第34話 ジャネット・アーク
side ジャネット・アーク
突然壊れた馬車の車輪を森の中の小屋で修理して、行商の旅を再開してほぼ丸一日。
数年前、一人の行商人として生きることを決意して固めた覚悟は今でも揺るがない。
こうして御者の席に座り馬を歩かせている時にも、もしかしたら次の瞬間にも積み荷や馬を狙った盗賊に頭を射貫かれるかもしれないという思いがある。
もちろん、できる限り安全なルートを選んではいる。けれど心構えの問題だ。
護ってくれる誰かも、野垂れ死にして弔ってくれる誰かもいない。あらゆる地を旅すれば、あらゆる死が待ち受けている。
寒さに飢えに水に獣に人に魔獣。想像しうる限りの危険が頬を掠め、首筋を撫でていく。
それでも、旅をしたいと思った。
だからこうして、何度も死にそうになりながら、時には積荷を泣く泣く見捨てなければならない状況にすらなりながら、今日も私はこうして馬車に乗っている。
でも、そんな私でも、ただ一つ……たった今、どうしても耐えがたいことがある。
それは、数日前の土砂降りで空の雲が全て水滴になって落ちてしまったかと思うような、珍しいほどの晴天。久方振りの熱気と、蒸発した雨水が森の中に滞留されたことで生まれた脅威の湿度。
「ぬ、脱ぎたい……暑い、いや、蒸し暑い!」
常識的な範囲で脱げる服は全部脱いだ。
それでも蒸し暑い。既にちょっと街中を歩けばふしだらな女とか噂されそうな布面積なのに、それでも汗が滝のように溢れてくる。
もう、肌に接している布全てを取り払ってしまいたい。というか、なんで服って必要なんだっけ。
こんな森の中、誰もいないよ?
モンスターや獣に見られても私の心はそこまでの羞恥心を発生させないよ?
むしろ現状の不快感と比較したら大分マシな気がするぞ?
ていうか、盗賊やなんかに見つかったとして、服を着ていようが着ていまいが襲われるの変わらないんじゃない?
捕まったらたぶん脱がされるし、遅いか早いかの違いじゃない?
それどころか着てなければ『なんだあいつ!?』ってなってスルーしてくれるんじゃない?
よし脱ごう。自衛のために……いや、待て待て待て!
蒸し暑すぎて思考がおかしくなってる。商人は信用が何よりの武器。みっともない姿を他人に見られるリスクなんて侵せない。
ここは堪えるべき場面。
次の街へ行けば、きっとすぐに水浴びくらいできるから、それまで……
チャポン
それまで……『チャポン』?
「水音……魚のはねる音……泉!」
魚がいるなら、少なくとも水浴びできる、水浴びしていてもおかしくないくらいの水がある!
水辺なら、それが小川であれ池であれ、裸だろうと何の問題もない!
水のある場所を嗅覚と直感で探り当てて、そちらへと馬車の方向を変えた。
そこには、道を少し逸れないと気付かないものの、軽く泳げる程度のそれなりに大きくて深い泉があった。
水は清潔に澄んでいるけれど、危険となるような大きな生物が棲息しているようには見えない。
馬車を止まらせて急いで馬を樹に繋ぐ。
近くに人の気配はない。
ならばもう脱ぐしかない。
「い、ヤッホォオオ! いっちばんのりぃいい!」
誰と競ってるわけでもないのに、降って沸いたような幸運にテンションが上がって叫びながら服を脱ぎ捨て、思いっきりジャンプ!
「危なっいですってわぉお!?」
「え、誰、ってうわっ!?」
ザボーン!
飛び込もうとして空中に飛び上がった瞬間に上の方から声がして、何が何だかわからないまま何かを避けるとそれは激しく水柱を上げて水面に激突。
驚いて跳び込みをキャンセルして水面を見ると……。
「うわっ、えっ、大丈夫ですか!?」
なんか黒い服を着た人が、水死体のように脱力して浮かんでいた。
てか、え、何この人。誰? 男の人? どこから現れたの? もしかして、さっきの声というか飛んできたのこの人?
というかこれ、水面に激突して気絶してる?
っていうか、服から泡がブクブク出てきて……
「し、沈んでる! ちょ、待って! 主神様、私に加護を!」
そのまま沈みゆく彼を引きずり出すために水に飛び込んだ私がほぼ裸だったことを思い出したのは、謎の男の人を半分以上陸に引き上げた頃だった。
数分後。
「ゴボッ、ゴホッ……申し訳ありません。なんとか制動を試みたのですが、着水直前で集中が乱れてしまいまして」
気絶していたせいか水はほとんど飲んでいなかったみたいで、頬を強く叩いたら目覚めてくれた。
というか、意識が割りと普通にハッキリしてるけど……この人、本当に気絶していたんだろうか。
「何があったかよくわからないけど、気をつけなきゃダメだよ。私がいなかったら溺れてたんだから」
「本当にご厚意を感謝します。着地は困難だと思い着水できる場所を目指したのですが、直前に減速できるという目算が甘かったようでして……」
「直前に減速って……」
……あれ?
私、恩着せがましく言ったけど、もしかして泉に飛び込もうとした私を避けたせいで失敗した?
いや、それ以前にあの声もこの人のものってことは、もしかして私の裸も……
「偶然近くにいたというだけで、お着物の濡れるのも構わず助けてくださるあなたの善意は本当に素晴らしい。きっと幸運の女神の加護があります」
私は今、この人を引き上げてすぐに脱いだ最低限の服は着直している。
確かに身体が濡れてたのもあるし、汗もかいてたから服も濡れてはいるけど、表面は水に飛び込んだにしては乾いているはずだ。
……あっ、もしかして。
「……私の裸、見た?」
「……何分、落下中は不安定だったもので。視界に入ってしまった可能性はないとは言えません。落下の衝撃のせいか着水直前の記憶が曖昧ですが。あと、一番乗りを邪魔してしまい申し訳ありません」
……見たな。
いや、あっちは着水するには下を見ないわけにはいかないし不可抗力か。むしろ、周囲をしっかり警戒せずいきなり服を脱いで子供みたいに飛び込もうとした私が悪いんだけど。
それを気絶していたことにしてなかったことにしようと……変だけど、たぶん悪い人ではないんだろうな。直感だけど。
だけど、悪い人ではなくとも謎の多い人なのは間違いない。
私は商人、厄介ごとならただで関わるわけにはいかない。
「じゃあさっきのことは置いておいて……なんで空から落ちてきたわけ? もしかして天界から脱走でもしてきたの?」
冗談で言ったけど、もしも本当にそうだったら見逃すのはいろいろと困るんだけど。立場的に。
でも、どうやら懸念は外れたらしくて、謎の多い男の人はカラカラと笑いながら事の真相を白状してくれた。
「いえいえ、そんな大層な話ではありませんよ。とても下らない事故なのですが……まあ、テーレさんがこちらへ来るまで時間もありそうなのでお答えしましょうか」
side 狂信者
時は少し遡ります。
私は真新しい馬車の痕跡の残る森の中の一本道を歩きながら、テーレさんに魔法についての知識を御教示いただいていました。
まずは普段から心掛けることで練習になるという、魔力を回復しやすい呼吸法、それにこの世界で一般的に使用される魔法の基準などです。
「ふむ、霊能系の回復魔法は効果が術者の練度次第なので一般人が使えても擦り傷のような軽い傷が治せる程度、重傷なら鎮痛や止血に留まると。そして、才能があって治癒魔法が使えるとしても神殿の免状なしに治療をするのは非推奨と」
「治療費が神殿の収入の中でも重要だというのもあるけど、素人の魔法による治療は危険だからね。魂に触れて肉体を改変するわけだし、害のある改変は本人の体内の魔力に抵抗されるから癌化することは少ないけど、傷痕が一生残るっていうのはよくある。内臓の損傷や病気の治療はもっと危険」
「なるほど、アーリンさんは気軽に治癒魔法を使っていましたが、相当な修練と経験があってこそなのでしょう。魔法といっても何でもできるわけではないと過信しないようにしなければ」
「ま、何でもできると言えば何でもできるって言うのも間違いじゃないけどね。魔法自体に限界がなくてもそれを操る人間に限界があるっていうのと、やろうとすることによってはコストやリスクが発生するってだけで」
「なるほど……ならば、人間が空を飛ぶというのもこの世界では魔法が先なのでしょうね。というか、これまで見なかっただけで既に実現しているのでしょうか。こう、霊能力者が空中浮遊するようなイメージで浮遊してスィーとスライドするような感じで」
冒険者ギルドで受けた講習ではそういった動き方をする霊体のモンスターもいるとのことでしたし、霊能系の魔法でも可能かもしれないと思っていました。
しかし、テーレさんは難しい顔をして……
「難しいね。少なくとも、今のこの世界の人間にとって『魔法で空を飛ぶ』っていうのは移動手段として認識されていないわ。だって『飛んだら落ちる』は常識だから」
と、そう答えました。
確かに言われてみれば当然の摂理ではありますが、何でもありが基本な魔法の話で常識の話が出てくるのは意外でした。
「それは……先入観の話ですか? イメージで制御する魔法は、強い先入観によって不可能と認識していることはできないというような」
「概ね正解。私たちは今、こうして地面に足をついて歩いてるけど、足場がなければ必ず落ちるでしょ? 魔法で浮遊すると完全に足場も支えもない精神的に不安定な状態が持続して、その間ずっと違和感が溜まる。その場で少し浮くってだけならできないことはないけど、とてもそのまま移動する余裕はないし、あっても攻撃されたりしたら落ちて危ないから誰もやらないよ。ま、それは人間に限った話で最初から空中にいてもストレスを感じない種族……それこそ『天使』なんかは普通に飛べるけど」
「足場の問題ですか。それなら板などの上に乗って板ごと飛べば……いや、それもあまり意味がありませんか。霊能系の魔法を適用するなら肉体の延長として認識しますし、結局は板の下に支えがないのに変わりないのですから」
そも、魔法で飛行するということは魔法の制御を一瞬でも誤れば地上へ落下するという危険と紙一重の状況が続くということ。
しかも、空中にあれば落下するという経験則は自然と落下する自身をイメージさせるでしょう。確かに難しそうですね。
飛行する魔法があれば移動時間の短縮のために早めに修得しておこうと思ったのですが。
いや、しかし……単身での飛行そのものは人間にイメージが難しいというのなら……
「ならば、こういうのはどうでしょう。落下する前提で瞬間的な推進力を得るイメージを繰り返して……こう、足の裏で爆発するような感じで」
「画期的なアイデアのつもりかもしれないけど、そのくらいの発想はこの世界にもあるよ。魔術系の魔法で爆発や放射の反作用で推進力を得る飛行機みたいな乗り物の原型も研究もされてるし……ってマスター、丸太なんて担いでなにやってんの? 敵でもいた?」
「いえ、霊能系は基本的に魔法が体内で発動するので放射や爆発は危険ですが、『軽量化』のイメージを入念に重ねた上で自身の脚力で跳び上がれば実質的に飛行に近いことができそうな気がしたので。こうして重荷を担いで慣れたタイミングで捨てれば『身体が軽くなる』という感覚は簡単に掴めるはずですし」
「ああなるほど、確かに俊敏性を上げるために軽量化の魔法を使うことはあるし戦闘にも役立つね。だけどそれで空を飛ぼうって人は……って、ちょっと待って! ストップ!」
「はい? わかりました、どっこいしょっと」
私は何事かと丸太を地面に下ろし、立ち上がろうとしました。
しかし……
「おおっと!?」
ポーンと、イメージ通りに『軽くなった』らしき私の身体が、蹴り飛ばされた風船のように立ち上がった勢いのまま空中に投げだされたのです。
「ああ、なるほど。そういえば慣れない魔法は暴発しやすいから気を付けるように言われていましたね。失念していました」
いやあ、楽をしようとするとこれです。
旅路はやはり己の足に限りますねえ。
side ジャネット・アーク
「つまり、軽量化の魔法が暴発してうっかり大ジャンプしちゃって、上から水場を見つけたから緩衝材に使おうとしたと」
ムチャクチャな話だけど、嘘ではないように思える。
というか、恥ずかし気もなく言ってるけど、割りと恥ずかしい話を簡単に明かしてくれたのは、暗に私のほぼ生まれたままの姿を見てしまったことへの謝罪も兼ねているのだろうか。
「神官系の人には確かに軽量化の魔法を使う人が多いけど、そんな事故は聞いたことないよ。みんな、恥ずかしくて黙ってるだけかもしれないけど」
いや、そもそも重荷を下ろして『身体が軽くなる』ってイメージがしやすくなるのはわかるけど、それだけで風船みたいに軽く……つまり、体重がほとんどない所まで軽量化できるものなの?
もしかして、この人って自覚してないだけで……
「魔法を解けば急落してケガをするのは想像できたので、なんとか魔法を維持しつつ風を受けて移動していたのですが、着地地点を意識し始めると蓄積された位置エネルギーが一気に運動エネルギーに還元されてしまいまして」
要するに、安全に降りられそうな場所が見えた瞬間に気が抜けて落下したと。
あのスピードから考えるとかなりの高さまで上がってたはずだし、少しずつ軽量化を解けば軟着陸できたと思うけど、そこまでの余裕はなかったんだろうな。
だけど、そうなると一緒にいたテーレって人は心配してるはずだ。もしかすると旅の仲間が墜落死してるかもしれないんだから。
「すぐにそのテーレさんの所に戻らないとね。ここから風に乗って移動したなら、跳び上がったのは風上だよね。道なりに歩いてたなら、大体の場所は見当がつくし、私の馬車に乗せていってあげようか?」
「良いのですか? こういってはなんですが、今の私より怪しい人物はなかなかいないと思いますよ」
自覚はあったのか。
まあでも、私の直感はこの人を危険だとは言ってないし、ずぶ濡れだけどよく見ればかなりいい素材の服……冒険者向きの強度の高い服だ。まず間違いなくそれなりのお金を持ってるし、歩き旅なら途中で行商と出会って物資を補給できる機会は貴重だ。つまりはいいお客様になる。
それに……この人からはなんだか、特別なものを感じる。
もしかしたら、私と同じような人かもしれない。
だとすれば、この出会いをここで終わりにするのは勿体ない。
「商人たるもの、顔と恩は売れるときに売れって言うからね。乗車賃代わりに何か売り買いしてもらえたらもっといいけど」
「打算を隠さないままに親切なお気遣いをありがとうございます。では……いえ、やはりやめておきますか。いえ、お礼の売買はさせていただきますが、馬車に乗せていただかなくてもよくなりました。テーレさんの脚力と持久力はなかなかのものだったようです」
「え?」
この人の目線は、私の背後の遠くを見ている。
そこにもう来ている? 空を飛んで来た人間を、障害物のある森の中を走って追いかけた?
「おっと、テーレさん。勘違いをなさらぬように。私は決してこの方に迷惑をかけていたわけではなくて迷惑をかけてしまったことの謝罪とお礼を済ませていたところで……」
目の前の彼がそう言った瞬間、一陣の風が私の横を通り過ぎたと思うと、目の前にはさっきまでそこにいなかったはずの少女にヘッドロックをかけられた彼の姿があった。
「テーレさん関節技のかけ方がますますスムーズになってきましたね痛いです心配をおかけしたのは謝りますから人前ではそこら辺に痛いです。拘束技の解禁でこうなるのは想定していましたがほどほどに痛いです」
「悪目立ちするなって言ってるでしょうが! マスターがアレだって知れたら面倒になるから隠すって前話したし! ボロが出るから一人の時はできるだけ会話しないでって!」
「ボロが出ないように気を付けて痛いですいるつもりですが、助けていただいて状況説明しないわけにもいかな痛いですし大目に見てほしく思痛いです」
首がすごくきまってる。
というか、すごく苦しそうなのに口調は流暢だし抵抗もしないのは逆にすごい。
いや、そんなことより……『この人』は……まさか……
「あっ、この反応は……ほら! やっぱりバレてるっぽいんだけど!」
「痛いですテーレさんやめてくださ痛いです。というか、本当にボロなんて出した覚えは……」
「じゃあなんでこんな超常的な存在を見たような顔してるんかこの人は!」
「むしろ、彼女は私ではなく……」
我慢できずに、『彼女』の手をぎゅっと握った。
ちょっと触っただけではただの人間と区別のつかない手。でも、私にははっきりと確信が持てた。
「天使様! あなたは天使様ですよね! どうしてそんなお姿でこの世界に?」
さっそくアホな失敗をやらかして奇縁を引き当てるまともじゃない方の主人公。
ちなみに前回の事件から同じことが起きたときの対策としてテーレには命令で『命令者への拘束系攻撃』を解禁しています(マスターの偽者がいても口を塞げるように)。
前は行動を完全に封じるような固め方はできなかったのと『動かなければ痛くない』状態までしかできなかったのが今では関節を痛めたりしない程度までなら締め上げることができます。
これでコントがより円滑に……




