ひとつの選択肢
あらすじ
熾天使が三人になった
前回切られた所の内容は、いつか明かされます
マール王国王都から北西へ五十キロ。普段は雄大な草原が広がるその一帯は、武装した大量の兵――インバジオ帝国軍十九万、マール王国軍三十二万、グランテーサ王国軍二万、義勇軍二百、総勢五十四万二百という、史上類を見ないほどの大軍が埋め尽くしていた。その光景を言葉に表すとしたら、地が零、兵が十だろうか。
その軍勢の中に設営されている、神殿騎士と冒険者達が中心となっている義勇軍が集められている陣から少し離れた場所にある丘の上で、俺とエルは人の海を見下ろしていた。
「壮観ですね……」
「そうだな。この文明レベルでの動員数としては凄まじい量の兵だ」
「元より高かった農業技術に加えて、此処数百年で対巨獣対策も発展しましたからね。人口は相当増えてます」
ちなみに、ブルボン朝時代のフランスの動員数は、中世後期で四十万と言われている。それと前提に考えると、大半は訓練を受けただけの素人とは言え、たった二週間で此処までの兵を動員し、尚且つ人々の生活に影響を及ぼさないマール王国の豊かさが良く分かる。
そして、兵を大量動員出来るマール王国の影に隠れがちだが、良く考えるとインバジオ帝国の方も凄まじい。数こそ全軍合わせて二十万程度でマール王国に劣って見えるものの、それが全て常備軍となると話は別だ。二十万もの兵を常に養う事が出来る国力は、他の大国と比べても劣ってはいないだろう。
しかし俺が思うに、一番おかしい国はグランテーサ王国だ。この世界の移動速度を考えると、この二週間でグランテーサ王国が軍を派遣出来るのは国境近くの領地のみ。それに関わらず、派遣されて来た兵の総数は二万。本気を出したら、一体何処まで動員出来るのか……考えるだけでも恐ろしい。
「……これだけの人々を駆り立てなければならないほどの敵が、来るんですよね」
「リディアさんやオリヴィアさんの話を聞く限り、そうらしいな」
そう、三つもの大国が、此処までの大軍を国境を越えて集めている理由は、今日この場所に敵が現れるからだ。リディアさんとオリヴィアさんが簒奪者と呼ぶ者の眷属とも呼ぶべきその敵は、別の世界から侵攻して来るらしい。
今までも何度かこの世界に侵攻して来たその敵は、その都度侵攻地点を抑えた帝国軍に撃退されていた。しかし、今回の敵の出現位置はマール王国という大国の領土内な上に、規模も相当に大きい為、帝国単独での対処は不可能と判断。カタリーナ陛下に事情を明かして協力を要請し、共同戦線を展開したというのが現状だ。
オリヴィアさん曰く、この戦力に加えてエル、リディアさんが協力しても、今回の敵を撃退するのは難しいらしい。対個人戦闘に優れる俺が戦闘に参加出来ればまた違ったらしいが……。
『良いか? お前の体は既に限界に近い。暫く時間を置いて侵食されている体を休めなければ、濃縮付加を使うだけで動けなくなるだろう』
俺の脳裏に、精神世界に広がる破壊の精霊、その中に残っていた調和の精霊エルシエラ……の残滓の言葉が浮かび上がる。此処で示されている暫くは、二週間なんて短い期間では無いだろう。少なくとも、数ヶ月程度の時間が必要である事は間違いない。その間、俺は濃縮付加を使う事が出来ない。
濃縮付加が使えない俺の戦闘力は、濃縮付加を使う帝国軍の戦奴にも劣るだろう。流石に簡単にやられたりはしないだろうが、巨獣クラスの敵に勝つ事は不可能になる。一般的な兵力としては強力な部類には入るが、リディアさん達が求める戦力にはなれない。
全く、もどかしい。そう思いながら隣を見ると、エルが俯いて何か悩んでいるようだった。
「どうした?」
「え? あ、いえ。少し考え事をしていまして」
顔を上げたエルの表情は、普段の無表情ではなく酷く暗い物だった。となると、彼女が思い悩んでいる事柄は相当深刻なのだろう。それが一体何なのかは分からないが、こんな表情を見せ付けられると虐めたくなってしまう。
「んにゃっ!?」
「眉をもう少し上げて……口角を軽く上げて……目はもっと開いて、どうぞ」
エルの顔のあちこちをつまんで調整し、捏ね繰り回し、完成したのが無表情。色気もクソッタレもない表情ではあるが、やっぱりエルにはこれが一番似合う。
表情の矯正を終えた俺は、口角を軽く上げ、笑みを作ってエルの額を軽く弾いた。
「あんまり根を詰め過ぎるなよ。いざって時は力になるから」
――折角俺という人間を籠絡したんだから、どんどん利用しろ――
「チコ……はい」
最初こそキョトンとしていたエルだが、無事に意図を察したのか、すぐに元の表情に戻って頷く。少しばかり嬉しそうな気配を滲ませている事に、俺の頬も自然と緩んだ。
「……あの、ち――」
「おぉ! そこにいるのはチコ殿にエルネスタ殿!」
「ん?」
少しだけ緊張する仕事を終えて一息吐いていると、陣地の方から聞き覚えのある大声が聞こえて来た。視線を向けた先に見えたのは、重そうな全身鎧を物ともせずに陣地の方から走って来る長身の男。熱血イケメン細マッチョ攻略対象侯爵家嫡男、エウヘニオ・マラヴェンターノさんだ。
……一瞬、隣に立つ御仁から物騒な気配が放たれた気がしたが、気にしない事にした。世の中には知らなくて良い事が沢山あるのだ。
「エウヘニオさん」
「エウヘニオであ……本当にチコ殿であるか?」
失礼な。
「何はともあれ、息災そうで何よりなのである!」
「エウヘニオさんもお元気そうで」
「フハハハハ! 当然なのである! 子猫二匹の喧嘩から逃げる事が出来た故に!」
最後ので全部台無しだよ。
話を聞くと、どうやらマラヴェンターノ侯爵家はマール王国との国境に近い場所に領地がある為、今回援軍を出す事になったらしい。エウヘニオさん自身が出張って来る必要は別に無いのだが、実績作りの為にわざわざやって来たとか。
「エウヘニオさんも大変ですねぇ」
「問題無いのである!」
面倒臭い事を頑張っているエウヘニオさんにそう言うと、懐かしく思える暑苦しい笑みで返された。流石はお貴族様、俺だったら絶対に投げ出している事も平然とやってのける。
その後、暫くエウヘニオさんと雑談に興じ、時間を潰す。話に参加出来ないエルの機嫌が段々と下がって行くのが少しだけ怖かったが、それは後でフォローをすれば良いだろう。
何時敵が現れてもおかしくない状況にしてはのどかな風景ではあるが、オリヴィアさんによれば現れる兆候は分かりやすい上に時間も掛かるらしい為、少なくともこの程度の息抜きなら問題はない。寧ろそれすらも出来なかったら、緊張で上手く動けなくなっていたかもしれない。
今回の敵は、今までの敵――この世界の人間や魔獣、巨獣とは違う。異世界からやって来る神の尖兵。見るに耐えないおぞましい姿をしているという化物共の群れ……らしい。ファンタジーというよりホラーだってオリヴィアさんが言ってた。
加えて、今の俺は濃縮付加が使えない。切り札である超越付加ではなく、巨獣と渡り合う時にも必要だった方法が使えないのだ。劣るパフォーマンスで未知の凶悪な敵と渡り合わなければならない。そんな状況、誰だって不安になる。
「それでは、某は陣の方へ戻るのである!」
「はい。気を付けて下さいね」
程ほどで世間話を終え、丘を下っていくエウヘニオさんを見送る。その姿が人に紛れて見えなくなる所まで見詰めてから、俺は視線を隣でプンプンしているエルに向けた。
「拗ねてる?」
「いえ、別に……出鼻を挫かれたので、ちょっと機嫌が悪くなりましたけど」
「では機嫌が悪くなったお嬢様は何をお望みで?」
片目を瞑りながらそう聞くと、エルは気配を緩んだ物へと変えながら静かに身を寄せて来た。えぇと、俺は一応あなたに振られた身なのですが……。
「怖いんでしょう?」
俺の耳に口を寄せたエルの囁きに、俺の肩がビクリと跳ね上がった。
「普段通りに戦えない上に、相手は未知にして強大。味方が危機に陥っても助けるのは難しい、それどころか自分が死ぬかもしれない。そう思っているんでしょう?」
数多の巨獣を滅ぼし、魔王を打ち破り、数多の地に濡れた化物剣聖と呼ばれる俺に向けるには、誰もが不適切だと思うであろう言葉を並べるエル。だが、俺はその言葉を否定する事も、肯定する事も出来なかった。
……何故なら、全部エルの言う通りだからだ。敵が恐いし、知り合いが死ぬのが怖いし、自分が死ぬのが怖い。しかし、それを言葉に出して認めたくはなかった。
「図星、なんでしょう?」
無言で立ち尽くす俺の肩に置かれたエルの手がやけに熱く感じる。湧き上がる唾を嚥下するのも難しい。心臓がバクバクと早鐘を打っている。認めたい、でも認めたくないと、矛盾する思考がグルグルと頭の中を駆け巡る。
「大丈夫ですよ。その思考は至って普通の物です。チコが思い悩む必要はありません」
「……だ、だけど」
「大丈夫です」
抱いている恐怖――本来は抱いてはいけない感情を肯定されて、やはり否定しようとして開いた口はエルの強い言葉で封じられる。心なしか、肩に置かれた手に籠もる力が強くなった気がした。
エルの顔が更に近くなる。呼吸による小さな空気の動きですらも敏感に感じられるほどに近付いて、そしてそっと囁いた。
「逃げても良いんですよ、チコ」
「……え?」
エルの手に篭る力が更に強くなる。耳を擽る囁き声が更に近くなり、微かに揺れる声帯の響きすらも鼓膜を揺らす。
「本来なら、これは主――神と、その眷属である天使で対応すべき事です。リディアとオリヴィアが動いていなければ、チコも、エウヘニオさんも、その他の人達も、何時も通りの時を過ごしていた筈なんですよ」
「ですから、恐怖を押し殺してまで危険を冒す必要はないんです。今すぐに安全な所まで逃げて隠れていても、誰も責めません。戦う事が難しいチコが逃げた事を責める人は、私が許しません」
「相手だって馬鹿では無い筈です。わざわざ逃げた人間を追いかけるなんて事はしないでしょうし、そんな事をする暇があったら戦力を削りに来るでしょうから、今逃げれば安全です」
「さぁ、逃げて下さい。私なら大丈夫です。リディアとオリヴィアもいますし、これでもチコを除けばこの世界最強の女ですからね。帝国軍が対応出来ない敵でも、鎧袖一触で蹴散らしてやりますから」
甘い誘いが、俺の脳髄を静かに侵して行く。それはまるで悪魔の導きのようで、聞いているだけで天にも昇るような心地に沈められる、優しさに溢れた罠。それは酷く逆らい難い物で、今にも頷きたくなる衝動に駆られてしまう。
――だが、俺はそれに黙って頷けるほど弱い人間でも、強い人間でもない。
「……戦うエル達が負けたら、どうなるんだよ」
「…………」
俺の問いに、エルは頭を軽くぶつける事で答えた。大丈夫と言わないその行動が示すのは、戦いに赴く者なら誰にだって想像が付くという事。即ち、死ぬという事だ。
現実に絶対はない。幾らエルが強いとしても、負けない、死なないという保障にはならない。俺が本気を出せないとしても、エルを守る事が出来るかもしれない。一人戦いから逃げ出す事で、戦況が引っ繰り返るかもしれない。それを知っている俺の答えはひとつしかない。
「逃げないよ、俺は。残って戦う」
「チコ……」
体を離したエルの表情が、微かに歪んで揺れた。どうやら俺は、予想以上にこの無表情な熾天使の心の奥に入り込めていたらしい。その事に小さな喜びと既に振られている悲しみを覚えつつ、俺は視線を異様な気配を発し始めた方へ向けた。
人々が陣を敷いている場所の更に向こう側。その場所の一部分が、まるで亀裂でも奔っているかのようにズレていた。繋がっているべき部分が繋がっておらず、まるでそこにもうひとつの空間があるように見える。
いや、事実そこにはもうひとつの空間があるのだろう。この世界とは違う、異世界の空間がそこに無理矢理割り込んで来ているのだ。その腹に強力な軍勢を抱えて。
やがて、ズレた空間がバキリと音を立てて裂ける。ガラスを爪で引っ掻いたような奇怪で背筋が凍るような音を響かせながら、異世界の空間とこの世界の空間との間を強引に繋げ、広げて行く。
その光景を隅々まで観察しながら、俺はエルに語り掛けた。
「それに、あの向こうからやって来る奴らに対しては丁度良いハンデだろ?」
「……それもそうかもしれませんね」
俺に密着したまま世界が現れる瞬間を見ていたエルは、そう言って小さく笑う。
次の瞬間、それが裂け目の中から頭を出した。
粘つくような液体を垂れ流しながら、SAN値直葬待ったなしの異形の塊が裂け目を乗り越えて来る。生理的嫌悪感を覚えずにはいられない外見と色を持った怪物が、広がり続ける裂け目からぐちゃぐちゃと転がり落ちる。
一目見るだけで分かる。あれは異物だ。この世界に存在してはならない害悪だ。
背中の愛剣を抜き、体中に魔力を巡らせて身体強化を付加する。隣のエルも魔力を滾らせ、戦闘態勢に入る。陣の方も、既に展開を開始した先鋒に続いて後詰が展開を始め、全ての場所で戦闘準備が進んで行った。
「さて、目標は生き残る事だな」
「当然ですね。ま、私達が死ぬ事はないでしょうけど」
「おい、フラグを立てるな」
「あら、こういう時はフラグを立てた方が生き残りやすいんですよ?」
エルと軽口を交わし合いながら、敵のいる方へ丘を下る。うん、やっぱり俺達にはこういう掛け合いが似合っている気がする。
「じゃ、俺もフラグを立てておくか」
「どんなネタにします?」
小さく深呼吸をして緊張を吐き出し、頭の中で敵の攻撃をシュミレートして戦術を立てる。自然と吊り上る口角に自分で呆れながら、俺は膝を軽く屈めた。
「帰って来たら、エウヘニオさんに邪魔されて言えなかった事を教えてくれよ」
返事を聞く前に地を踏み、加速。陣中を駆け抜け、軍勢の先頭に躍り出る。敵は異世界からの侵略者、簒奪者の醜い手下共。
「さぁ……戦ろうか」
そして、戦争が始まった。
次回予告
「くッさッ!?」




