話すのなら実のある話をしたいところ。
私が彼に問いかけたいことは、そうですね……
「ロックさん。苛立っているようですが、少し冷静になってお話ししませんか? もはや肉体の一部と呼べるその刃は手放さずとも結構です。ただ、少し伺いたいことがあるのです」
「アァン?」
やはり、怒っていますね。
しかし、それはロックさんの感情が生きていて行動に反映されているという証拠。
つまり、影響を受けている可能性はあるにしても、彼自身の意思が自由を持っているということです。
理由はわかりませんが、他の感染者の皆さんと比較すればとても大きな違いです。
彼はむしろ感染したゼットという因子を取り込み、自らの力にしてしまっているのですから、ある種の偉業かもしれません。
なのに……何故なのでしょう。
「あなたは何故、諦めてしまっているのですか? それほどの『幸運』に恵まれながら」
病原体に耐え抜いたのなら、抗体を持っているかもしれません。
他の要因で自身を保っているというのなら、その要因を見つければ救世主になるかもしれません。
あるいは、ゼットという因子との共生が彼のみが持つ素質や才能と呼ばれるものに起因するのなら、それは彼だけの強大な武器になります。
少なくとも、今の彼は『無力』からは脱しているのです。
なのに……
「何故、そんなことをしているのですか? わざわざ自身の幸福追求を脇に置いて、私たちの邪魔をする必要はないでしょう。村から逃げたければその力で逃げればいいでしょう。今のあなたがしていることは、あなたが幸福になるために本当に必要なことですか?」
その消極的な姿勢は見ていられないものです。
それだけの刃を身に纏いながら、それだけ敵意の籠もった視線をこちらに向けながら……やっていることは、小屋の前に立って威嚇しながら通せん坊。何をしたいのやら。
「『幸運』……だと? なんで諦めてるかだと……ふざけるな!」
またも地面に刻まれる傷跡。
深々とした傷ではありますが、狭いですね。彼が一歩も動かず届く範囲で闇雲に刃を振り回しただけ。攻撃ではなくただの威嚇です。
「幸運なわけがないだろ! こんな山奥に隔離されて! こんな事件に巻き込まれて! こんな姿にされて! いいことなんて何一つねえだろが! 諦めるしかねえだろうがぁあ!」
「では質問を変えましょう。あなたは何を諦めているのですか? 生存ですか? 人間らしい姿に戻ることですか? あるいは、貴族としての地位や名誉の回復ですか? ならば、現状その全てに関して『諦めるのは早い』と言っておきましょう」
時間稼ぎの意味もありますが、戦わずに和解できるのならそれが一番いいはずです。
ロックさんは私たちが現状どれだけ事件解決に近付いているかを知らないでしょうし、それほど絶望的ではないと分かれば反応も変わるかもしれません。
「事件解決の目途は立っていますし、病原体の排出術式も偶然ながら発見済みです。そして、あなたの乱心は治療院の『癒し手』により極限状態での不可抗力という診断がなされています。事件さえ解決すれば命の危機も健康被害もおそらくありませんし、リノさんもあなたをそれほど恨んではいませんから名誉を過度に損なうことはないでしょう。むしろ、意図はどうであれ『感染しながらも自我を保ち、結界の要を護った』と表現すれば名誉的にはプラスが期待できるでしょう。他にも不安があるのなら聞きましょう。解決策を一緒に考えてみましょう、ロックさん」
誠心誠意の訴え、こちらからできる譲歩の提案、そして歩み寄りの意思表明。
『話せば分かる』という偉大なる先人の名言に倣い、まずは会話を求めてできるかぎり友好的に語りかけてみましたが……何故だか、ロックさんの顔面は余計に険しくなったようみえます。これは如何に。
「何を諦めたか、だと……?」
「はい、それか……あなたが何かを諦めてしまったように見えるのは私の見間違いだというのなら、謝罪しましょう。あなたが今行っているその行為が逃避や惰性ではなくあなたの判断基準では価値ある目的に向かって行われている布石や矜持によるものだというのなら、それを教えてください。私たちもあなたの姿形の変化により偏見を持ってしまっている可能性を否定できないので」
「……気に入らねえ。てめえの、その態度が、在り方が……気に入らねえ!」
ロックさんの足が一歩、小屋から出て仁王立ちになってから初めて明確に一歩、こちらに踏み込んできました。
その表情は憤怒に満ちているようにも見えますが……それでも、本音を発してくださるのなら一種の『歩み寄り』なのでしょうかね。
彼自身としては、むしろ拒絶を表現したいかのような激しい口調が飛び出してきましたが。
「何で諦めたか、だと!? そんなもん、諦めた方が楽だからに決まってんだろ! 気に入らねえ気に入らねえ、正論ぶって善人気取りで前向きで、こんな最悪な所でも自分は綺麗でいようとしてるその振る舞いが気に入らねえんだよ!」
おっと、何か吹っ切れた様子。
ロックさんが腕を振るうと、鞭のように伸びた赤黒の刃がこちらへ迫ってきたので、鋼の警棒で防御したのですが……
「……わぉ。なるほど、血の原料は『鉄』ですか」
両断はされなかったはずの警棒の一部が、溶けたように大きく抉れていますね。おそらく、彼の血液の中に取り込まれたのでしょう。身体の外に出た刃の分の血液がロックさんの体内から使われているのなら貧血気味なのではと心配していましたが、これを見るにどこかで鉄分を補給したのでしょうね。水分は空気中からでも取れますし。
これでは、警棒での防御は当てになりません。むしろ、一回目を無事防げたことが幸運でしょう。せっかくのテーレさんの手作りだったことが悔やまれますが。
「テメエこそ、諦めろよ!」
「くっ、【石化】!」
猛攻が始まりました。
とりあえず、身体を石化して防御に徹します。
通常、自発的に行う【石化】は肉体に『石』の属性を付与して硬化させながらもある程度動けるらしいのですが、私の【石化】は硬化の強度が非常に高い代わりに石化した部分が全く動きません。
つまり、防御に徹したら相手が攻撃を続ける限り身動きが取れません。
それを知ってか知らずか、ロックさんは叫びながら絶え間なく攻撃を続けます。
「諦めろよ挫けろよ弱音を吐けよダメになれよ! テメエがそうなってりゃ他のやつらもそうなっただろうが! テメエが諦めねえから普通に折れた俺が惨めになるんだよ! 俺はもう……あそこに逃げ込んだ時には、諦めてたはずなのによお!」
ガンガンと、石化した身体にぶつかる刃の衝撃が響きます。
斬られることこそありませんが、その重さからロックさんの感情の強さが伝わってきます。
そうですか……あなたには……
「俺はただ! 本当にただ……一人で誰にも知られずに死ぬのが嫌だっただけなんだ! あんな不気味な怪物の仲間になんてならずに! 同じ境遇のやつらと一緒に、普通に人間らしく死ぬだけのはずだった! それをテメエがぁぁああ!」
『尊厳死』……そういった価値観も、ありましたか。
救いを求めて土蔵に逃げ込んだのではなく、自身の死を穢されない死に場所を見つけただけ。
ゾンビに噛まれ、自分もゾンビになってしまう前に自害する者が出るというのもゾンビ映画では定番の流れでしたね。
ロックさんは噛まれていたわけではありませんでしたが……自分自身の弱さを無意識の内に理解していたのなら、自分が環境ストレスに耐えかね分裂症を引き起こして周囲に迷惑をかけるということも予想できないことではなかったでしょう。
「諦めろよ諦めろよ諦めろよ! 俺みたいに諦めろよ! どうしてなんだよどうしてテメエは! どうしてどうしてどうして……」
攻撃が止まりました。
そして、これまでの叫びとは裏腹に、耳を澄ませていなければ聞き取れないであろう空に消えゆくような声で……
「おしえてくれよ……どうやったら、そんなふうにできるんだよ」
確かに、そう聞こえました。
聞き違いではありません。勘違いでもありません。
あったのは、ただの……ちょっとした誤解。私の思い違いでした。
「テーレさん! 魔法はやはり使わないでください! 妨害もなしです!」
「えっ!? 何を言って……」
「いいですね? これは『命令』です」
『石化』は解除しました。
テーレさんの干渉もなしです。
そんな無粋なものは、彼に失礼です。
「ロックさん……一つ、教えてください。今、この空に流星は見えますか?」
私から一歩でも近付けば、彼はまた散乱して刃を振るうでしょう。
私がかけるのは言葉だけ。いえ、一応回避できるように強化はかけてもらっていますが、命も若干賭けていますかね。また後でテーレさんに怒られそうですが。
しかし……
「流星? ……流れ星なんて、見えねえよ。朝だぞ」
「はい。そうですね……それが、私の諦めない理由です」
彼は敵意を見せていました。
けれどもそれ以前に、それ以上に、救いを求めている。私たちに『諦めろ』『絶望しろ』と言い続けたのはその気持ちの裏返し……諦観を、絶望を、否定してほしかった。
ならば、応えましょう。
『救ってほしい』と叫ぶ彼を『邪魔者め』と蹴散らすことは善ではありません。
「私には女神ディーレに聞き入れていただいた願いがあるのです。それは『私が死ぬべき時に星を一つ賜ること』。女神ディーレの象徴の一つである流星です。私の命をディーレ様が欲した時には、私はそれを天命として受け入れる覚悟をしています。ある意味、それは『その時は諦めることにしている』とも言えるでしょう」
これが彼を救う言葉になるかどうかはわかりません。
しかし、問いかけられたからには誠実に、嘘偽りなく答えるべきです。取り繕った言葉など、疑心と不安の溢れている今の彼にはすぐに分かります。そんなものには、聞く耳を持たないでしょう。
ベテランの交渉人や詐欺師ならばそれでも効果的な言葉を信じさせることが可能なのかもしれませんが、生憎と私にはその技能はありません。
ただ真実であること。
説得に適していない答えだとしても、後ろめたさのない言葉を紡ぐこと。
それだけです。
「な……なんなんだよ、それ……女神に願った? そんなの……ただの、テメエの、妄想じゃねえか?」
「そうなのかもしれませんねえ……しかし、現に今、流星は見えず、私は諦めていない。あなたに何度『諦めろ』と言われようが、それは私の信仰する神の意図に反することですから。私が『諦めろ』と言われて聞き入れるのは、女神ディーレの意思が示された時だけ。流星によってその神威が示された時だけです。ですから……私は、星の落ちない限り諦めることはできない。それだけです」
まあ、そもそも土蔵に籠もっている間は空すら見えませんでしたし、流星が見えるわけもないのですがね。
私に見えないところで星が落ちたとして、それは私へのメッセージではないということなので問題はありません。
「……はは、ハハハハ! くだらねえ! そんな妄想を根拠に、そんなことを理由にここまでやってこられたってのかテメエは! そんな屁理屈で……」
「ええ、屁理屈です。確率的にほぼありえない事象を根拠として『その事象が起きていない時は全てどうにかなる』と言っているだけですから。しかし……くだらない分、誰でもできることです。もちろん、あなたにでも」
足は出さず、右手を伸ばします。
拳は握らず、柔らかいままの手を軽く開いて。
「『夢を叶えるまでこんな所では死ねない』『他人にとってくだらないことだとしても、自分にとっては掛け替えのないやりかけの仕事がある』。そんなことで、十分じゃないですか。諦めないための屁理屈なんて。結局それを果たせず死んでしまえばお笑い種かもしれませんが、死んだ後で誰かに笑われた所で知ったことじゃありませんよ。どうせ、死者を笑うような不謹慎な方は何もなくても好き勝手言うんですから、気にする必要はありません。賢く諦めて死ぬ人間が嫌なら、諦めず泥臭く足掻いて生きる馬鹿な人間になりましょうよ」
手をさらに伸ばします。
ロックさんの目が、否応なく引きつけられる程に。
「まずは恥知らずに、刃を向けた相手に『仲直りしよう』と言ってみましょう。クックッ、私もあなたが起きているときにはまだ言っていませんでしたね。首を絞めてしまい、申し訳ありませんでした。共にこの事件を生き抜く同志として、もう一度仲良くやりましょう」
後ろにいるので見えませんが、わかりますよテーレさんの表情。
ええ、頭を抱えたい衝動を抑えながら深く溜息をついているのが手に取るようにわかります。本当に申し訳ない。
しかし、こうしたいのだからしょうがないじゃないですか。目の前にあんなにも切実に幸福を求めている人がいるのですから。
「その手を……握れって……握手しろって……言うのか?」
ロックさんは、私の言葉に戸惑いながらも、嘘はないと理解してくださったことが気配で分かります。ライリーさんも、緊張しているのか小さな声で敵意が引いていっていることを教えてくれました。
特に、『同志』という言葉を私が発してからは顕著に敵意が減少しているようです。
彼はきっと、求めてたんでしょうね。
貴族として生まれ、血の繋がった家族親戚や、それらに雇われた使用人でさえ敵になり得る人間しか周りにいなかった彼が、一緒に何かをしようと言える相手が。
まだ少し、抵抗はあるようですがね。
「俺が……テメエと? ふざけんな……俺は、貴族で、正常で、テメエらみたいな異常者とは違う……」
「この感染者だらけの閉鎖空間で貴族とか正常者とか言っても意味がないでしょう。貴族として威張りたければリーダーでもやってカリスマ力を見せてくださいよ。というか、私からしてみれば神でも天使でもない人間なんて貴族だろうが低層民だろうが、もちろん私自身も含めて大差ないですし。私に本気の敬意を求めるのなら、歴史に名を残して神格化されるくらいのカリスマを見せてください」
「……こんな……化け物みたいな、姿の、俺でも?」
「ええ、言っておきますが、本当に人間離れしているのはあなたよりもテーレさんやアンナさんの方ですからね? ちょっとトゲトゲしいパンクなファッションになったくらいで嫌厭するほど細かい性格じゃないですよ私は。さらに言えば、女神ディーレを信仰し善行に励んでくださるのであれば怪獣だろうが魔王だろうが喜んで入信を歓迎します」
「……変人、め」
「『狂信者』ですよ」
ロックさんがゆっくりと、恐々としながら一歩一歩近寄って来ます。
重々しい一歩、騙し討ちを警戒する一歩、私の様子を窺いながらの一歩、躊躇いながらも、もう一歩。
やれやれ、ひと思いに一気に来てくれればいいのに、ゆっくりなせいか私もドキドキしてしまいます。
テーレさん、命令してあるので大丈夫だとは思いますが、決して手は出さないでください。ここが分岐点なのですから。
「ウ……ウグ……ガァ……くっ……」
ロックさんの表情に、何やら苦痛らしきものが混じり始めました。足を引こうとするような、前に進もうとするような。
これは……彼自身の意思と、何かが、競合している?
「だ、だめだ……いや、違う……ガッ……小屋に……俺じゃ、な……」
後、たったの二歩。
その歩みが、あまりにも重い。
葛藤などという生易しいものではなく、意思の反発、あるいは分裂。一つの身体を複数の意思が取り合うような激しい反応。
しかし……
「ウ……グァ……」
一歩。
彼は、手を前に踏み出しました。
ええ、ならば十分です。歩み寄りとは、最終的には片方からするだけでは意味がない。
「ありがとうございます。ロックさん、これで互いに手打ち。仲直りとしましょう」
一歩、最後の一歩は私の方から踏み出して、彼の手を掴みました。
すると……想定はしていましたが、おそらくロックさんの意思とは関係なく、彼の手から細かな刃が生成されて私の手の平に傷を刻み、何かが入り込んでくるような感覚が連続します。
「マスター!」
「くっ……血を交換して、刃の血液を補給しながら、感染拡大ですか……ええ、いいでしょう。しっかり吸って、その血を全身に届けなさい」
私の方の血管も右手から黒くなり始めていますが……これでいい。
それだけ、ロックさんの中にも『私の血液』が行き渡ったということなのですから。
霊能系の魔法の起点は『私の体内』。
であれば……今や、ロックさんの身体、その刃の先までその全てが発動範囲内。
そういうことにしてしまいましょう……できると信じられるのなら、魔法に不可能はないのですから。
「【万物鑑定】。そして……【点火】!」
以前は『鑑定鏡』の補助によって発動していた【万物鑑定】ですが、何度も使っている内に知らぬ間に『鑑定鏡』が壊れていたらしく、いつの間にか補助なしで発動できるようになっていました。
さながら、補助輪を外して自転車の練習をしていて他人に押されていると安心してペダルを踏んでいたのに気付かぬうちに手を離されていて一人で自転車を運転できるようになっていたというように。
あとは、手を握ったまま、腕を『石化』して固定した状態での幻炎発火。
幻炎の発生源は血管に浸透した私の血液。
【万物鑑定】によってその存在をハッキリと認識し、自身の一部として認識すれば魔法の発動には問題ありません。
今回は他の感染者の方とは違って、自我を残しているために思念のクッションが万全には働かないであろうロックさんが耐えられるように、わけもわからないような一瞬の間に、全身を一気に熱処理。
血液自体に神経はありませんし、皮膚の上から全身を炙るよりマシでしょう。
さすがに全くの無痛とは行きませんが、私も手を切られても耐えているのです。
これで痛み分けです。
「ウ、グァ、ぁぁああ!」
粉雪のように噴出する大量のゼット粒子。
赤黒の刃も一瞬凍り付いたように見え、その次の瞬間には末端から崩壊していきました。
最後に残るのは、刃を生成するために内側から裂けたであろう傷をいくつも残しながらも、おそらく命に別状はないと思われるロックさんのみ。
ショックで気絶はしていますが、すぐに止血しておけば大丈夫でしょう。
「私は嘘が嫌いです。もちろん、騙し討ちのために仲直りを提案したというわけでもありません。ですから、聞こえていないかもしれませんが本心からの言葉なので言わせてください」
私に寄りかかりながら、私の手の石化は解けているのに、変わらず固く握られた右手。
一方通行ではなく、しっかりとお互いの力で。
「私も、あなたのような人が少し羨ましいのですよ。一度折れてしまって、諦めてしまって、それから立ち直るなんて。ただ諦めが悪い私よりも、ずっとすごいことをしていると思いますよ」
私の方こそ、どうやったらそうできるのか、教えて欲しいくらいです。また今度で構いませんがね。




