第146話 死霊の連鎖
side 狂信者
幼い頃は、時間の流れというものはとてもゆっくりだった気がします。
一時間ですら、まるで永遠のように長かった。魔法のように。
『妖精界の鍵』とは、そういった意味では正しく『魔法』の形の一つなのでしょう。精神や認識に働きかける、この世界の一般的な魔法体系とは異なった形での魔法の鍵。無形のマジックアイテムにも近いものと言えるかもしれません。
端的に言えば、『妖精界の鍵』の効果はテレビのボタンを捻ってチャンネルを変えるように『位相のずれた世界』との行き来を可能にするというもの。アンナさんの話によれば、扱いに熟練すれば一日を数十年に引き延ばす、あるいはその逆の使い方もできるそうですが、私にはまだとても無理なことです。三次元ではなく四次元以上の空間軸への移動ですからね、下手に『移動』を意識すれば度合いを間違えて異空間を漂流し戻ってくるのに長い時間を必要とします。
それに、『位相のずれた世界』というのは時間の流れだけではなく認識や記憶、物理的な距離や座標すらも現実から離れていきます。深く潜ればそれだけ『妖精界』と物質世界の時間の流れ方の差異は大きくなり、物質世界の人々に認識されにくくなり、過去の記憶についても思い出されにくくなり、『妖精界』での移動距離と現実世界に戻った時の移動距離の差も大きくなるのです。
アンナさんによると、慣れない内は地面の中や空中に帰還してしまうこともあり得るので乱用はやめておくべきだとか。
【神を試してはならない】を発動する時にはアンナさんにマーキングしていただいた『認識から外れる方向』へ特化した位相を指定していますが、自分で調節する場合には主観時間が二倍から三倍になる程度、認識などに関しても『少し見つかりにくくなる』程度の位相に抑えてあります。
何度か確認したのですが、テーレさんは私の存在を忘れてしまうということはありませんでした。テーレさんの場合、そもそも私の存在がなければこの現世に存在するという状況が成り立たないからでしょう。
つまりは、私が『妖精界の鍵』を使って睡眠時間を圧縮していてもテーレさんが寝床で眠っている私を見つけるのは簡単であるということなのですが……
『よく考えれば、これって異空間に半身浴しながら、同時に「夢」という異空間に頭を突っ込んでいるような状態でしたね……これは、興味深い』
テーレさんの結界や、この森の状況、そして私が鍵を捻って引き当てたチャンネルが偶然噛み合っていたのか、夢に落ちたと思ったら想像もしていなかった光景を見ることになりました。
『死にたくない』
『殺してやる』
『最後に一度くらい……』
『すまない。実は俺、女はあまり……』
『夢魔の世界』……そう表現すべきでしょうね。
私の認識による解釈も入っているかもしれませんが、たくさんのサキュバスやインキュバスと思われる方々が、兵士さんや盗賊さんと思わしき方々に声をかけ、誘惑しているように見えます。
明日には死ぬかもしれないという恐怖、異性に愛されてみたかったという後悔、殺し合い続きで寝入っても冷めない激情。そういったものを嗅ぎつけた悪魔という精神体が、『都合のいい夢』という餌をちらつかせて彼らを誘惑している。
誘惑されている側からは、他の人間や自身に語りかけている夢魔以外の個体は見えていないようですが、私はそれを俯瞰するようにして客観的に見ている……夢魔の方々の客引きの舞台裏を覗いてしまっているような感じです。
テーレさんの結界は外と内に『陰気』と『陽気』の環境差をつけて精神体の侵入を阻むようなものでしたが、それはこの位相においては単純に高い崖として認識されています。こちらは地面から飛び出た尖塔の頂上から周囲を見下ろしている。だからこそ、あちらからこちらは気付かれないまま、広い範囲で行われている夢魔の活動を視認できているのでしょう。
『悪魔は陰気な場所を好み、戦場にも集まってくる……というのは聞いていましたが、これほどとは』
人の形を成していない者まで考慮すれば、人間一人に一体以上。
それこそ、戦場の人間全てに働きかけるのに十分な数の悪魔がいる。
はっきりとした夢の中での誘惑でなくとも、精神影響は無視できないでしょう。
『おっと……キャシーさん、様子がおかしいと思ってはいましたが、小さなものが取り憑いていましたか。遮断ではないそうなので仕方ありませんか』
キャシーさんを起こさないように優しく掴んで崖下にリリースしておきましょう。
浄化光で睡眠の邪魔をしてしまってもいけませんし。
『しかしこれ、どうなんでしょうねえ。明晰夢のように意識がはっきりしていますが、ちゃんと休まっているのでしょうか? せっかく睡眠時間をもらったのに休まっていないというのなら、位相を切り替えてちゃんと寝入るべきか……おや?』
遠方に何か、赤く輝くものが見えます。
それは、人間よりもはるかに大きく見える人型の存在。
皮膚はどす黒く、表情は苦痛とも憤怒とも知れない表情に歪み、その右手に握った大剣のみが深紅に輝いています。
それは、まさしく……
『深紅の剣……悪魔だとすれば、あまりに大きな……』
深紅の剣を手にした悪魔が、こちらを睨みます。
地表の小さな夢魔たちからすれば高すぎて気付けないこの結界の岩壁も、あの大きさからすれば胸の高さ。軽く見下ろすようにこちらを見て、その顎を開きました。
「マスター、起きて。ちょっと状況変わったから。夜明け前だけど……大丈夫? 寝汗すごいけど」
瞼を持ち上げ、身体を起こすとテーレさんが珍しく心配そうにこちらを見ていました。
言われて確かめてみれば、確かに額に汗をかいていますね。雨はまだシトシトと降り続いていて気温が高いわけではないですし……明らかに、精神的なものが原因ですね。
「失礼、世の中には目と目が合うだけでも命に関わる存在がいるのですねえ……レグザルで取り乱したアーク嬢の気持ちがわかったかもしれません。大丈夫です、問題ありません」
とりあえず、少なくとも肉体的にはそれなりに休まったようです。
まだ、僅かに東の空が白んできた程度、これから少しだけ食事をして出発というところですか。
キャシーさんは既に起床しているようですね。様子を見る限り、ぐっすり眠れたようでよかったです。
「して、テーレさん。状況が変わったというのは?」
「うん、あんたが問題ないって言うんならまあそういうことにしておくわよ。よく考えたら、昨日は初めての戦場で死体とかも結構見たわけだし、ちょっと悪い夢見てもしょうがないしね」
そう言って、テーレさんは手製の単眼鏡をこちらに差し出し、方向を指示します。
結界の外、視界の通っている木々の間です。
「あれを見て……屍人よ。ゼットの感染者と違って、れっきとした死体に憑依した悪霊」
単眼鏡を通して指示された方角を見てみれば、確かにいますね。
頭部の半分ほどを欠損するという明らかに致命的な傷を負いながら、痛みを感じるような様子もなく頭蓋の中身をこぼしながらフラフラと歩く兵士さんの死体。
憑依した悪霊によって操り人形のように動かされる、屍人。
「確か、屍人は比較的新鮮な遺体と悪霊がいれば発生するのでしたね。戦場ではそれほど珍しくはないのでは?」
「確かに、一体や二体ならね……でも、あれで五体目、全部違う個体。それも、明るくなり始めてから見えただけでその数。明らかに多すぎる」
屍人が多いということは、死体が多いのは当然のこと、それに憑依する悪霊……つまり、無念の内に憎悪や怨念を残して死んだ魂が多いということです。
しかも、場所からしてこの兵士さんは砦の近くで死んだ兵士さんではない。移動速度からして、あの歩みでここまで移動するには少し遠すぎる。
「あの兵士さんは、旧いアジトへと向かった軍の囮部隊の方、ということですか。そして、戦力などから考えれば……」
「囮部隊の方は全滅したんでしょうね。しかも、たぶん必要以上に惨たらしく、悪霊になりやすいように。『悪霊』は感情が劣化して憎悪や悪意だけが残ったような状態になると『悪魔』と呼ばれる存在になる。そして、『悪魔』が発する負の思念は周りの死者の魂も同じ方向に引っ張り寄せる。つまりは……」
「『悪魔の軍勢に囲い殺された人間の魂は悪魔となりやすくなる』……そういうことだな」
キャシーさんが私の横に来たので、単眼鏡を渡します。
屍人は女性に見せるにはそこそこにグロテスクな外見をしていますが、まあ昨日には散々死体を見ていましたし、今更ですね。
「そして、悪霊や悪魔がまた人を殺せば、また悪霊や悪魔が増えていく……普通はそうなる前に冒険者などに見つかり討伐されるのでしょうが、今回はその始点となる鎧悪魔の個体数があまりに多く、それぞれの個体が強力すぎた。そういうことですね?」
「そういうこと……これは、思ってたよりマズいかもしれない。ただの屍人だって、動きが鈍くて脆いにしても、完全に止めるには浄化の手段がいる。数がいれば一般人じゃ止められなくなる。それに、気配からして物理的な器を持たずに霊体として漂ってる悪霊もかなりいるっぽい。もしも、こいつらが順調に森の中や近くの村なんかを襲いながらクロヌスまで到達したら……」
「初期対応を上手く行えればともかく、パニックが起きればそれに乗じて街の住人が次々と屍人へと変わりますね。そして、防衛体制が整う前にその数が一定ラインを超えれば、中央都市が丸々一つ死都となり果てるやも……と」
そう考えると、この討伐作戦自体が謀略の内。
人間としての盗賊団など本当は必要なく、砦を囮に軍を招き寄せ、街の防衛力を削ると同時に悪魔を増やし、中央都市を陥落させるのに十分な初期戦力を得るための罠。そして、その討伐作戦でおびき寄せた軍を盗賊団ごと殺戮するための元手となる戦力が、『研究施設』から買い取ったあの鎧悪魔百体というわけですか。
『悪魔』であることを活かして、指数関数的に戦力を増やしていくことができる新兵器。
普通の兵士よりも強い兵隊が百人……どころの話ではありませんね。これは都市攻略を可能とする立派な戦略兵器です。
もはやこれは一種の革命。
死者による生者への宣戦布告とも言えますね。
そして、それをこの段階で止められるのは……
「……きっと、あのゾンビたちは損壊が激しくて進軍に向かないやつを偵察に使ってる。どうやってこの数を統制してるのかはわからないけど、大量の使い魔でクロヌスまでのルートを監視して情報封鎖してるわね。馬で駆け抜けようとしても必ず感知される……そして、あんな偵察用とは全く違う、強力な使い魔が集まってくるんでしょうね……どうする? 今ならまだ、見つからないことを優先に監視を避けて慎重に行くって手もあるけど?」
おそらく、狙いである中央都市に接近するほどに監視の目は厳しくなるでしょう。
敵側の目論見としては、準備が整うまでは絶対に街に危機を伝えようとする者を通すわけには行かないわけですし。テーレさんの言う通りに、中央都市の方角へ進まなければ、見つからずに済むルートもあるのでしょう。
しかし、それでは絶対に間に合いません。
「戦場において伝令が楽な仕事だなどと思ってはいませんよ。テーレさん、戦闘準備を。包囲の中央を駆け抜けますよ」
到達前に『中央都市クロヌス』が消滅してしまっては、キャシーさんを送り届けることができなくなってしまいます。
テーレさんも私がそう言うことはわかっていたのか、ベルトに魔力電池のカートリッジを差し込み、携行食を一つ、半分に割って私に手渡します。
「『中央都市クロヌスを死者の群れから救う』……最初に狙う偉業にしては十分過ぎるくらいよ。報酬たっぷりもらわなきゃ」
残りの道程は馬で一日半といったところ。
しかし……一度、監視に引っ掛かってしまえば明日はこのように結界で凌いで野営する……などという暢気なことは言っていられませんね。
昨日はしっかり降りましたし、今は既に雨の勢いが落ちている。今夜の天気はおそらく晴れ。
最低限の視界を確保した上での強行軍。この世界の馬ならば、丸一日くらいなら頑張ってくれるでしょう。つぶれないギリギリの無理で一日半の距離を一日で駆け抜ける程度なら。
「さあ、長い一日の始まりです」




