迷宮行軍
遅くなってすまぬ……すまぬ……
雪洞の中で一晩体を休めた後、俺達は荷物を纏めて暗い通路の中へ足を踏み入れた。手に持つランプ以外に光源が存在しない通路の中は、酷く不気味で窮屈に思える。外は身を凍らせるほどの寒さだと言うのに、暖かいと思えるほど気温が高いのも一因だろう。
更にもう一つ原因を上げるとすれば、魔力の流れがある事だろうか。物理的な感触を伴う魔力が、通路の奥から生温い風を運んで来ているのだ。流れる先は出口のない雪洞で、風の出口などはないのに。
後ろにいる三人も雰囲気に気圧されたのか、一言も言葉を発さずに黙々と歩いている。昨日までの雪中行軍よりも体力的には大分楽だが、精神的な疲れはそれの数倍以上だ。こんなお通夜状態では、すぐに歩けなくなってしまう。
此処は冗談か何かを言って空気を和ませるべきなんだろうか。エルと出会うまでは誰かの組んだ事は殆どなかった上に、数少ないその経験の中でもムードメーカーが別にいたから、こういう時にどんな行動を取るべきかサッパリ分からない。
そう考えると、文句一つ言わずに俺に付いて来てくれるエルは本当にありがたい存在だと分かる。心なしか、エルと組んでからは周りの俺を見る目が大分柔らかくなってストレスが減った気がするし、本当に彼女には感謝しなければ。
……何を考えていたんだっけか。
そんな事を思いつつ、結局黙りこくったまま歩き続ける事数十分。何時までも変わり映えのしない景色に三人はすっかり疲弊していて、これ以上歩くと集中力に差し支える。少し早いが、休憩をした方が良いだろう。
「この辺りで一旦休もう。ディオニシオさん、ちょっとランプ持ってて下さい」
「あ、はい……」
駄目だ、ディオニシオさんの目が死んでる……!
手早く休息の準備をして、通路の脇に全員を座らせる。年長のアメリアさんはまだ余裕があるようだったが、まだ幼いセナイダと若いディオニシオさんは完全に灰になっていた。それはもう綺麗な灰になっていた。
「疲れてるなぁ……」
「寧ろ、チコ殿は何故平気でいられるのか謎なのであります」
「えっ」
「えっ」
そこまで辛い道程だとは思えなかったんだが……寧ろ竜山脈の鬱葱とした森の中の方が、個人的には此処よりも精神的に来るように思えるんだが……しかし、アメリアさん達にとってはそうではないらしい。
「そんなに辛いですかね?」
「物凄く辛いであります。今はまだ耐えられるでありますが、これがもし一日続いたら……」
沈痛そうな表情をするアメリアさん。その様子や気配から見ても、今の言葉が冗談であるとはとても思えない。おかしい、セナイダやディオニシオさんは兎も角、俺に喧嘩を売るアメリアさんがこんな豆腐メンタルな訳がない。
彼女達が疲弊している理由は、この景色以外の何処かにある。そして、それを可能とする物が今も、通路の奥の方から流れて来ている。十中八九これが原因だろう。
「セナイダ……セーナーイーダー」
「……あ、チコさん……何ですか……」
普段なら元気いっぱいに返事をする筈のセナイダに光が灯っていない! ハイライトさん、戻って来て! セナイダにこんな目は似合わないわ!!
「この辺に結界、張れるか? それで多分楽になると思う」
「……はい……分かりました……」
のろのろと腕を上げたセナイダから淡い銀色の魔力が放出され、俺達のいる場所を囲うように結界を形成する。半透明の銀色の幕がドーム状になっている光景はとても美しい。ずっと同じ景色を見続けていたからか、余計にそう感じる。
肝心な魔力の流れも遮断されて、結界の内部は落ち着いた空間となった。アメリアさんの方を見ると、ホッとしたような顔で頷かれる。原因は取り除かれたと見て良いだろう。
しかし、受けたダメージはそう簡単には消えない。セナイダとディオニシオさんの目に光は宿らず、相変わらず真っ白なまま死んだ目でぼんやりと地面を眺めている。
壁にもたれ掛かり、死んだ目でぼんやりとする美少女二人……いかんいかん、邪な思考は厳禁だ。悪霊退散。
……さて。
「アメリアさん、休息と言えばお菓子が出ますよね?」
「うん? 確かに余裕がある場合には出る事があるであります」
「俺は普通に余裕なので出ます。当然、今日も出ます。が、ちょっと奮発します」
セナイダの手がピクリと動いた。
「どうぞ、ご覧下さいな」
「お……おぉぉぉ! それはウサギの御宿で売られている饅頭でありますか!?」
ディオニシオさんの足がビクリと震えた。
「他にもありますよ、ウサギの御宿から買って来たお菓子の数々。そうですね、総額は大金貨六枚と小金貨二枚くらいですかね」
「そそそそ、それはもしかしてもしかしてでありますか!?」
「もしかしてが何か分かりませんが、全員に振る舞いますよ」
バッグの中から、更に菓子の数々を取り出す。このバッグがなければ決してこんな所では味わえない生菓子の数々に、アメリアさんの目が釘付けになる。結界の中を満たすふわりとした甘い匂いに、俺の腹が少しだけ自己主張をした。
だが、これを取り出した目的はそれじゃない。いや、それも目的を達成する上で通る事にはなるだろうが、今じゃないんだ。鳴る腹は抑え込め。精神を研ぎ澄ませろ。
「ですが、この二人は食べられそうにないですね。動けないみたいですし」
「……ハッ! 確かにそうでありますな! 可哀想に!」
俺の意図に気付いたのか、アメリアさんも大げさに二人を憐れむ。しかし横で聞いている分には問題ないが、実際に言われるとムカつきそうな言い方の可哀想だな。セナイダがあっという間に持ち直したぞ。
「食べます……そんな高い物、今食べないと損じゃないですか……!」
栗色の目にメラメラと炎を燃やしたセナイダがゆらりと立ち上がる。王都に長く暮らしているだけあって、ウサギの御宿の菓子の希少性を良く分かっているのだろう。そして、俺がお土産として買って来た饅頭の美味しさも覚えているに違いない。
しかし、ディオニシオさんはまだ反応がない。匂いや言葉にピクピクと指が動いてはいるのだが、その程度では鬱屈とした精神を奮い立たせる事は出来ないのだろう。だが、あと一押しで動きそうではある。
ちらりとアメリアさんにアイコンタクトを送る。ディオニシオさんの心を奮い立たせるのは俺の役目じゃない、恋人であるアメリアさんの役目だ。
「うっ……」
顔を赤くしたアメリアさんは一瞬だけ躊躇するような表情を見せたが、すぐにごくりと喉を鳴らしてディオニシオさんに近付いて行った。そして耳元に首を近付け、何かをボソボソと囁く。
「い、何時までもそうしているなら、チコ殿とセナイダ殿の目の前で散々に甘やかしてやるであります」
唇の動きを読み取ると、そんな事を言っていた。なるほど、結構恥ずかしがり屋のディオニシオさんには効くだろうな、これ。聞かされる方は堪った物じゃないけど。
それはそうと、羞恥プレイをするぞという脅しを受けたディオニシオさんは見る見る内に赤の色彩を取り戻し、ふらふらと立ち上がった。顔が茹でダコもビックリなほど赤くなっているが、まぁ大丈夫でしょ。
「チコさん~お饅頭~」
「はいはい」
服の裾をちょんちょんと引っ張るセナイダに饅頭を渡す。その後は夫妻にも饅頭を渡し、最後はココにちょっと高い肉を齧らせた。俺自身は饅頭ではなく緑茶を入れた湯呑を持ち、リラックスしている。決して饅頭がなくなった訳ではない。
「それで、一体何が起きてたんです?」
三人が甘い物でほっこりした所で問い掛ける。俺は特に何も感じていなかったが、三人の疲弊振りは並ではなかった。魔力が関係している事は分かったが、その作用がどんな物か分からないと、対策も後ろ手に回ってしまうから此処で理解しておきたい。
「う~ん……」
「そうですね……」
「表現し難いのであります」
しかし、三人の反応は芳しくない。全員が一様に悩むような仕草をして、うんうんと唸っている。まぁ、精神攻撃的な物を簡単に説明出来たらそれはそれで凄いと思うが。
「う~……何と言うか、誰かが耳元で囁いて来るのです。ただ、何て言ってるかは分からないのです……」
色々と説明する事が多い宿屋の娘だけあって、一番早く考えを纏めたセナイダはそう表現する。確かに長時間耳元でよく分からない言葉を囁かれたらストレスだろう。それが負の意味を持つ言葉であれば尚更だ。人間、意外と敏感で繊細だからな。
「あの、ボクはちょっとだけ……今までの自分を全否定するような言葉が……」
人格の全否定か。それを長時間延々と囁かれ続けたら灰にもなるわ。俺だって一時間や二時間は兎も角、それ以上囁かれ続けたら絶対に灰になっている。
「それ以外にもあるのであります。何か気味の悪い、冷たく靄っとした物が体の中心を駆け巡って気持ちが悪くなるのであります」
それはあれか。考えても考えても全然分からない時に、心臓の周りをグルグルと巡るあの熱い不快感みたいな物の冷たいバージョンか。そりゃ灰になるわ。寧ろよく耐えたわ。もう少し気を配れば良かった。
しかし、流れる魔力が齎していたのは人格否定の幻聴と、精神を不安定にするような感覚の付与か。となると、あれは魔力がただ流れているのではなく、誰かが放出系魔法を使っているか、魔道具を使われている事によって流れが発生しているのだろう。
今は結界でその魔力を遮り、幻聴や不快感に襲われないようにしている。セナイダの魔力量と今の様子を見れば、このまま先に進む事も可能だろう。
ただ、明らかに神のいる領域へと至る為の登竜門である此処のギミックを防いでしまっても良いのか、とても悩む。防ぐのも実力の内、と言うのは簡単だが、それは肉体的な物に当て嵌るのであって、精神的な物はまた別だ。寧ろ、ガンガン攻撃されつつも跳ね返すほどの強靭な精神の方が重要だと思う。
うーん……移動中は結界を防がず、途中で休み休み進む方が良いか。本当にヤバくなったら、結界を維持したまま先に進もう。それで文句を言われたら素直に諦めて撤退すれば良い。
「ところで、チコ殿は問題ないのでありますか?」
「うん? うん、特に何も感じませんよ。何ででしょうね」
ほぼ確実に破壊の精霊の権能の所為だと思いますがね。
……あれ? それだと俺、この幻聴と不快感による精神攻撃を体感出来ないんだが、大丈夫なのか?
「問題ないですねー」
「そうか、問題ないのか」
俺はうんうんと頷きながら、背中の剣を抜き放って声の主に突き付ける。剣に斬り裂かれた空気が風となって流れ、声の主の美しいブロンドの髪をふわりと揺らした。
「うわ、早いっ。聞いていた以上ですねー」
「そりゃどうも……」
そう言うと、喉元に刃を突き付けられても気負った様子すら見せないストロベリーブロンド美人がニッコリと微笑む。何時の間にか現れていた美人にココが威嚇の唸り声を上げ、他の三人も即座に戦闘態勢に入った。
「結界、一度も揺らがなかったのに……」
セナイダは自分がコントロールしている結界を気付かない内に突破された事に驚愕しているらしい。そんな事を可能とするのは、結界を構成する魔力に干渉するという超高等魔力操作技術を身に着けた者だけだからだ。エルでさえ少しは集中しなければ出来ない芸当である。
それを俺に気付かれずにやり遂げ、思考をも覗く存在。更に言えばこの美人、気配を全く発していないにも関わらず体からは濃密な魔力が漂っている。ちぐはぐな事この上ない。
「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよー」
「警戒せざるを得ないんですがそれは」
「あらあらー、それなら自己紹介から始めましょー」
のんびりとした口調でそう言った美人は、スッと一歩前に進み出る。警戒していた三人の口がぽかんと開き、ココが更に警戒を強めて唸った。
その反応も当然だろう。何故ならこの美人、俺の剣を擦り抜けたからだ。
「それではそれではー。初めまして、私は火炎の精霊ですっ。これからあなた方に試練を課したいと思いますっ」
俺達の前に立った火炎の精霊は、そう言ってぴょこんと頭を下げた。




