第百七十九話 白兎の隠岐渡り①
かつて零花国にとって、海を挟んだ位置にあった大国が唯一の隣国にして貿易相手だった。しかしその大国はサペリオン王国大侵攻期に分断され、程無く衰亡している。しかも零花も同時期にサペリオンの侵攻を受け、辛くも退けたものの、以降は他国と国交を持たずにいた。
そして現在、国交を回復したサペリオン王国との貿易の窓口である零花国の西端、刺身半島にある刺身港は急速に在りし日の盛隆を取り戻そうとしていた。
その刺身港に、浦戸家当主の命を受けた二名の遣いが来ていた。
「そこのカワイイお嬢さーん、今から私と遊びに行きませんかー?」
「こら、瑠璃!」
軽薄な声音で道行く女性をナンパする瑠璃を嗄れた怒声が打つ。瑠璃は反応するより先に襟首を掴まれ、あえなく引きずられる事となった。
「や、やだなぁ、仁久郎さん、ちょっとしたお茶目じゃないですかぁ」
「何がお茶目か! お前は少し目を離すと女の尻ばかり追い駆けよって!」
初老の狼獣人、仁久郎は瑠璃が浦戸家に仕えてから十余年、師であり親代わりであり、彼女が頭の上がらない数少ない人物である。
「浦戸家の傍仕え衆《浦戸守》としての自覚を持て!」
浦戸守はその名の通り、浦戸家を守るのが使命である。家中では通常の臣下や使用人よりも上に位置付けられ、西方国における執事近い。無論、能力と家柄両方が求められる重要な職であり、先の瑠璃の様な言動など言語道断である。
「自覚ならありますよぉ。竜霞様の為なら死ねますし」
変わらず軽い口調だが、仁久郎は短く鼻を鳴らして掴んでいた手を放す。
「なら相応に働け。今回の相手は竜霞様のご友人なのだろう」
零花国とサペリオンの国交が回復したのは先に述べた通りだが、両国は貿易を始める前に交換留学生を送り合っていた。彼等彼女等はいずれも権力者の子女であり、異国の文化を学ぶ傍らで自国の利益となる交流を作るなどの外交も行っていた。
瑠璃の主人である竜霞も例に漏れず、友人達との学園生活の合間で活動していた。しかし彼女の場合、その友人達の中に取引相手が居たので、他の留学生よりは自ら出向く機会が少なかった。
「あそこの船じゃろうか」
貿易船は商会旗と国旗を掲げるよう義務付けられており、仁久郎は停泊する船の中に目当てを見付けた。
水夫が忙しなく荷下ろしを行っており、それを琥珀色の毛並みをした猫獣人の少女が確認していた。
「失礼。浦戸家の遣いの仁久郎と申します。ネコメ屋の方ですかな?」
「はい、商会ネコメ屋貿易部門代表、エイミーです」
仁久郎に声を掛けられ振り向いた猫獣人の少女は、人懐っこい笑みを浮かべながらも鋭さを感じさせる目をしていた。
魔法学校在学中にエイミーと竜霞は契約を結んでおり、卒業後に零花サペリオン間の貿易を実現する為、エイミーは商会に貿易部門を設立し、竜霞は自領の事業として当主に話を付けたのだ。
「もう少しで荷下ろしが終わりますので、しばしお待ちください」
「承知しました」
責任者としてのやり取りを済ませると、エイミーは瑠璃の方へと目を向ける。
「ルリさん、久しぶりだね」
「お久しぶりです、エイミーさん。お元気そうで何よりです」
瑠璃にとってエイミーは主人の友人であるが、在学中は何かと気の合う場面も多く、互いに気安い間柄である。
「エイミーさんの商会って海運も出来たんですね」
「いやぁ、実を言うと私がリューカさんと繋がりを持ったから始めたのよね。だから船や人員はハンミョウ商運に委託してるの」
商会内での新部門設立、両国からの貿易許可、商船と人員の確保、航路の選定その他諸々。エイミーの実家である商会ネコメ屋は王国内でも大きい方だが、それでも全ての条件を整えるのは困難だった。
そこで国内の水運業者と提携し、海運を委託する事にしたのだった。
「委託ですか?」
「エイミー先輩、荷下ろしは全て終わったぞ。あ」
「あら」
船から降り立ったのは、灰色味がかった青い髪を高い位置で括った少女だった。
「もしかしてマリーゼ?」
もしかしなくても、エイミーやオリビアの二学年下の後輩であるマリーゼだった。
二年生の中間長期休暇に河賊から船を守ったマリーゼだが、その結果、船員達の信頼と忠誠は雇用主のハンミョウ商運よりもマリーゼ個人に寄せられ、彼女不在時には商運と船員との間でトラブルが頻発していた。その所為で彼女は年度末長期休暇もこうして船の監督者として駆り出される事になってしまった。
余談だが船の名前はベルーガ号に決まった。
「いやぁ、びっくりしたわ。また大きく……大きく……なりやがって!」
「何処見て言ってるんだアンタは!」
元々発育の良かったマリーゼはこの一年で更に成長し、身長は瑠璃に並んでいる。一部に関しては言わずもがな。
ちなみに在学中、エイミーとマリーゼはオリビアを挟んで険悪な仲だったが、両商会が提携したのに二人の意思は介在していない。海運を任せられる商会を探していたネコメ屋と、新進気鋭に航路を開拓していたハンミョウ商運の利害が一致した結果だ。ベルーガ号のクルーに、サペリオン零花間の海に面した漁村出身の者が居たのも好材料だった。
エイミーは仕事に私情を挟まず、マリーゼは叔父夫婦に面倒を見てもらっている身を弁え、こうして共に仕事をする事となった。
とは言え、マリーゼは商売も事務作業も経験は皆無に等しいので、実際に仕事をしてみるとままならない事が多く、その度にエイミーが呆れながら指導していた。
「それでマリーゼ、作業は終わったんでしょ? だったら予定通り、私は地元商店と会食に行ってくるわ。二日は滞在するからその間は自由にしてて」
「宿はこちらで手配しておりますので、ご案内いたします」
今回の航行は品物を運んで終わりではなく、刺身港やその周辺の商人との会談も行う予定である。その間、ベルーガ号のクルーは刺身港の宿に滞在してもらう事になる。
仁久郎の案内で宿に向かおうとしたところで、瑠璃がマリーゼの袖を引く。
「ねぇねぇマリーゼ、せっかくだから少し二人で歩きましょうよ。いいでしょ、仁久郎さん。宿には後で私が送って行きますから」
「仕方無いのう。あまり遅くなるでないぞ」
瑠璃が仕事中に抜け出すのは今に始まった事ではない。それでも彼女が浦戸守の地位にいるのは、相応に理由があっての事だ。
これが厳格な場であれば咎めたが、既知の間柄であれば積もる話もあるだろうと、仁久郎は少しだけ目を瞑る事にした。
「それじゃあ行きましょうか」
「え、ちょっと、ルリさん?」
瑠璃はマリーゼの手を引いて、一行から抜け出した。
刺身港はサペリオンの文化が流入し、徐々に異国の人や物が増えつつある。数年前ならマリーゼの様な異邦人は目立っていたが、現在では然程珍しくは無い。
「急にどうしたんだ?」
「特に深い理由は無いわよ。強いて言うなら今の学校がどうなっているのか聞きたかったかな。あとは適当にぶらぶら歩いてお茶したり、買い物したりしたかっただけ」
マリーゼとしては、瑠璃とはそんなに親しい関係ではないと思っていた。オリビアと関わっている内にその友人知人と顔を合わせる事は多少あったが、だからこそ自分はあちら側に好かれているなどとは思わなかった。
瑠璃の事は嫌ってはいないが、オリビア達が野営学習に行っている間に試合形式で剣を見せてもらった程度だ。期間にして言えばほんの二日、指南と言うにはマリーゼが一方的に打たれるだけだった。
だがそれでも邪険に拒否せず付いて行く辺り、マリーゼも少し丸くなったのかもしれない。
「はぁ。別に特に変わった事は無いぞ。オリビア先輩やマティアス先輩みたいに飛び抜けて強い人が卒業してしまったから退屈だ」
2年生からAクラスに移ったマリーゼは同学年ならば上位の実力ではあるが、流石に最強とまではいかなかった。授業の模擬戦で敗北する事もあるし、オズワルドなど体力は並以下なのに、純粋に魔法だけでマリーゼを制した。現在の三年生にも、マリーゼが敵わない相手は多いだろう。
だがそれでも、あの二人の様に『どう足搔いても勝てない。だからこそ勝ちたい』と思える相手は居なかった。
「あの二人を基準にしない方が良いと思うんだけどねぇ」
瑠璃から見ても、あの二人の実力は当時から飛び抜けていた。それと比べられては、在校生達が気の毒と言うものだ。
「そうだ、レイバナ国に来たらルリさんが持っている様な剣、カタナって言うんだっけ? それを買おうと思っていたんだ。この辺りで売っている店はあるのか?」
「店はあるけど、私が持ってる様な上等なのは早々置いてないわよ」
「ルリさんのカタナってそんなに凄いやつなのか?」
「これは山奥の秘境に封印されていた魔封じの刀で、名前は『止水』って言うんだけど、真の力を開放する事で卍解『明鏡止水』になって、必殺技の飛天御剣流水の呼吸アバンストラッシュが使えるようになる……」
そこまで言って、瑠璃はマリーゼが自分の話を理解出来ないなりに真面目に聞いている事に気付いた。
(ナタリアだったら早々にツッコミ入れてくれるのに……あの環境が居心地良すぎた……)
実のところ、瑠璃は帰国してからも今の様に、少なくとも転生者でなければ理解出来ないネタを何度か口走っていた。卒業式の折にナタリアは瑠璃に感謝を述べていたが、瑠璃にとっても十数年ぶりに前世のネタを話せる友人と共に過ごした時間はかけがえの無いものだった。
「あー、そうだ。先に茶屋に行きましょう。マリーゼは零花に来て間もないでしょう。零花の食べ物を味わってほしいのよね」
「うん、まぁ、いいけど」
瑠璃は失敗を誤魔化すように提案し、マリーゼも同意する。
二人は手頃な店の通りに面した席に腰を下ろし、零花の食べ物の知識が無いマリーゼの代わりに瑠璃が適当に二人分の注文を済ませる。
道は大勢で賑わっており、急ぐ者は合間を縫う様に通り過ぎる。
小さな黒い影が足音も無く人波をすり抜け、地を擦る様な低い姿勢で瑠璃達の席へと近付き―
「おっと、坊や、それはちょっとあげられないかな」
止水へと伸ばした手を、瑠璃自らが掴んで止めた。
ベルーガはオオチョウザメ(遡河性大型淡水魚)の英名です。
シロイルカと同じで紛らわしい。




