第189話 尾行ごっこ
密着、一流貴族の華麗なる一日。
side 狂信者
クロヌス領大領主、ライエル・フォン・クロヌスの朝はとても早く始まります。
寝所は城の上階に存在する彼の私室。
華美な宝飾品や芸術品などは見られず、本棚や衣装棚、観賞用兼毒味用だという小魚の泳ぐ水槽。記録用のマジックアイテムから情報を出力するための装置類一式に、装飾品に見せかけられた武具一式がよく手入れされて備え付けられた壁。寝具も快適そうではありますが無駄な大きさはなく、灯りも天窓と数カ所のランプだけといった様子です。
そんな部屋で彼が起きるのは決まって日の出頃、厩舎の雄鶏の鳴き声に合わせて目を覚まし、のっそりと羽毛布団を剥いで身を起こします。
「うぬ……寒いな。雪が降り始めているのだったか」
まだ少々瞼が重いという様子のライエルさん。
彼は慣れた様子で枕元のボトルから、隣に置いてある銀のグラス(異物や毒物が入っていれば反応するというマジックアイテムらしいです)に緑色の液体を注ぎ、安全を確認して一息に飲み干します。
ちなみに、調べによると緑色の液体の正体は数種類の植物を粗く挽き潰して煎じたという、この地方で伝統的な『薬草茶』という……日本で言うところの青汁に近いものです。テーレさんによればあまり美味しいとは言えないものだそうですが、ライエルさんはその独特な匂いと味わいでスイッチを入れたようにカッと目を見開きます。
そして、寝巻きとして身に付けていたガウンを脱ぎ捨てつつ軽く肩や首を回し、ベッド脇の鏡台で自分の顔色や寝癖を確認。
さらに、鏡台の前の壁に吊り下げられたコルクボードに貼られた『今日の予定』に目を移し、十秒ほどかけてそれを確認。
そうして、意識を覚醒させ終わったライエルさんは、衣装棚を開いて数種類ある衣服の内、最も簡素で動きやすそうなものから今日着るものを一つ選び出しまします。
「さあ、行くか」
ライエルさんの起床後、朝食までの二時間ほどは鍛練の時間です。
対外的に着るものと雰囲気の違う緩めの服を着た彼は、私室の近くにある使用人の当番部屋に起床の旨を告げ、朝食をリクエスト。その後、城の一階にある大領主の近衛兵(ボディーガード兼警備隊)訓練区画に移動し、手慣れた様子で見張りに通行証を提示。この時間から鍛練を始めている数少ない兵の方々に軽く朝の挨拶をしつつ、準備運動の後に本格的な運転に入ります。
まずは、転生者の知識から再現したというランニングマシンを用いた有酸素運動を軽く汗をかくまで。その速度設定は他の利用者、つまり専業の兵士である近衛兵の方々に劣りません。
さらに、ランニングマシンの次は重量挙げやサンドバッグ、何かの拳法の型らしき動きや長さ二十メートルほどのプールを用いた水練など、無酸素運動を中心とした運動を適度に水分補給を心掛けながら一時間ほど。種類が多いためか結構なハイペースです。
そうしている間に近衛兵の方々が集合。
上司であるライエルさんより遅かったからと叱責を受けることはなく、むしろライエルさんに驚きのない常習化した尊敬と親しみの眼差しを向けます。
そして、十分に汗をかいてそろそろ休憩かと思いきや、ライエルさんはそこから訓練用の防具を身に付け、集まった兵の方々と徒手格闘や模擬戦、さらに魔法を交えた中距離戦などの対人戦訓練を『多対一』で展開。それらは相手を倒すというよりも被弾や致命傷を避けるための訓練らしく、ライエルさんに攻撃(塗料の出る柔らかい武器や矢弾)を当てた方は不敬を指摘されるどころか『賞品』らしき果物が渡されるという当てる側も本気になる仕様です。
しかし、それでもいくつかの塗料を受けながらも致命に繋がる部分は護りきったライエルさんは鐘の音を聞き、汗と塗料をシャワーで洗い流した後の水気を布で拭きながら、近衛兵の皆さんに『次は逃げきってやる』という旨の軽口を飛ばしつつ、訓練区画を出て食堂に移動。
食堂では寝起きにリクエストしたサンドイッチを片手に、秘書のリィエルさんから本日の予定の細部について説明を受けつつ、領地管理のための報告書に目を通し、ライエルさん本人を必要としない仕事の割り振りを指示。また、転生者チームの様子について質問し、城下の探索に行くというリィエルさんの返答に顔を訝しげな表情を見せます。
「あいつら、そんなに仲がよかったか? というか、大丈夫なのかそれは」
「道に迷わないかという質問でしたら見回りの衛兵には特徴を説明してありますので問題ありません。問題を起こすのではないかという質問でしたら……城内であろうと城外であろうとあまり変わりはありませんので。むしろ、一部の者から『爆弾を抱え込まず隔離すべきだ』という声が上がっているくらいで」
「ふん、どうせ税務だろう。いざ目の前に立たれれば笑顔を作るが実のところ自分の権限が役に立たない相手を心底恐れている。違うか?」
「はい、税務官のゼーム様は彼らが外で生活したいといったら……気に入った家でも見つけたらそこで暮らさせる許可を用意するべきだと」
「却下だ。これから先、本格的に臨戦状態に入る。その時、転生者チームは転生者相手の防衛力になる。税務のやつにはそんなに怖ければお前が離れて暮らせと言ってやれ」
「かしこまりました。そのままお伝えします」
「ああ、それとさっきの予定だが、前に確認したものと変わったか? 今日は修復された国道の視察があったはずだが」
「はい、その予定は変更しました。雪が降り始めましたから、冷え込み始めたばかりの時期に視察で病気になられても困りますので。今日は室内で仕事をしてください」
「俺はガキか? この程度で病気になんてならんぞ?」
「失礼ながら、あれはあなたが四歳の時、大雪ではしゃぎすぎて……」
「あーあー、わかった。そんな昔の話とかやめろよこの野郎」
「野郎ではありません、淑女ですよ。誰かさんの世話ばかりしているせいで」
「チッ、性格がキツくてモテないのを仕事のせいにすんな」
「なにか?」
「何でもねえよ」
ちなみに秘書のリィエルさん、昔はライエルさんの教育係のようなことをしていたそうです。彼が大領主となり彼女は秘書となりましたが、未だにどうしても勝てない相手である様子。
本気で解雇しようとすればできますし、彼女の忠言は間違ったことを言っているわけではないのですから、これはある意味では信頼の証なのでしょう。
ライエルさんが朝食を終え、次のタスクに向かおうとすると、リィエルさんは彼を呼び止めます。
「そういえば……予定表には書いていませんでしたが、今日が何の日かは憶えておられますか?」
その問いに対して、ライエルさんは振り返ろうとはせず、一瞬だけ動きを止めてから、何でもないような口調で返します。
「記念日とかじゃないのは憶えてる、それでいいだろ」
食事の後は公務のお時間。
大領主とは、各地からの税を集め、中央政府への支払いと公共設備や軍の経費、それらのために作られた申請書や嘆願書の処理といったお仕事が山のようにあります。特に承認印に関しては他の人間に任せられないことも多々。臣下のチェックを通過したものでも素早く目を通して不備や不正な流れがないかを確認しながら判を押していきます。
さらに、それが終わればまたも他の人間には任せられない仕事、『研究施設』に関係すると思われる情報の判断と、私たち対抗戦力についての書類や今後の計画のために書斎に入り、昼食代わりのパンを片手に過去のデータから多くのパターンを想定した対応策を考え、そのための準備として必要な資材や根回しをリストアップしていきます。
今の所、『研究施設』は学院に中心を置くとされる秘密結社。
この学院とは略称であり、その実体は中央政府のお膝元たるガロム地方に置かれた研究機関と教育機関が合併した中央政府公認の学園都市。
必然、そこに子供がいるか現当主が卒業生であるというパターンが多い貴族コミュニティとの繋がりが深いと考えられ、政治的な意味合いで中央貴族が下手に突けば戦争の火種になるという事情から、本来は中央政府が対処すべき国家規模の重大な事案についての対策を託されたのがクロヌス領の大領主ライエル様。
地球で言うのなら、本来はCIAや公安警察などが対処すべき巨大犯罪組織がその調査機関にスパイを置いている可能性が極めて高いために地方の県警察が捜査の全権を任せられたというようなもの。
資金的物質的権限的な支援があるとしても、巨大犯罪組織に対抗するためのノウハウも足りていないのですから、ライエルさんにかかる不安は想像してあまりあります。
そして、同時に彼はこれを機に大きなものを得ようとしている。そのために、絶対に失敗できないものと思っている。
私たちにリスク承知で日暮さんと荒野さんを勧誘させたのもそのためです。確実に勝つための戦力を欲したがため。
ライエルさんは、現状はっきりとしている『偽金製造』と『低層民の人身売買』という二つの罪状から、それらと関わっていると思われる学院に強制捜査をかけ、『研究施設』の行っている非人道的手法を経た発明品や危険兵器などを押さえるつもりです。
現在はそのための証拠固めと取り押さえのための戦力が用意されている段階。しかし、貴族コミュニティに食い込んでいる『研究施設』がやろうと思えば先にこちらが潰される危険がある。あるいはいざ学院にガサ入れして証拠を見つけても転生者の力で返り討ちにされ、逃げられる可能性もある。
だからこそ、私たちを必要としている。一騎当千の転生者を相手にして勝てるかもしれない私たちを。
ライエルさんは何度も頭を抱えます。
私たちを戦力として数えていいものか、私たちに何ができるか……命令をしたとき、それに従ってくれるのか、わからないわけですから。確実なことは敵の転生者が巨大だということだけです。これまで、その『非人道的な悪の研究所』を倒してしまおうとしたフリーの転生者が何人も返り討ちにされている。決して油断なんてできない相手……本当ならば、味方の戦力を正確に把握した上で最大限の活躍をしてほしいというところでしょう。
「あいつらめ……能力は超一流だというのに、どうしてああも強情なのだ……唯一話を聞くやつらも軍に向かんし……」
ちゃんと協力関係を築ければ、日暮さんは攻防に優れた移動要塞のような役割ができますし、荒野さんの結界は軍との併用でこそ効力を最大限に発揮できるタイプの能力。
しかし、綿密な作戦を立てたいその二人こそが権力に従うことをよしとしていないというのが悩みの種でしょう。
「そんなに貴族が嫌いか。ああ、わかる……だがなあ、公私は切り替えてくれよ……あと、『ヒノキの棒で特攻』とはなんなのだどんな暴君だというかお前は素手で十分強いだろうが!」
グチグチと呟きながら交友計画らしきものを書いていますね。
珍しいお菓子の注文や、観光名所の案内、かわいいペットなど、金銭や地位を求めない日暮さんを懐柔するための方法を思索しながら、どれも財力をひけらかす形で反感を与えてしまうのではと悩んで保留に。
そうしたことをしばらく続けると、やはり案がまとまらなかったのか、別の計画書に目を移します。
そちらは難民の生活向上のための支援計画、各街への移住や彼らにできる仕事のプランなど、大規模な事業が必要とされるもののようですね。
「そもそも役人嫌いだからと俺を嫌われてもどうにもならんぞ! 好きでなったわけではないぞ俺は! それにこの忙しい時に仕事を一気に増やしおって……役人しかどうにもできんという問題もあるだろうが……」
裏では不満たらたらですが、そもそも力は相手が圧倒的な上に、交渉できるしがらみのようなものがほとんどない。難民の方々に関しては逆にライエルさんが有利過ぎて露骨に盾に取ると人質を取った形になってしまい却って暴発の危険が高まるから、敢えて『彼らの状況を改善できる』という形で利益の提示を考えているようですね。
あちらはあちらで、交友のために心を砕いているようですねえ。
「とまあ、とりあえずはここまで大領主様の日常を見てきたわけですが……どうですか日暮さん、荒野さん。彼の『貴族』というイメージは変わりましたか?」
荒野さんの張っている結界の中、共にライエルさんの仕事風景を見学している二人に問いかけてみます。
朝早くから午後のお仕事までここまで、ずっと一緒です。
荒野さんの結界は、内部の人間の『総意』が多く統一されているほど、そして範囲が狭いほど強力で厳密なルールを強制することができます。そして、それは内部に影響を与えるだけでなく、応用的に外部に対しても影響を与えることができるのです。
たとえばこのように、『結界の内側の情報が流出しないルール』を設定することによって『知覚されない空間』を作って隠れることもできるわけです。
『永遠の停戦地』では結界面を完全な黒面にして情報遮断を行ってしましたが、やろうと思えばもっと自然に、そこに結界があることも気付かれないような形で隠密行動を行うことも可能なのです。まあ、この運用法に関しては隠すべき人間が増えれば隠匿の負担も増えるのでどうしても完璧な隠密行動はできないそうですが。
今回は私とテーレさん、それに日暮さんと荒野さんという四人分(厳密には人数が増える程に荒野さんの影響力が増えるそうなので四人分以上)の『総意』を元に出力されている『ルール』です。それぞれの元の隠密性は低くはありませんが隠匿の出力は限られていますし、さすがにこの距離です。相手がテーレさん並みの感知能力を持っていれば見破られる可能性はあります。
まあその時には誠心誠意謝りましょう。今まで何度かばれそうになって焦りましたが、テーレさんが何かしてくれたらしく毎回近くで別の物音が起きたりしてばれずに済んでいますし……
「なんかこう……もっといいもの食べて、遊んでると思ってた。ずっと忙しそうだね……」
「…………ふん、偉そうなのは嫌いじゃ。それは変わらねぇよ」
他人に見せるために作った態度ではなく、身内の前や一人の時だけに見せるその姿はかなり予想外だったようです。彼は威厳を保つためか私たちの前ではいつも気を張っている感じもありましたからねえ。
お二人には、私の『ライエルさんが悪い貴族かどうか疑わしいのなら直接確かめてみよう』という今回の企画にちょっと強引に参加してもらいましたが(まず日暮さんを説得し、その後『能力が必要だから』と一緒に荒野さんに頼みました)、その意外な日常に驚きを隠せないようですね。
「テーレさんはどうですか? イメージ通りでしたか?」
「……はいはい、私の負けよ。てかなにあれ、めっちゃ健康的だし。もうこれ貴族っていうか敏腕実業家の一日とかそういうやつでしょ。ていうかこの城、客人スペース以外に異様に飾り気ないわね。そこまで財政厳しくないはずだけど」
「ライエルさんの部屋もあれでしたし、彼が芸術品とかをあまり好まないのかもしれませんね……いえ、むしろ貴族らしい生活というもの自体をどこか忌避しているのかもしれませんね。食事ももっと豪勢なものが食べたければいくらでも用意できるでしょうし」
「そんなこと、あるの? 貴族の人が『貴族嫌い』なんて」
「日暮さん、人の心にはいろいろあるのですよ。『人間嫌い』な人間もいるでしょう。『なりたくてなれるもの』ではないものだとしても、『なりたくなくてもなってしまうもの』であったらそういうことは十分あり得ますよ。特に彼の場合は……」
「しっ、動くみたいよ。次の仕事にかしら……あれ、本棚?」
ライエルさんが書いた書類をまとめ上げ、疲れたように深く嘆息し、本棚に向かいます。
そして、そこの本の一冊に指をかけ、引っ張り出すように見えた直後……本が抜けることはなく、ゲームの仕掛けのように重音を立てて本棚がスライドし、引き戸のように通路が開きます。
「す、すごい! ねえねえ見て狂信者さん、あの仕掛け! 初めて見た!」
「日暮さん、静粛に。声を抑えてください、騒ぐと見つかりやすくなります」
「あ、ごめん……あ、でも気付かなかったみたい。入っていくよ」
「閉めていかないところを見ると、時間が経つと自動で扉が閉まるタイプの仕掛けのようですね。開いている内に私たちも入りましょう。結界は大丈夫ですね、荒野さん……荒野さん?」
「…………そうじゃの、隠し部屋でなんか悪いことしとるかもしれん。そう言いたいんじゃろ?」
「どうでしょうねえ。秘密基地は男のロマンですよ、ちょっと息抜きをしたいだけかもしれませんよ?」
「……わかったでよ、おら行くで。離れんじゃねぇよ」
日暮さんも口を固く閉じて、一緒に動きます。
荒野さんの結界は大きくすると効力が落ちるので、電車ごっこ並みの密着でないと隠密行動が難しいのですよね。もっと人数がいれば違うのでしょうが、少々動きにくくなっていますね。電車ごっこ並み、というか実際ロープの輪で離れないようにしているので移動時はまんま電車ごっこの状態ですが。
今朝からほぼずっとこの状態でライエルさんの動きを追っているので、大分息が合って来ましたね。最初は慣れないいかつい風貌をして言葉遣いも少々荒っぽい荒野さんに対して恐縮気味だった日暮さんも慣れて来たのか、彼を怖がらなくなってきていますし。やはり、ライエルさんが仕事をしている間の暇な時間、ヒソヒソ話で会話ができたのは交友を深めるのに悪くなかったようです。
さて、それはともかくライエルさんの追跡です。
書斎に造られた秘密の通路、灰色の壁に囲まれた少々寒々しい雰囲気のある通路を抜け、その奥にある石の扉にライエルさんの懐から取り出されたブローチか何かがかざされると、ガチャリと開錠音が鳴ります。
そして、ライエルさんがその扉を横に引いて開けると、その奥には……
そこには、光り輝く秘密の財宝が展示されているということはありませんでした。
そこには、非道な拷問を行うための鉄臭さや、人間を長く閉じ込めた牢獄のような悪臭はありませんでした。
そこには、大領主としての権力で色欲を満たすために使用人を押し倒すためのベッドなどはありませんでした。
そこには……女性が一人と、木目の荒いテーブルが一つ、椅子が二脚に、お酒とグラスの収まったこじんまりとした棚が一つ。そして……棚の上に軽く飾られた小さな箱と、その上に写真立てのような小さな額縁に収め置かれた女性の肖像画、その隣に置かれた花瓶に生けられた真新しい花。
待っていた女性は、口許に傾けていたグラスから唇を離し、入室したライエルさんに目線を向けます。
「あら、ああは言っていたけどやっぱり今年も来たのね。もっといつも来ればいいのに」
その女性は……秘書のリィエルさんです。
彼女は、普段のライエルさんに仕えている時とは違う口調、違う表情でライエルさんに語りかけます。
それに対して、ライエルさんは……
「来なければ後で何を言われるかわからんからな。息抜きのついでだ……俺にも一杯くれ、リィエル」
「……嫌よ、ここではそんな呼び方しないでって言ったでしょ。やり直し」
「……姉さん、注いでくれ」
「はいはい、去年と同じでいいわね」
これもまた、朝とは少しだけ違った表情で、彼女に呼びかけつつ椅子に腰を下ろします。
リィエルさんに向かい合う形で、女性の肖像画は二人の様子を見守るように置かれています。
「え、姉さん!? どういうこと、リィエルさんとあの人って……」
「…………」
「教育係にしては随分と歳が近いと思ってたけど、そういうことね……まあ、少し大きい姉なら弟を教育するのもよくあることね」
「となると、あの肖像画は……」
ちなみに狭い部屋で内側に入るのは危険だったので、私たちは引き戸になっている扉の隙間から内側を覗いている状態です。荒野さんが結界を使って引き戸が閉じているように見せてくれています。あちらからはわからないはずですが、今の私たちはトーテムポールのような状態です。下から日暮さん、テーレさん、私、荒野さんです。背の順ですね。
私たちに気付かないまま、ライエルさんは注がれたグラスを傾けつつ、しみじみと肖像画を見遣ります。
ラベルを見るに、それほど高級酒とも言えないような安いお酒ですが、それに不満を持つ様子もなく、ただただ感じ入るように。
そして、最初に発された言葉は……
「最悪な母親だったよな、あいつ……生きてたら絶対に金使い込んで豪遊してた」
「はは、そうね。いっつもこれと同じの飲んで、『いつか一番高いの飽きるまで飲んでやる』って……あんまり、いい母親じゃなかったわよね」
リィエルさんがグラスを傾けると中身が空になったので、ライエルさんが何も言わずにトクトクとお酒を注ぎます。
リィエルさんもその様子に疑問を持たず、むしろその様子を微笑ましく見つめています。
そして、次に視線を向けた肖像画は……角度的にこちらからはよく見えませんが、おそらくは……
「なあ……話したことあったかな。あの頃、実は毎日いつか絶対逃げ出してやるって、ずっと思ってたんだ。こんな自分勝手な女の成り上がりのために、よりにもよって貴族になるとかありえねえって……なんで俺、こんなことやってんだろうなあ」
「毎年、聞いてるわよ。毎年、毎年……なんだかんだ言って、毎年ここに来てるじゃない。来なくたって私が何か言った年なんてないでしょ」
「姉さんが暇さえあればここに来てるからそう思うだけだろ。俺は忙しいんだ、来られない時ぐらいあるよ」
「暇さえあれば、なんてほどじゃないわ。私は時々花を替えに来てるだけよ。ちょっと休憩のついでにね」
今度は、ライエルさんのグラスが空になったのを見て、何も言わずお酒を注ぐリィエルさん。
その雰囲気は、例えるのならそうですね……年に一回、里帰りの時だけ仏壇に手を合わせる弟と、実家暮らしの姉、ですかね。
荒野さんと日暮さんも、見つからないためというよりかはそのしんみりした空気を壊せないというように、その様子を黙って見守っています。
リィエルさんは、ライエルさんの疲れ顔を見て微笑みます。
「いろいろと、詰まってるみたいね。やっぱり『研究施設』……いえ、彼らのこと?」
「……別に。戦力としては動くんだ、困ってねえよ」
「あらそう? まあ、しょうがないかもね……聞いてた『転生者』って人たちと全然違うもんね、彼ら。お金をもらうのを本気で嫌がったり、家がいらなかったり、未来の子供たちのために戦うって言ってくれたり」
「……ったくよぉ。もっと馬鹿で外道なやつが転生しろよ……あんな戦争とか向かないやつらに頼らなきゃいけないとか、マジでやめろってんだよ……適材適所ってのがあんだろうが」
「ふふっ、散々貴族になんか向かないって言ってきたあなたが、戦争向きじゃない彼らを従えて戦うってすごい皮肉よね。それでいて、どっちも誰よりその仕事ができちゃうっていうんだから」
「うっせえ……あんたもさっさと嫁にでも行ってしまえ。行き遅れても知らんぞ」
「そうねえ……日焼けの彼とか、誘ったら相手してくれるかしら。そしたら『弟』のために頑張ってくれたりするかしらねえ?」
「おいマジでやめろ。俺がなんとかすんだから余計なことするなっての」
「なんとかするって、どうするつもりなのかしら。随分と嫌われてるみたいじゃない?」
「うっせ、いろいろ考えがあんだよ。第一な……本当に心底嫌だってんなら、無理してやらせる方が面倒だろ。ずっとこっち置いといて守りにでも付かせればいい。あの能力はそれ向きだ……そうしときゃ、この街は守れる」
「じゃあ、あなたのことは誰が護るのよ。本番になったら指揮のために現場にいなきゃいけないでしょ?」
「ふん、自分の身くらいなんとかする。そのための朝練だ。それに……いつか、そうしなきゃならないのはずっと前からわかってた。じゃなきゃ、『偉業』にはならん。それくらいできなければ……『民から生まれた真の君主』などとは、誰も書き残してくれんだろ」
「……クロヌスの大領主になっても、目標はまだ先なのね。母さんは……あの人は、あなたがここで落ち着いても、何も言わないと思うわ。だって、あの人の最期の言葉は……」
「わかってるよ。これは俺が勝手にやってることだ。あんなろくでもねえ母親のためじゃねえ。だが……」
ガタリ、と大きな音がしました。
驚いたように振り向くライエルさん。その顔は後ろを……こちらを見て瞬時に赤く染まり、口をパクパクとさせます。その目線はがっつりと、私たち四人を上から下へ順に見ていきました。つまり……
「あー……荒野さん、つかぬことを伺いますが、たった今、能力を解除しましたよね?」
「ああ、そうじゃな」
「荒野さん? つまり、私たち全員、今は普通に見えて……」
「ああ、すまん。じゃが、ここまで聞いてこんなセコセコ盗み聞きとか漢らしくねえ……なら、わいらがすべきことは一つじゃろ」
「はは、マスターも大概だけど、こいつも相当ね。まあいいわ、それならみんなで一緒に言いましょうか。せーの……」
扉を開け、縦列から横列へ変更。
そして、タイミングを合わせて一斉に。
「「「「コソコソ覗き見して、すみ(ん)ませんでした!!」」」」




