第45話 社会見学➁
side グラード・ローリー
「私がテーレさんに指定したチェックポイントは全部で八箇所です。もちろん、その範囲はこの街の中。テーレさん同伴ならまず間違いなく危険などない場所から社会見学にふさわしい場所を選んでおきました。もちろん、私はそれを口にするつもりはありませんが、そうですね、世間話でもしている内にポロリとその場所が話題に出て顔色を変えてしまうこともあるかもしれませんね。私はまだ外出許可を承諾してくださるのを諦めていませんし」
ふざけた男だ。
既に警備兵に囲まれ、私が命じればいつでも八つ裂きにできる状況にありながら、平然と椅子に腰掛けて愉快犯じみたことを宣ってきた。
「正直なことを言えば、以前お話になられた『研究施設』についての詳細もかなり気になるところですし、もしも有益な情報をお聞かせ願えれば八つもあるチェックポイントの内の一つや二つ、こちらもお礼としてお答えしなければいけないかもしれませんねえ」
人質を取り、圧倒的に有利な状況での提案。
こちらは少しでも情報を手に入れるために従うしかない……とでも、思っているだろうな。
貴族を甘く見おって。
「よかろう、私が娘を確保したらどうなるか、わかってるんだろうな貴様」
「さあ、それはその時のお楽しみと言うことで」
兵士に指で合図を送り、ある指示を出す。
貴族を舐めたことを後悔させてやる。
「さあ、ではお互いに顔色を見ながら情報を天秤にかけて、ちょっとしたゲームを始めましょうか」
side カーリー・ローリー
『お嬢様。テーレさんという女性があなたを手引きし、外の世界を見せてくださる予定です。彼女の実力は信頼できるので、お嬢様にお怪我などはないでしょうが、精神的なショックについては保証しかねます。お嬢様の世界観が、そして価値観が変わってしまうかもしれません……というより、変わってしまうでしょう。しかし、後悔なさらずにとは言いませんが、認識を拒絶なさらぬよう。最終的に決を下すのはあなたかもしれないので』
先生の言葉は、その時にはよくわからなかった。
ただ、とても驚くようなものがあるから、しっかりと見なさいということだということだけはわかった。
そして、本当に外に出てからは、驚くようなものがいっぱいあった。初めて、あんなたくさんの人を見て、お買い物をして、屋敷の中では見たことない物を触った。
楽しかった。
先生の言ってたものは、こういう楽しくて面白くて、綺麗なものが外にたくさんあるってことだと思ってた。
だけど……
「テーレ……本当に、ここの人みんな、『低層民』なの?」
石造りの背の高い建物が集まった区画。
外からは見えなかったものが、建物の屋上からだとはっきり見えた。すぐ近くにあったのに全く知らない世界がそこにあった。
泣いていた。痩せた子供たちが、動かなくなった子供を囲んで泣いていた。
怒っていた。傷だらけの大人が食べ物を取り合って争っていた。
苦しんでいた。道端に座り込んで、呻くばかりの人々が、誰にも助けてもらえずに虚ろに声を漏らしていた。
「『貧困者隔離区画』……非公式だけど、この街の暗黙の了解として区切られた、街の中でも一番貧しい所。ここの人たちは物乞いすらできなくて、運び込まれる街の生活ゴミをほぼ唯一の生活物資として生きているわ。いえ……生かされてる。犯罪をすればここへ放り込まれることもあるから、見せしめとして治安の維持に利用されてる。高い柵で囲われてて、勝手に外には出られないけど、こうやって高台から一方的に見下ろすことはできる……カーリー?」
ああ……これなんだ。
先生が言っていたのは、本当はこれのことなんだ。
「テーレ……『低層民』って、みんなあんなふうに、泣いたり、怒ったり、苦しんだりする……人間、なの?」
無意識に声が震えていた。
言葉にしてみて、テーレの顔を見て、それがおかしな質問だったと理解した。
でも、私には衝撃的な光景だった。
私は、使用人の人達が低層民の出身だっていうのは知っていた。
だから、私にとっての低層民っていうのは、彼女たちのことだった。
私やお父様に何をされても、何をさせられても、いつも笑顔で受け答えて、絶対に怒ったり泣いたりしない人達。
低層民は私たちと違うから、気遣ったり心配したりしなくていい……彼女たちは不満に思ったり悲しんだりしないから、私たちの役に立つことが幸せだから。見た目は似ていても、根本から違うものだから……そう、言われてきた。
半年くらい前、お父様の気に入っていた壺を落として割ってしまったことがあった。
私は怒られるのが嫌で、近くにいた使用人のせいにした。
彼女は本当に何も悪くなくて、何も知らなかったけど、お父様に怒られるのが怖かったから……低層民はどうせ怖がらないんだからって、やったことを押しつけた。
その日、お父様はすごく怒って……私が罪を押しつけた使用人は、次の日からいなくなっていた。
私はそれを何とも思わなかった。
気にもしなかった。彼女の名前すら知らない、憶えていない。
でも……身に覚えのないことを怒られた彼女は何を思ったんだろう。
私は彼女に、何をしてしまったんだろう。
「テーレ……低層民の人達は、何か悪いことをした人、なんだよね?」
「……一部は確かに、犯罪者が人権や財産を失って低層民に落とされたって人間だけど……そのほとんどは、元奴隷。犯罪者の子供で戸籍がなかったり、売られたり、捨てられたり、戦乱の時代には負けた国が賠償金代わりに地図の上で線を引いてその中にいた国民を差し出したり……人間世界では奴隷の子供が奴隷なのは当然みたいに言うこともあるけど、私の立場としては……生前の行いに善悪こそあれ、魂そのものに貴賎はないわ。親がどんな大悪党だろうと、それはその人間の罪。生前で清算できなければ死後に清算するだけのこと。子供の業と親の業を一緒にして見てるのは人間だけ」
テーレの言葉は、なんだかまるで、本当に死後の世界を見てきたような確信を持った感じだった。
それはきっと、本当のことだからなんだろう。私に言うための言葉じゃなくて、テーレ自身がそうだと思ってるから、感情が強く乗ったのだろう。
「じゃあなんで……低層民の人達は、あんなに苦しそうなの?」
「三十年くらい前……中央政府は急激に改革を進めて奴隷解放を指示した。技術革新で増大した生産力は労働力としての奴隷の意義を薄めて、人権保護を題目として人間の売買を違法にした。奴隷解放で損害を受ける奴隷所有者には多額の補償金を出すっていう力業でなんとか納得させた……でも、補償金を手に入れるのは所有者の側であって奴隷の方じゃない。技術革新で効率化した産業技術は言い換えればそのまま人間の単純労働の必要性を減少させて、職を奪った。急激な改革で居住地や生活保障も間に合わずに、実質的には飼い主を失って放り出されただけになった元奴隷がたくさんいた……彼らはいつしか、『低層民』と呼ばれるようになった」
難しい言葉が多い。
けど、本当に言いたいことはわかる。テーレが言ってるのは、『低層民』っていうのは、ただの難しい言葉の一つだっていうこと。私が知ってたのに、知らなかったこと。
「……この説明じゃ難しいかしらね。簡単に言えば、彼らはみんながお腹いっぱい食べ物をもらうには数が多すぎるから仲間はずれにされた人たち。お腹いっぱいじゃなくたって……みんなが生きるだけなら、ほんの少しずつ分けてあげればいいのに。お腹いっぱい食べたい声の大きい人たちが、声の小さな人たちを指差して『あいつらはお腹減らないから』って言って意地悪したのを、みんなが信じちゃっただけなのよ」
知っている。
知識としては、知っていた……先生に質問されて、私が自分で調べて教えたことだ。
でも、その時は文章の中の『奴隷』も『低層民』も人間のことだと思ってなかった。意味をちゃんと理解してなかった。
「よく見たね。じゃあ、次に行くよ。そろそろ本気でマスターが心配だし」
テーレは急かすようにそう言って、私の肩を軽く叩くけど、衝撃からまだ立ち直れない。
もうちょっと待って……そう言おうと思ったら……
「……予定変更。これはさすがに『非常事態』ってことだよね」
後ろでガチャガチャという足音がした。
それと同時に、テーレが私の脇腹を抱えて持ち上げる。
「こういうことしたらあっちも武力行使に出ることはわかってたけど……リビングアーマー型の警備ゴーレムか。ただ……」
あれは、屋敷にいくつも置いてある鎧の置物の一つ。
金庫の前にいつも置いてある、一番大きな全身鎧。
でも、いつもと違うのはヘルメットの下で赤い一つ目がギラギラと光りながらこっちを睨んで、支えもなく立っていること。
「警備ゴーレムは統括するアイテムから精々数百メートルの範囲でしか動かないし、術者が近くにいるわけでもないのに勝手に動いてる……違法改造品か、警備ゴーレムに見せかけた何かか。どちらにしろ、厄介なものを……お嬢様、絶対に勝手な動きしないで。あっちはお嬢様を極力傷つけないはずだけど、普通の警備ゴーレムならともかく、あれの命令実行精度は保証できない」
「あれは……お父様が?」
「たぶんね。お嬢様が誘拐されたと勘違いして、取り戻しに来たんだと思う」
「ち、ちがうよ! 私は自分で」
「あぶない!」
いきなりすごい加速でお腹が締め付けられて苦しかったけど、そんなことはすぐに忘れた。
気付いたら、テーレと私は空中にいて……さっきまで私たちがいた建物の床は、鎧の踏み抜いた足に大きく割られていた。
「なんなのよあれ! 人質をかっさらうにしてもあんなスピードじゃ普通に潰れて死ぬわ! 絶対に試作品とか失敗作の類じゃん! パワー調節なしでとにかく強くしてみたってやつじゃん! これだから現場を知らない偉い奴は! 新兵器の試運転もせずに実地にいきなり投入するなっての!」
死んでいた。
テーレが咄嗟に屋上から隣の建物の屋根へ跳んでなかったら、あの鎧に……
「お嬢様、泣き喚かないでよ? 今暴れられたら冗談抜きで死ぬから……ま、漏らすくらいは大目に見るわ。呆然とするならそうやって固まってなさい。大丈夫、見捨てたりしないから」
そう言われて、スカートが濡れてしまっていることに気付いた。
私を抱えるテーレの手にも少しかかってしまっているけど、テーレは怒りもせず、じっとあの鎧を見つめている。
「わ、わたし……ご、ごめんなさい……」
「初めて戦場に放り込まれた新兵なんかは覚悟してても大抵漏らすし、ましてや覚悟もない箱入り娘にそんな根性求めないっての。言ったでしょ、大目に見るって。ショック死でもされたらそれこそ困るし、強がって一人で飛び出されても面倒だし。そのくらいの反応が丁度いいわ」
テーレは、動かない鎧を見つめたまま油断せず、腰の帯から短剣を外して手に構えた。
「どうしても何かしたいなら、祈ってくれる? 『女神ディーレ様、私たちに幸運を』って」




