第158話 突沸
side テーレ
私は、従者として現世に降りて来てこの方、マスターの『怒り』というものを見たことがなかった。
ココアの話では、あの異様な出力の幻炎はこいつの無意識に溜め込んだ感情の表出ではないかというようなことを言っていたけど、それにしたって過去の感情であって、怒った瞬間ではなかったはずだ。少なくとも、私が奪われかけた時ですらこいつは常に飄々として笑みを浮かべながら事の成り行きを冷静に見ていた。
きっと、こいつはきっとこれから先も、怒りなどみせることはないのだと……そう、思い込んでいた。
けれど、それは違った。
こいつは、発生した感情を完全に記憶して、忘れることがない。だから、生きている限り感情を蓄積し続けるからこそ、新しい感情に対しての反応がほとんどない。けれど……それまでの『最高記録』を超える感情が生まれれば、その限りではない。
だからこそ……その『沸点』はあまりに厳密で、その表出は唐突に過ぎた。
「『ケーキ』、そう呼ばれていたらしい。毒薬の名前としては皮肉が効いているのかもしれないが、半端だと……」
その瞬間……黄色の粉末を指して『ケーキ』という言葉が発声されてから一秒ほど。
料理が一通り片付き、大領主ライエル・フォン・クロヌスが情報交換の一環として世間話のように、『研究施設』が作り出したという新種の毒物の名前を口にした瞬間。
バギベリッ……と、そんな音がした。
途端に、料理の乗っていたテーブルが……『バラバラ』になった。
まるで、テーブルとして組み上げる時に埋まったはずのパーツの隙間が、そして樹木としての木目が、一瞬にして破裂したように。
本当に一瞬。そして……
「うおぅ!? なんだぁあ!?」
「マスター!?」
「『ケーキ』……『黄色い粉』で、毒物で、解毒不可能で、しかも『ケーキ』ですか……そうですか……」
パキッ、という木製の指環が割れる音で、それがマスターの魔力が暴発したものが指輪の魔法を暴走させた結果だと理解するまでには十数秒の時間がかかった。
ただ、いつも説明されてもどういう思考経路でそうなったかわからないことが多い、頭の中がわからないこの男が……
「『ふざけんなよ馬鹿がっ!』」
今まで、感じるべきものを感じる機能が壊れているのではないかと、単に頭のどこかがおかしいのではないかと密かに思っていたこの男が、私が思っていたほどおかしくはなかったことを理解した。
ただ単純に、今までこの世界で起きた事象の全てに……ただ寛容に、頑ななまでに強情に、ひたすら我慢して、笑顔で赦してきていただけだったということを。
「すぐに……キャシーさんと、その粉に触れた可能性のある人を、全員連れてきてください……あと、テーブルと、指環の弁償は、報償金から……少し、外の空気を吸ってきます。キャシーさんたちが来たら、呼んでください」
自分が物に当たってしまったことに気付いて罰が悪くなったように食堂を出たマスターを追わなければならないと思い立ったのは、扉が強い力で閉じられた後のことだった。
テラスに出ると、太陽の降り注ぐ頭上の空は綺麗な蒼天だったけど、遠い西の空は巨大な黒雲に覆われていた。
そんな空を、装飾の施された柵に寄りかかって眺めるマスターは肺の中の空気を全て入れ替えようとするかのような深く長い呼吸を繰り返している。精神治療を行う治療者が興奮した人間を落ち着かせるために指示する深呼吸と同じ……精神安定を意識した、セルフメンタルコントロール。
声をかけるか少しだけ迷ってから……隣に立つことにした。
私は『従者』だ。衝動的にだろうと邪魔に思われて、出て行けとか言われたらかなわない。
ただじっと隣の柵に寄りかかって、彼の呼吸が元に戻るのを待つ。
十秒……三十秒……一分。
自分でもよくわからない緊張と共に時間が経過して、ようやくマスターが言葉を発する。
「申し訳ありません……つい、テーブルを壊してしまいました。それに、指環も。これは怒られますかね」
「……いいわよ。それよりも、ちゃんとあっちにも謝っておきなさい。様子を聞いて来た使用人とか、かなり驚いてたから。今にも暴走した転生者が城を粉々にするんじゃないかと戦々恐々になって軍を呼ぼうかどうしようかって話し合ってたわ。私が宥めるからって説得しておいたけど」
「ハハ、それは悪いことをしましたね。いや、本当に……彼らには何の非もありませんのに。むしろ、下手をすれば彼らは被害者……犠牲者かもしれません」
『犠牲者』。
今の段階で、何の実害も出ていないはずの段階で、その言葉が出てくるってことは……
「あの毒……知ってるの? どんなものなのか」
『ケーキ』というあの粉末の名称を口にするのは、何となく憚られた。今ならもう大丈夫だってわかっていても、本当に、何となくだけど。
「私、『選民主義』というのが嫌いなんですよ……特に、生まれた場所や才能、体質や性質という本人にはどうしようもない要素で、幸せになれない人がいる。そういうのは大嫌いです。最初の賽子一つで勝敗が全て決まってしまうゲームなんて、勝っても負けてもつまらないじゃないですか」
「……わけわかんない」
「失礼、独り言のようなものですよ。無関係ではありませんが」
マスターは手摺に寄りかかるのをやめて、割れた指環を手の中で転がす。
きっと、さっきのテーブル破壊はあの指環の本来の魔法……『簡単に曲がる短い刃を出す』って魔法が暴走して、テーブルの中の僅かな隙間に侵入した。そして、岩のひび割れに染みこんだ雨水が氷結して岩を割るのと同じように、破裂させた。『何もない場所でしか出せない柔らかい刃』を『微細な隙間に瞬間的に出現する弾性の物体』に変えた。
それは、偶然に暴走でそうなったってだけじゃなくて……きっと、攻撃的な感情のせいだったのだろう。
「私の推測、憶測、嫌な予想が間違っていないのなら……あれは『イエロー・ケーキ』と呼ばれているものです。魔法の関わらない純然たる科学の産物……原料から精製された『放射性物質』の一種です。そりゃ、従来のやり方では解毒できませんし、銀食器や何かでも化学反応で検出することはできませんよ。そして……この世界の『魔法』は、放射能のような『未知の概念』への耐性を得ることは困難でしょう?」
「……そうだけど。どうしてわかるの、そんなこと。誰かに聞いた?」
「いえ? わざわざ問わずともわかることでしょう。魔法は世界を『思い通り』にする技術。であれば、その認識世界の外にある概念、イメージできない物への干渉は原理的に困難になるでしょう」
それは……確かに、その通りだ。
魔法そのものに限界がなくても、それを扱う人間には認識の限界がある。だから、人間が魔法でできることには制限があって……未だに、不治の病というものは存在し続けている。
肉が溶けるような毒であれば、その溶解反応が進まなくなるようにはできる。内臓の働きが弱まる毒なら、その内臓の働きを促進することはできる。
けれど、全く意識的にも無意識的にも自覚症状のない内に手遅れになっているものは魔法でも対処が難しい。
「原子論や素粒子の概念が一般的ではなく……それどころか、魔法のイメージのために物体をその個体として概念的に捉える認識法が普及しているこの世界では、『放射性被曝』というのはまだまだ理解不能な概念でしょう。治癒魔法にしても、あくまで本人の魂という設計図があっての細胞復元。被爆によって発生する癌細胞には悪意はありませんし、普通に生きている人間の肉体も一定の割合で癌細胞が含まれているのです。どういう基準で細胞を見分けるのですか。それに、遺伝子破壊に関しては個々人で違うもの、下手に他人を参考にすればむしろ癌化します。最終的に発生した瘤や膿を消すことはできても、根治は現状不可能。違いますか?」
「……違わない。けど、この世界の癌発生率は地球よりもずっと低い」
「そうでしょうねえ。魔力があれば、無意識的に肉体を改変し、健康に保とうとする。この世界の住人が基本的に強靭である所以だと、そう習いましたしねえ……しかし、それも個体差があります。戦士職の適性というものが測定できるくらいですから。中には、無意識の魔法が肉体に影響しにくく『病弱』な人間も一定数いる。そうでしょう?」
「……そう、だね。それは、確かにそうだよ。でも、あれは貴族に向けて毒薬として売り出そうとしてたやつでしょ? それなら被害を受けるのは……」
「問題は、あれがタンパク質を破壊する化学物質でもなく、増殖するウイルス兵器でもなく、『放射性物質』であるということです。命は流転します、人間も、その器である物質も。放射性物質は、そこにあるだけで放射線を出し続け、生物の細胞を狂わせて行きます。百年単位の半減期でようやくその影響を減衰させ、さらに何千年でようやくほぼ完全に無害化です。地球では、それまで生態系に影響の出ない地下深くに封印するのが標準的な処理方法でした。しかし、あの杜撰な保存法で……『コルクで蓋をしたガラス瓶』ですよ? あれを作り出せる人間が、そんな管理手順を許可したとしたら、目的は一つ……放射性物質の意図的な流出です」
私も、地球の知識は読み込んであるからその意味はわかる。
それが、最大級の禁忌であることも。
「どうして、そんなことを? わざわざ、毒薬だなんて言って売りつけるなんて」
「専門ではありませんが、粉塵を吸っただけでも数年で発病する可能性のある代物ですからね。あの粉の物質濃度にもよりますが、暗殺のために料理に振りかけようと厨房で瓶を振れば、城の住人が全て被爆してもおかしくはありません。大袈裟かもしれませんが、どんなに少量だろうと肉体に取り込んでしまえば、放射線のダメージは蓄積し続けます。年単位の遅効性、現状検知不可能な隠匿性……そんなものが貴族間での権力抗争に用いられたら、まず間違いなく、勝っても負けても被爆済みという先のない権力層が完成するでしょう。そして、その血を継ぐ子供は……」
「……まだ知性のない胎児は、魔法による自己防衛ができない。親に症状がなくても、その子供たちは……」
「はい。根治は無理にしても、なまじ大人が魔力で健康を保つ分、気付く頃には子供は高確率で被曝の影響を受けて生まれます。いえ、産まれることすらないかもしれませんね。少々気の長い計画ではありますが二世代か三世代あれば、世襲前提の貴族性は崩壊するかもしれません。そして同時に、『病弱』な人間も微細な流出で被曝し、命を落としていくでしょう。その『病弱』の基準は、流出する物質の量次第ですが」
魔力への順応性の低い『病弱な人間』と、高確率で毒を服用することになる貴族層の崩壊。
その目的は……
「……『真に才能ある者』以外の淘汰?」
「ええ……あくまで、私がそうかもしれないと思っただけですがね。現行権力の安直で雑な破壊もそうですが、胎児や病弱な人間を無差別に毒殺しようとするなど……ふざけるな、という話ですよ。まるで、昔の日本であった障害者避妊手術です。勝手に基準を定めて人々を選別し……勝手に、幸せになるための努力すら許さずに、未来を奪うなど。本当に、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな……私の、妄想であって欲しいものです」
こいつは……この男は、あの一瞬で、『ケーキ』という単語を聞いてから一秒足らずでそこまで考えついたのか。
たった一瞬で、そんな『最悪』を克明に脳裏に描き出してしまったのか。
他人から見れば……意味不明に突然ぶち切れたようにしか見えない。普通の人間は、一瞬でそこまでの道筋を連想できないから。
いや、あの一瞬だけじゃないはずだ。
「『本当に能力のある者が世界の舵を取らなければならない』だっけ。ルビアの言ってた、『研究施設』の理念。てっきり、あれは『才能がある自分たちは何をしてもいい』みたいな意味かと思ってたけど……」
少なくとも、私はそういう意味だと解釈して、その後から深く考えることはなかった。
けれど、こいつはきっとその時から、無意識下のことであっても、嘘偽りなくその理念を信じて、そして本気でそう考えた人間がどんなことをしでかすかもしれないか……世襲制の社会を壊したり、病弱な人間がすぐ死ぬようにしたり、そういうことをする可能性を既に考えついていた。
だから、『ケーキ』という単語が最後のピースとしてはまった瞬間に、そのシナリオ全てが見えてしまった。
きっと、こいつはいつもこうやって物事を考えているのだろう。
最初に入力された情報から、『あり得る真実』を全て頭の中に用意しておいて、その中から新しい情報と矛盾しないものを絞り込んでいく。周りから見れば、いきなり思考過程をすっ飛ばして答えが出てきたように見える。証拠も誘導尋問もなく、当てずっぽうで真実を言い当てたように見える。
こいつは、最善から最悪まで、否定されない限り全ての真実を『そういう未来もあり得る』と信じている。だからこそ、中身の見えない他人の心の中の善を信じているし、馬鹿みたいに誰とでも話し合おうとする。
けれど……今回は、その中の『最悪』が実現してしまった。だからこそ、彼はそんな『真実』を選んでしまった誰かに怒りを見せたのだ。
「きっと、話してみればそれなりに納得できる背景や方針があるのでしょう。ですが……これは、ダメです。話し合えばわかり合えるかと思っていましたが、この方向へ進めさせるわけには行かない。これは、赤ん坊の泣き声がうるさいからとその息の根を止めてしまうのと同じ、誰もが思いついてしまうことだとしてもやってはいけないことです。ですので……予定変更です。たとえあちらが友好的に接してきたとしても全力で彼らを止めます。構いませんか?」
また顔にはいつもの笑みが浮かんでいる。
一度生じた感情が一生消えないというこいつは、『怒りの理由を話してスッキリした』なんて感覚はないのだろう。今も、さっきのテーブルを破壊した瞬間と同じだけ怒っていて、その状態に『慣れた』というだけ。きっとこれからも、あの指環と同じものを使えばさっきと同じように触れていたものを破壊するのだろう。
「何度言わせるつもりなんだか……あんたが私のマスターなんだから、言われなくてもついていくわよ。私だって……『天使』として、罪も穢れもない子供たちを殺戮しようとする外道は見逃せないしね」
いつも通りに、また隣に並んで歩き始める。
いつもと変わらない距離に、いつも通りの歩幅。私の方が足が短い分、少しだけ歩数を増やして速度を合わせる歩き方。
だけど……いつもと変わらないはずなのに、どうしてだかペースを合わせることに、いつもみたいな焦りは感じなかった。




